壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 日曜日の正午過ぎ。

 何年もまともな改修がされていない、年季の入った古くて小さな駅に玲瑠は到着した。

 真上に昇る、まだ夏の太陽が線路を照らしていて、じっとりと汗がにじむ。

 無人の自動改札機を通り抜ける人の波はまばらで、カンカンと鳴り響く踏切音が澄んだ青空に抜けては消えていく。

 玲瑠は自動販売機の横に立ち、SNSを覗いて時間を潰していた……でも、意識は画面の文字を追っていない。文字を読める余裕がなかった。

 今日はリヒトと一緒に、画材を買いに繁華街へと出かける日だ。

 三日前に約束をして、カレンダーの数字を睨んで早く時が過ぎろと祈り続けて、やっと訪れた特別な一日。

 待ち合わせの時間が近づくにつれ、嬉しさと心細さが交ざり合った緊張がピークに達していく。

 玲瑠は着ている服装へそっと視線を落とした。

 数日前、なけなしのお小遣いをはたいて近所の大型スーパーで買った、セール品の夏物の白いワンピース。直感でかわいいと一目惚れした、一番のお気に入りの服だ。

(変じゃないかな? 安物ってバレないかな? 子どもっぽく見えないかな?)

 玲瑠はどうしても自分の姿に自信が持てず、そわそわとスカートの裾をつまんでは広げ、また戻す。

 大人の色気が漂うリヒトの隣に並んだとき、あまりにも不釣り合い見えてしまわないだろうか。そんな不安が波のように何度も押し寄せる。

「レイルちゃん、お待たせ。遅くなってゴメンね」

 不意に頭上から降ってきたのは、この数日ですっかり耳に馴染んだ、おおらかな低い声。

 ハッと顔を上げる……普段とはまったく違うリヒトの姿に息を飲んだ。

 店番をしているときに羽織っている、あのダボッとした毛玉だらけのカーディガン姿じゃない。
 今日の服装は、がっしりした肩のラインが浮き出るネイビーの半袖Tシャツに、落ち感のある黒のワイドパンツを合わせている。
 少し癖のある長めの黒髪もワックスでツンツンにセットされていた。

 まるで、ファッション誌の表紙を飾るモデルが抜け出してきたかのようなカッコよさだ。

(リヒト先生も私のためにオシャレしてくれたんだ……)

 いつもの親しみやすい近所のお兄さんとは違う、どこか凛とした大人のお兄さんの雰囲気が全身から漂っている。

「ん? レイルちゃんどうしたんだ? 待たせてゴメンな」
「えっ、あっ、ううん、全然待ってないです! 私も今きたところなので!」

 見惚れて固まっていたことを悟られないように、大慌てで手を振る。

「そっか、よかった。それじゃ行こうか」
「はい!」
「レイルちゃん。そのワンピースすごく似合ってるよ。かわいいね」
「――っ!? あっ、ありがとう……ございます」

 不意打ちの褒め言葉に、顔面が一瞬で沸騰したように熱くなった。耳たぶまで真っ赤に染まっていく。

 恥ずかしさに満ちた真っ赤な顔をリヒトに見られたくなく、玲瑠は半歩後ろにつき、広い背中を追うように歩き出した。

◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

 ホームで並んで立ち、やってきた二両編成の電車に乗り込む。

 田舎のローカル線だけど、休日ということもあって、繁華街へ向かう車内はそれなりに混み合っていた。ふたりは隣同士、吊り革が並ぶ座席の前で立つ。

 ガタゴトと車体が大きく揺れるたび、ノースリーブから覗く玲瑠の肩がリヒトの腕にかすかにふれる。そのたびに胸がドクドクと甘い高鳴りを起こす。

 車窓の外を流れていく住宅街の景色を眺めて気をまぎらわせ、なんとか平静を装おうとする。

 そして、何回か乗り換えを挟み、電車に揺られること約一時間。目的地の、住んでいる地域で一番大きなターミナル駅に到着した。

 慣れない人の波に揉まれながら階段を下り、改札を抜けて天井の高い広大なコンコースに出る。

 どこを見渡しても人、人、人。目が回りそうだ。気を抜いて歩けば、すぐに誰かと肩がぶつかってしまいそうなぐらいの賑やかさに満ちている。

「人が多いな。はぐれないように気をつけてね」
「はい!」

 リヒトは歩幅を気遣うようにゆっくりと歩き、玲瑠は置いていかれないようにリヒトの隣を歩いていく。

(私とリヒト先生、周りからはどう見えてるんだろう……)

 人混みの中を並んで歩いていると、周囲の視線が急に気になり始めた。

 手をつないで楽しそうにおしゃべりしながら歩く、カップルらしき男女が何組もすれ違っていく。

 ガラス張りの洒落たカフェでは、楽しそうに笑い合う若い男女の姿も目に入る。

 すれ違う男女をカップルと認識しているということは、周りの人たちが玲瑠とリヒトを見たとき、仲のいい恋人同士に見えているんじゃないか。

 そう思った瞬間、むずむずした痒さが全身をかけめぐり、ふわふわと浮足立ってリヒトについていくのが精一杯な歩様になる。

(私たちつき合ってるわけじゃないのに……!)

 心地がいい照れくささに包まれながら長いコンコースを抜け、高層ビルが立ち並ぶメインストリートを進む。

「着いたぞ」

 気づいたときには、空高くそびえ立つ老舗大型デパートの前に到着していた。

 自動ドアが開くと、ブルっと震えるひんやりとしたエアコンの冷気が肌を撫でる。
 華やかな香水の香りが混ざり合う一階のコスメ売り場を通り抜け、エレベーターで一気に最上階を目指す。扉が開き、広大なイベントスペースに足を踏み入れた。

「わああああ……! すごーい……!」

 玲瑠は目に飛び込んできた絶景に、顔を左右にブンブンっと振って子犬みたいに目を輝かせる。

 広大な特設イベントスペースでは、全国の大手文房具メーカーや有名な個人作家が一堂に集結する、文房具の大型イベントが開催されていた。

 どこを見渡しても魅力的な文房具がずらりと並んでいる。

イベント限定の凝ったデザインをしている事務用品や、蛍光灯の光を受けて宝石みたいにキラキラと輝くガラスペン。中世ヨーロッパのファンタジー映画でしか見たことがない、蝋を溶かして手紙に封をするシーリングスタンプ。昨今SNSで人気が再燃した、ほぼ通貨と言っても過言じゃないぷっくりとしたボンボンドロップシール。

 空間全体が文具ファンの熱気に満ちていて、その場にいるだけでお腹がいっぱいになりそうだ。

「あっちだな」

 リヒトは迷いのなく歩き出し、賑わう人混みを縫って会場の奥へと進んでいく。玲瑠はその大きな背中を必死に追いかけた。

「ここだ」

 リヒトが足を止めたのは、今回のお出かけの大本命、大手マスキングテープメーカーの特設ブース。リヒトが挑もうとしているコンテストの主催メーカーだ。

 リヒトがブース内をさらに進んでいく。

「おおおお! すごい! マステの山だぁ!」

 そこには何台もの長机が並べられ、巨大な木製トレイがどんと鎮座していた。そのトレイの中には、あふれんばかりのカラフルなマスキングテープが山盛りに積まれている。

『マスキングテープ詰め放題コーナー』っと書かれたポップが机に貼られている。

 この宝の山から自由に選べると思うだけでワクワクが止まらない。

「いい子たちがそろってるな。こんな詰め放題のワゴンで安売りされるような存在じゃないのにもったいない。今から俺が救ってやるからな」

 リヒトは山盛りのマスキングテープたちに向かって、愛おしそうにボソリと呟いた。

 トレイの中にぐちゃぐちゃに入れられているマステたちは、おそらく全国の様々な店で売れ残り、メーカーに回収されてセール品としてもう一度売られたものだろう。

 くすんだニュアンスのカラーや、なんの植物か判別できないような謎の柄、地味なパブリックデザインの柄たちが雑多に積み上げられていた。

 その売れ残った子たちを見つめていると、静かなため息が漏れる。

(この子たちも……私と同じなんだ……)

 この世に生まれてきたのに誰からも選ばれず、売れ残りというラベルを貼られて処分を待つだけの存在。

 どこにも居場所がなくて、世界の片隅でひっそり息をひそめている玲瑠自身の姿と、トレイの中で肩を寄せ合っているマステたちの姿が、痛いほど重なって見えた。

「詰める作業をしていくぞ。ここにあるやつ、全種類を一個ずつカップに詰めてくれ」

 リヒトは詰め放題の専用のプラスチックカップを五つ手に取り、ひとつを玲瑠に手渡した。

「えっ、全種類ですか? こんなにあるのに?」
「おう。全種類だ。今回俺が描く絵のコンセプトは、売れ残りのマステたちだけで描いた絵だからな。売れ残りっていう貧弱なカードだけで、逆転できるってことを見せてやろうな」

 リヒトは得意気な笑顔を見せる。

「はい! 見せてやりましょう!」
「その意気だ。それじゃあ俺が寒色系を詰めるから、レイルちゃんが暖色系を詰めてくれ」
「任せてください!」

 玲瑠は張り切って手を伸ばし、夢中でマステをカップへ詰めていく。

 丸いロールの角度を微調整し、隙間をミリ単位で埋めるようにして、ひとつひとつ丁寧にカップへと押し込んでいく。

 リヒトも指先で優しく、丁寧にマステを扱っていた。

 その真剣な職人の横顔を見つめながら、またしても甘苦い感情が胸をかすめる。

(いいな……この子たちは。リヒト先生に救ってもらえて)

 誰の目にも留まらなかった売れ残りが、リヒトの魔法の手によって、これから誰もが息を飲むほどの美しいアート作品へと生まれ変わっていく。
 そして、命を吹き込まれた売れ残りのマステたちは、コンテストという煌びやかな舞台へと連れていってもらえるのだ。

(でも、私とこのマステたちは全然ちがう)

 人間の玲瑠はどうだろうか。

 マスキングテープみたいに、リヒトが生きている証明をしてくれるわけじゃない。

 玲瑠自身から声を上げ、アピールしないと誰かに選んでもらえない。そして、これからの人生、声を上げたところで、誰から必要とされるビジョンが見えない……いや、違う。努力しても誰からも必要とされないことがわかっているから、戦いから降りたのだ。

(今はただ、リヒト先生に必要とされていたい……)

 その思いだけにしがみつき、玲瑠は暖色系のマスキングテープをカップに詰める作業に没頭した。リヒトから頼まれた役目をしっかり果たすために。

 やがて、限界までギッシリ詰め込まれたカップがいくつも出来上がり、全種類の柄を一つずつ回収し終えた。
 レジで会計を済ませると、リヒトは長いレシートを受け取った。

「ふぅ、大収穫だな」

両手に重たい紙袋を下げ、リヒトが満足そうに息を吐く。

「目的の物は買えたし、せっかくだから他のブースも覗いていこうか。そのあとは街まで出てきたんだし、他の文房具ショップにでも行こうか」
「はい! 行きたいです!」

 玲瑠のはじけるような返事が、賑やかな会場の熱気に溶けていく。

 リヒトと過ごす特別な一日は、まだまだ終わらない。