壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 藍色の暖簾をくぐった先の、しーんと静まるアトリエ。

 リヒトはパイプ椅子を引き寄せて、玲瑠と向かい合うようにゆっくり腰を下ろした。

 背中を丸め、ダラッと前かがみになっている。いつもの大人らしい余裕も、憧れのお絵描きの先生としての頼もしさも、完全に消え失せていた。

 リヒトが力を抜いた顔を上げる。

「それじゃあ……俺の情けない悩みでも聞いてもらおうかな。でもレイルちゃん、これ絶対にネットには流さないでくれると嬉しいな。こんな弱いところを見せて、同情でいいねをもらうような惨めなことはしたくないんだ」
「はい! 絶対に誰にも言いません!」

 リヒトの口からこぼれ落ちる言葉をひとつも聞き漏らさないよう、膝の上で細い指先をぎゅっと白くなるまで握りしめた。

「俺は高校を卒業してすぐ、建築会社に入社したんだ。そこが絵に描いたような典型的なブラック企業だったんだ」

 紫色になりつつあるガサガサな唇から、かすれ切った声が出る。

「毎日毎日、上司からの人格否定やパワハラが当たり前で、朝礼のたびに全員の前で怒鳴り散らされるのが日常茶飯事だった。お前はなんのためにここにいるんだ、お前は給料泥棒って怒号を浴びせられて、それでも一人前の社会人になるには耐えるしかないって、必死に自分へ言い聞かせてたんだ」

 言葉の暴力で殴られ続けるその感覚は、玲瑠も痛いほどわかる。

 衣琉華が酒に酔ってぶちまける「あんたなんて産まなきゃよかった」「どうせまともな人生なんて歩めない」という呪いの暴言たち。

 リヒトもまた、逃げられない場所で心を削り取られていたのだ。

「仕事も残業につぐ残業だった。現場から戻ってから図面や書類を作って、ひどい日には朝の五時過ぎまで机に向かって、まぶたの裏がチリチリ焼けるような疲労感と吐き気に耐えながら仕事を続けてた。家に帰れてもシャワーを浴びて眠るだけで、休日も疲れてずっと寝たきりだった。好きなことをする時間なんて一秒だってなかった。ただ会社の歯車として消費されるだけの生活が、三年も続いたんだ」

 リヒトは遠くを見つめる目をしたまま、重たい息を吐き出した。

「ただ生きるためだけに毎朝無理やり体を起こして、尊厳をすり潰して……でも、三年目の冬の朝、家を出ようとした瞬間に突然涙が止まらなくなって、足が一歩も前に進まなくなったんだ。とうとう心がぽっきりと折れて、そのまま退職代行を使って逃げるように会社を辞めたんだ」

 過去の傷に耐えているリヒトの様子に、玲瑠も思わず唇を強く噛みしめる。口の中に、かすかな鉄の味が広がった。

「会社に行かなくなってからも体がビクとも動かなくてさ。精神科に行ったら、うつ病って診断されたんだ。あの頃は本当に地獄だったな」

 リヒトは胸元のカーディガンの生地をぐっと強く掴んだ。心臓の奥にある見えない傷口を押さえるように。

「お風呂に入る気力もなくて、入る気になったって思ったら、お風呂場まで行ったのに栓を閉め忘れて……気づいたら、湯すら張ってなかったんだ。あのときは、なにもできない自分自身に絶望してたよ」

 重い症状を語るリヒトに、玲瑠は声もかけられない。

「朝目が覚めると、全身が鉛に変わったみたいに重たくて、布団から這い出るだけで息が切れたり、夜は目を閉じると上司の怒号が聞こえたりして、心臓がバクバクするんだよ」

 症状を想像するだけで胸が苦しくなってくる。

「体調が少しマシになったときは、大好きなお絵描きでもしてみようかなって思ったけど、鉛筆を持った瞬間、絵の描き方が思い出せなかったんだ。それがうつ病になってからの一番のショックだったな」

 リヒトが切々と語る地獄の風景は、スマホの画面をスクロールしながら目にしてきたうつ病の症状そのものだった。

 SNSで流れてくる闘病アカウントの投稿を見ていたときは、いつか玲瑠自身にも訪れる病気として理解しつつも、文字で伝えられる情報に過ぎなかった。

 それが今、リヒトの震える声と、絞り出すような息遣いと、そして苦痛に歪むリアルな表情が伴うことで、生々しい質量となって玲瑠にのしかかる。

「それから一年ぐらい療養して、どうしても正社員として働く勇気が出なくて、派遣とか日雇いとか、責任が軽いバイトを転々としてきたんだ。でも、最初に勤めた会社で心も体も壊れたみたいで、どこに行っても長く続かないんだ。親父の言う通り、三十近くにもなって情けないよな、俺」

 リヒトは肩をすくめ、力なく自嘲気味に笑った。

 玲瑠も、暗い小部屋でスマホの画面をぼんやりスクロールしながら、横たわってリヒトみたいに無の時間を過ごしていた。衣琉華がいるときは、責め立てるキンキン声を、早く嵐が過ぎ去ってくれと祈りながら耐え抜いていた。

 そして、日々生きること自体に無気力感を覚えている。

 リヒトの語るうつ病の症状は、玲瑠と同じ痛みの色をしていた。

(でも、私なんかと比べていいのかな……)

 共感と同時に、強烈な後ろめたさが襲う。

 リヒトは社会に出て、拷問並みの長時間労働とパワハラに潰された本物の被害者だ。

 対して玲瑠はどうだろうか。

 社会に出て過酷な労働をしたわけでもなく、ただ勉強するのが嫌で不登校になった存在。
 すぐに感情的になる親に怒鳴られて落ち込むことはあっても、まともな道を選択しなかった娘に母親が発狂する気持ちも、どこか理解できてしまう。

 そんな自堕落な人種が、リヒトの壮絶な地獄と同列に並んでいいはずがない。抱える悩みなんて、ただの甘ったれた十代の現実逃避に過ぎないんじゃないか。

 自虐的な迷いが渦巻く中、リヒトの悩みを聞きたいと言った手前、なにか言わないといけないと思って、無理やり声を振り絞った。

「リヒト先生、すごく辛かったんですね。でも、リヒト先生はこんなに絵が上手いんですから、これからイラストレーターとして食べていけるんじゃないですか? 有償の依頼だって受けてるんですよね?」

 リヒトには何万人ものフォロワーを魅了する才能がある。そう純粋に信じた必死のフォローに対して、リヒトは悲しげに首を横に振った。

「プロの道はそんな甘くないんだ。俺より上手なイラストレーターさんなんて星の数ほどいるんだから、絵一本で食っていくなんて夢のまた夢なんだ」

 リヒトは天井の蛍光灯を虚ろに見つめ、ポツリと続ける。

「俺は子どもの頃からお絵描きが大好きで、隙さえあればチラシの裏に絵を描いてたんだ。本当は画家やイラストレーターになりたかった。でも、父親が昭和気質の堅物で、男が美大や専門学校なんて行くな、そんなのは遊びだって一蹴されたんだ。だから親の言う通り工業高校に行って、堅実な建築会社へ進むしかなかったんだ」

 顔をゆっくりと伏せるリヒト。

「へっ、マステ絵と人生って本当にそっくりだよな。どっちも配られた手札で戦うしかないんだ。俺には最初から、絵の道に進めるような強いカードなんて一枚も配られてなかったんだ。いいよな、芸術に打ち込める環境を与えられたやつらは……まあ、おばあちゃんの家に逃げ込めて絵を描けてるだけ、俺は運がいい方か、ハハッ」

 配られた手札で戦うしかない。

 ここにきて、リヒトが口にしたその言葉が、新たなトゲとなって心に突き刺さる。

 ほんの数十分前まで、絵に没頭できる環境にいるリヒトのことを、配られたカードが強かったことを自覚していない上の世界の人間だと思っていた。

 でも、現実はまったくの別物だった。

 親に夢を叩き潰され、二十代半ばまで絵を描く機会すら奪われてきた不遇の人生。幼い頃から液晶タブレットやパッドを与えられ、SNSで若い年齢アピールをして評価されるクリエイターたちとは真逆の境遇。

 リヒトもまた、玲瑠とは違う地獄の中で苦しんでいた。

「自分の意志を殺して、親の言う普通の道を進もうとしたら、その普通のルートすら進めなくなってた。だったら、最初から親の反対を押し切ってでも絵の道に進めばよかった……俺の人生って、一体なんだったんだろうな」

 リヒトは歯を食いしばり、カーディガンの裾を握る拳をさらに強く固く丸めた。

 玲瑠の母親の衣琉華は、酒に溺れて不満を撒き散らして人格を否定しながらも、スマートフォンは与えてくれ、干渉は雑で放置気味だ。
 対してリヒトの父親は、子供の人生に過剰に踏み込み、自分の価値観でガチガチに支配しようとするタイプだ。

 特性は違うけど、どちらも子供の尊厳を根底から踏みにじる敵ということに変わりはない。

「親父はいつだって、うつ病なんて気の持ちようだ、甘えだ、俺たち氷河期世代はもっと厳しかったって吐き捨てるんだ。百歩譲って甘えでもいい。普通に働いてる人と比べたら甘えかもしれない。だったら……こんな甘えた人間のこと、さっさと殺してくれよって毎日思うんだ。社会のお荷物になって惨めな思いをするぐらいなら、今すぐ楽にしてくれよ……」

 切実な強い語気で吐き捨てられた言葉。

 重い話と覚悟していたとはいえ、女子高生の玲瑠にとってテーマがあまりにも重すぎた。

 視界がぐらぐらと揺れる、めまいさえもする。

(こういうとき、どうすればいいの……)

 夜な夜なSNSで蓄えてきた、うつ病患者への接し方の知識が頭を駆け巡る。

『太陽を浴びて運動しよう』
『規則正しい生活をしよう』
『よく寝てよく食べよう』

 なんてチープなアドバイスは、うつ病当事者じゃない玲瑠でも効かないのはわかる。
 それができないのがうつ病であって、そんな簡単なことで治っていたらこの世にうつ病患者なんていない。

『頑張れ』
『きっと良くなるよ』
『生きていればいいこともあるよ』

 という安易な励ましは、相手の苦しみを否定し、さらに追い詰める凶器になりかねない。

『カウンセラーに相談してみたら』
『薬を変えてみたら』
『新しい環境に身を置いてみたら』

 なんて選択肢は、きっとリヒトは試し尽くしている。

『好きなことからしよう』
『できることからしよう』
『働くのもアルバイトからにしよう』

 この助言は、リヒトは経験済みだ。

 SNSの文面で現れるうつ病患者じゃない、本物のうつ病患者を前にして、ネットの知識は一ミリも役に立ちそうにない。

(苦しい思いをさせちゃった……聞かなきゃよかったのかな……)

 激しい後悔が波のように押し寄せる。

(でも……リヒト先生を助けたい! リヒト先生のためになりたい!)

 生まれて初めて誰かを救いたいと強く願った。その思いが、ごちゃごちゃした理論や知識を吹き飛ばす。

 ガタッと、椅子が大きくうなる勢いで立ち上がった。
 一歩踏み出し、パイプ椅子に座ってきょとんと見上げているリヒトの前に立つ。

「レイルちゃん?」

 名前を呼ぶリヒトに向かって、そっと両腕を伸ばした――少し乱れた黒髪に指先を沈め、リヒトの頭を胸の中へと引き寄せて、体温をわけ与えるように、優しく抱きしめる。

「レ……レイルちゃん? どうしたんだ?」

 戸惑う声が胸の中で響く。

「ゴメンなさい、リヒト先生。私、ネットで得た知識で、リヒト先生の悩みを解決できないかなって思ってましたけど……いざ本当のうつ病患者から相談を受けたら、なんてしゃべればいいのか全然わからなくて……リヒト先生に辛い思いをしゃべらせて、さらに辛くさせちゃったかなって思って、ゴメンなさい」

 玲瑠は割れ物がこれ以上壊れてしまわないように、さらに腕に力を込める。

「だから、こうやって抱きしめることぐらいしかできなくて……抱きしめて慰めることぐらいしかできなくて……なにもできなくて、ゴメンなさい」

 目頭が熱くなり、熱いものがこぼれそうになる。

 ちっぽけで弱い玲瑠の力では、リヒトの深い傷は癒せない。だから、同じ雨の中で一緒に震え、少しでも温めてあげることぐらいしかできなかった。

「ありがとなレイルちゃん。俺のこと心配してくれただけですごく嬉しいよ。俺がしゃべった過去は、今は別に辛いって思ってないから気にしないでくれ」

 リヒトの大きな手が、玲瑠のほっそりとした背中にそっと添えられた。骨張った手のひらで、背中をぽんぽんと優しく叩いてくれる。

 その温もりにふれた瞬間、さらに涙がこぼれ落ちそうになった。

 泣いちゃダメだ。今はリヒトを癒そうとしているのだから。

「俺の痛みは俺のものだから、レイルちゃんは気にしなくていいよ。寄り添ってくれただけで十分救われたよ」

 慰めようとしたのに、逆に気を遣わせてしまっている。
 情けなくて立場がない。

「そういえばレイルちゃん」
「はい」
「レイルちゃんは……えっと、ハハッ、女性にこんなこと聞くの失礼かもしれないけど、レイルちゃんって何歳なんだ? すごく芯が強い人で、人のことを気にかける優しい人で……もしかして俺より年上か? さすがに三十歳ってことはないよな。大学三年生ぐらいか?」

 リヒトが話題を変えてくれた。この重たい雰囲気から抜け出すチャンスだ。

「十七歳です」
「えっ——」

 背中を撫でていたリヒトの手が、ピタッと止まった。

 ゆっくりと体を押し剥がされる。リヒトは透き取った両目を丸め、玲瑠の顔をまじまじと見つめた。

「十七歳って……高校生なのか?」
「はい、高校生です」
「だったら、なおさら若い子が、こんな大人のドロドロした悩みなんて解決しようとしなくてもいいんだよ。高校生は自分のことだけを考えて、楽しい青春を過ごしてくれ」

 リヒトは眉を八の字に下げて笑った。

 少女を気遣うための優しい大人の仮面を、必死に被り直そうとしている。

 でも、玲瑠はもう知ってしまった。仮面の下にあるリヒトの孤独と痛みを。

 リヒトには気にしないでくれと言ってくれた。でも、今のリヒトを見ていると救いたいと思う愛情が湧いてしまう。

 荒んだ生活を送っている玲瑠にとって、大人のリヒトが提示する楽しい青春なんて、どこを探しても見当たらない。

 でも、マステ絵という美しい世界を創り出そうとするリヒトと出会って、モノクロだった毎日に鮮やかな色が重ねられていったときめきは間違いのない事実だ。

 リヒトと過ごすこの空間と時間こそが、間違いなく玲瑠の青春だった。

 やっと見つけられたこの青春を失いたくない。この人を、暗い海の底へ置き去りにしたくない。

 その衝動だけが玲瑠を突き動かす。

「ですが! 私はこの青春を全部使ってでも、リヒト先生のためになりたいんです! こんなに素敵な絵を描く人に苦しんでほしくないんです! 悩みが少しでも晴れた状態で、気持ちよく絵を描いてほしいんです!」

 揺るぎない、玲瑠の眼差し。

 リヒトはしばらくその強い視線を受け止めて黙っていたが、やがて、ふーっと長く温かい息を漏らした。

「ありがとな、俺のこと心配してくれて。その気持ちを伝えてくれただけで、十分に救われたよ。明日から気持ちよく絵が描けそうだ」
「話を聞くだけじゃなくて、他にできることはありませんか!?」
「女子高生が、こんな大人の情けない悩みに本気にならなくていいんだよ。それに、玲瑠ちゃんとは出会って十日ぐらいしか経ってない仲だし。こんな出会ったばかりのおじさんじゃなくて、学校の友達やカレシとの時間をもっと大切にしてくれよ」
「……私、学校に行ってないんです」
「えっ?」
「通信制の高校なんです。リヒト先生と絵を描くこと以外、楽しみがないんです……」

 勢いで秘密を明かすと、リヒトは「あっ、ふーん」っと呟き、なにか察したようだ。

「なるほど、だから平日の早い時間から店にきてくれたこともあったんだな。そうか……そうだったんだ」

 リヒトは不登校や通信制の高校生について追及せず、やわらかい素の笑顔に戻った。

 玲瑠が見たかったのはこれだ。大人のプライドで作った作り笑いじゃない、心の底から笑う天然の笑顔。

「それなら、レイルちゃんにひとつ頼み事をしてもいいかな?」
「はい! なんでも言ってください! 私にできることならなんでもやります!」
「ちょっと待っててくれよ」

 リヒトはカーディガンのポケットからスマートフォンを取り出し、ススっと操作をして玲瑠に差し出した。

 画面を覗き込む。

『第八回マスキングテープアートコンテスト』

 カラフルなマスキングテープでその文字がレタリングされている。

「年に一回、日本一のマステメーカーが開催するマステ絵のコンテストがあって、これに応募しようと思うんだ。もし最優秀賞を取ることができたら、メーカーから仕事をもらえたり、絵本の出版への道が開けたりするかもしれないから……レイルちゃん、もしよかったら、コンテストに応募する絵を手伝ってくれないか?」

 リヒトの瞳の奥に闘志の青い炎が燃え上がる。

 共鳴するように、玲瑠の胸の奥からも熱い火柱が立ち上った。

「はい! やります! 私、全力で手伝います!」

 近所迷惑極まりない、声量を間違えた大声が響き渡った。

「うん、よろしく頼んだよ。それじゃあ今日はもう遅いから、明日から作戦会議をしようか」
「こちらこそよろしくお願いします!」

 リヒトを助けたい。
 リヒトを救い出したい。
 いや、それ以上、リヒトを世界で一番輝く場所へ連れていきたい。

(私でもこんなこと思えるんだ……)

 誰かの人生のハイライトを画面越しに眺め、消費するだけの観客だった玲瑠が、生まれて初めて抱いた、自発的な夢と希望。

 リヒトという存在によって生まれ変わった志に、玲瑠自身が一番驚いていた。