壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 新たに書き始めた絵の半分ほどが終わった夕方。

 店内に差し込むオレンジの光が薄くなり、ガラス窓越しに見える外の景色がじわじわと紺色へと変わっていく。

(そろそろ帰らないと……)

 帰りたくない。だけど、このまま時間が過ぎれば衣琉華が仕事から帰ってきてしまう。
 家へ戻るのが少しでも遅れたら、ドアを開けた瞬間からあの殺気立った怒号と刺すような視線を浴びせられる。

 早く帰らないといけない焦りで胸がざわつくのに、足は床に縫いつけられたように重かった。
 安酒の臭いが充満し、いつ爆発するかわからない怒りに息を殺して耐えるだけのあの世界に戻るぐらいなら、紙の香りが満ちるこのアトリエでずっと息をしていたい。

 このままずっとリヒトの隣で時を止められたらどんなに幸せだろうかと、胸が切なく疼く。

 でも、現実は無常で、玲瑠は寂しさを押し殺しながら帰りの支度を始めた。

 描きかけのマステ絵をクリアファイルに収め、クラフトナイフにキャップをかぶせてペン立てに差し込み、散らばったマスキングテープを元のカゴと戻していく。

 キュルキュルキュルキュルキュルキュルキュルキュル、ガタン!

 後片付けをしている最中、油が切れたガラス戸が乱暴な音を立てて開けられた。

 玲瑠は思わず肩がすくむ。自宅じゃないのに、その配慮がない響きにはトラウマしかない。

 隣のパイプ椅子でスマホをいじっていたリヒトが、ハッとしたように顔を上げる。いつにない慌てた様子で暖簾をくぐり、店内へと急いだ。

「いらっ……しゃい……ませ……」

 普段のんびりしているリヒトの声が、凍りついたように途切れ途切れになっている。

 違和感を覚えた玲瑠は、長い暖簾の隙間からそっと店内を覗き見た。

(っ——)

 わからない。なぜかわからないけど、全身の毛穴が一気に引きしまるような激しい寒気に襲われた。

 玲瑠が身に着けたスキル、危険を察知する高感度センサーが脳内でけたたましく警報を鳴らす。

 店の出入口に立っていたのは、仕立てのいい黒のスーツに身を包んだ、初老の男性だった。

 白髪交じりの短髪に、深く刻まれた眉間のシワ。威厳に満ちた硬い雰囲気が全身から漂っている。

 男性が放つ圧は、玲瑠が日頃から怯えている衣琉華の放つ殺気と同じだった。吸い込むだけで肺が重たくなる。

 リヒトは体を強張らせ、気まずそうに、どこか怯えた様子で歩み寄る。あの頼もしかった安心感溢れる大きな背中が、今は驚くほど小さく見えた。

「いらっしゃい……お父さん」

 引きつった小さな声。

 実の肉親の父に対して、あからさまに怯えた態度を取っているリヒトを見た瞬間、玲瑠の心臓がドクンと嫌な高鳴りを上げた。

「いらっしゃいじゃない。一カ月後に連絡をよこすって言ったのに、連絡がこないからわざわざ様子を見にきたんだ。リヒト、お前はいつまで働かないで遊んでいるつもりなんだ。いい加減働け! 履歴書は何社出したんだ?」

 ドスンっと、頭を鈍器で叩かれたような衝撃が駆け巡る。

「いつまで遊んでいるつもりだ」「いい加減働け」——そのフレーズは、衣琉華が毎日のように叩きつけてくる「勉強しなさい!」「なにフラフラ遊んでるの!」「将来どうするつもりなの!」っという怒号と、恐ろしいほどにそっくりな冷たさを孕んでいた。

 キーンと不快な耳鳴りが起きる

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 怒られているのはリヒトなのに、見ているだけで呼吸が浅くなり、冷や汗が背筋を滑り落ち、手のひらがじっとりと湿っていく。
 玲瑠自身が責め立てられているような感覚だ。

「履歴書は出して……ない。でも、ただ遊んでるわけじゃない。俺はおばあちゃんの手伝いをして、絵でお金をもらう準備もしてて……」
「手伝いだと? 明紀さんが畳もうとした店の手伝いなど、まともな社会人の仕事とは言わん!」

 リヒトの父親の怒鳴り声が、古い家屋の壁とガラス戸を揺らした。

 衣琉華のヒステリックな金切り声とは違う、低く、重く、押し潰すような男性の声。声の質は違っても、この空間を支配する威圧感は間違いなく衣琉華が作る地獄を同じだ。

 耳を塞ぎたくなる。

「お前はもう二十九歳だぞ。最初に入った建築会社を辞めてから、まともな職にも就かず、アルバイトを点々として……挙句の果てには、うつ病だなんだと言いわけをして、ここに逃げ込んで……お前はいつまで身内に心配をかけるつもりだ!」

 リヒトの痛々しい半生が、父親の手によって容赦なく暴かれていく。

(そんな……リヒト先生が、無職で、うつ病って……)

 ショックで頭が真っ白になっていく。

 スマートフォンの画面越しに見ていた、完璧に輝くイラストレーターの姿からは想像もつかない、泥臭く、あまりにも痛々しい現実。

(リヒト先生も私と同じだったんだ……)

 その衝撃的な事実を知った瞬間、失望じゃない、どうしようもないほどの苦しい共鳴が胸を貫いた。

 毎日衣琉華に失敗作だとヒスられ、生まれながらのハズレの不良品なのだとあきらめていた玲瑠。

 そして目の前では、二十九歳の大人のリヒトもまた、まともに生きられない不良品として、実の父親という絶対的な存在から断罪されている。

 インターネットの海で語られるあの暗い絶望の底に、リヒトもまた立ち尽くしている。

「文房具の販売なんて、スーパーやネット通販に商売を奪われて、経営が立ち行かないから明紀さんもこの店を畳もうとしたんだ。こんな店を引き継いだところで、お前の将来はお先真っ暗だぞ。現実を見て、早くまともな就職先を探しなさい」

 リヒトはなにも言い返せず、くたびれたカーディガンのポケットに両手を深く突き刺し、父親から浴びせられる言葉の刃をじっと耐えている。

 本当はリヒトだってなにか言い返したいはずだ。でも、リヒトが握っているカードでは、まともに生きる父親に太刀打ちできない。

 それを誰よりも自覚しているからこそ、黙り込むしかないのだ。

 玲瑠もそうだ。衣琉華に言い返したくても、親の金で生きている身では、絶対的な権力を持つ相手になにひとつ抗えない。

 そして、リヒトは仕事を辞めたうつ病の身だ。本当は社会に出て自立しなければならないからこそ、世間体の重圧に潰され、言いわけできないのだろう。

 リヒトの丸まった背中からにじみ出るあきらめと絶望。

 玲瑠はリヒトより先に泣き出してしまいそうだ。

「まあまあ、そこまで強く言わなくてもいいじゃない」

 静かな足音とともに玲瑠の横を通り抜け、暖簾をくぐっていったのは明紀だった。

 明紀はお茶が入ったコップを手に、リヒトと父親の間にそっと割って立つ。その穏やかな振る舞いは、ピリッとしていた店内の空気を大幅に和らげた。

「リヒト君もリヒト君で、一生懸命さびれた店を助けてくれているよ。店番をしてくれたり、この店に残ってるレトロ商品をフリマサイト? とやらで売ってくれたりねぇ」
「明紀さんがそうやって甘やかすから、リヒトはいつまで経っても自立できないんですよ」
「リヒト君は今一生懸命お絵描きをして、自立に向けて努力しているよ」
「そんな不安定な仕事、俺は仕事だと認めませんよ。それにひとりで食っていけるだけ稼いでいないじゃないですか」
「リヒト君はきっとこれから報われるから大丈夫ですよ。まあ、冷たい麦茶でも飲んで、落ち着きなさいな。怒鳴り散らしたって、仕事が見つかるわけじゃないんだから」

 長年を生きてきた明紀ならではのやわらかな物腰。

 父親は忌々しそうに大きなため息をつき、明紀から差し出されている麦茶を取って一気に飲み干した。

「まあいい。リヒト、来月までに一度家に帰ってこい。今後のことをきちんと話し合うぞ。わかったな」
「……はい」

 父親は吐き捨てるように言い残すと、ガラス戸をピシャリと叩きつけて去っていった。

 店内に、衣琉華がキレ散らかしたあとのような、嵐の過ぎ去った静寂が舞い降りる。

 リヒトはひび割れたコンクリートの床を見つめたまま、動けずにいた。

「大丈夫かい? リヒト君?」

 明紀が優しくリヒトの肩をぽんと叩いた。

「ああ、大丈夫だ……ゴメンなおばあちゃん、毎回うるさくしちゃって」
「気にするんじゃないよ。人生は長いんだからね、ゆっくり悩めばいいんだよ。リヒト君の人生は、あの人が決めることじゃないんだから」

 明紀の言葉は、インターネットに落ちている上辺だけのカウンセリングの言葉なんかよりも、玲瑠の中へとスンっと落ちていった。

「さあ、レイルちゃんを送っておいで。女の子の前で悲しい顔をするんじゃないよ」
「ありがとう、おばあちゃん」

 リヒトがカーディガンの袖口で目元を拭うと、振り返って歩き出す。

 玲瑠は慌てて暖簾から離れ、作業机の前へと戻った。

 暖簾をくぐり、アトリエへと戻ってきたリヒトと視線が真っ直ぐにぶつかった。

「お待たせレイルちゃん。ゴメンね、変なところ見せちゃって。今のことは気にしないでくれると助かるな」

 リヒトはいつものように、やわらかく目元を弛ませて見せた。

 でも、玲瑠には、その笑顔の正体が痛いほど理解できてしまった。

 年下の女の子を不安にさせまいとする、優しくて無理のある大人の仮面。

 しかし、長めの黒髪の隙間から覗く瞳には、光る涙がうっすらとたまっている。そして、大きな両手は今も小刻みに震えていた。

 日常的に衣琉華の顔色を窺って生き抜いてきた玲瑠だからこそ、リヒトの隠された本音が手に取るようにわかってしまう。リヒトが今、どれほど深く傷つき、痛みに耐えているかを。

 目に見えない鮮血が、心臓からダラダラと流れている——玲瑠には、そう見えて仕方がなかった。

「リヒト先生……」

 体が勝手に動いていた。気づいた時には、リヒトの右手を両手でギュッと包み込んでいた。

 繊細で美しい世界を創り出す右手は、温もりを失って氷みたいに冷たくなっている。

 リヒトの心に走る痛みを肌で感じた瞬間、玲瑠の胸の奥で眠っていた、玲瑠自身も知らない感情が目を覚ました。

「リヒト先生! なにか悩みがあるなら私に話してください! こんな私に解決なんてできないかもしれないけど……話すだけでも少しは楽になると思うので、話を聞かせてください!」

 驚くほどの強いトーンで言葉を投げかけていた……いや、投げかけてしまっていた。

 踏み込まれたくないプライベートな領域に他人が土足で上がることが、どれほど失礼なことか十分にわっていた。玲瑠にも踏み込まれたくない領域がある。

 おまけに、進む将来すら見えていないただの高校生が、二十九歳の大人が抱える社会の重たい現実を解決できるはずもない。

 それでも、声をかけずにはいられなかった。

 暗闇だった毎日に彩りをつけてくれた恩人のために、なんだっていいから力になりたかった。

 リヒトは玲瑠の真っ直ぐな眼差しに目をパチパチと瞬かせた。

 それから困ったように眉を下げ、苦笑いを浮かべる。

「ありがとう、レイルちゃん……でも、若い女の子に聞かせるには、あまりにも情けなくて恥ずかしい大人の話だから。遠慮しておくよ」
「遠慮なんてしないでください!」

 掴んだ手をさらに強く握りしめ、ガラス細工みたいに儚いリヒトの瞳を真っ直ぐに見つめ返す。

「今の時代、男とか女とか、若いとか大人とか関係ありません! ……私、リヒト先生からマステ絵を通して大切なことを教えてもらって、ものすごく救われたんです。だから今度は、私がリヒト先生を救いたいんです!」

 玲瑠の真摯な眼差しと、手のひらから伝わる強い力に、リヒトは降参したかのようにふっと肩の力を抜いた。

「……そうだな。レイルちゃん、俺と違ってすごく頭が良さそうで、俺よりずっと大人っぽいから……話してみようかな。話したら、少し楽になるかもしれないし」

 リヒトの顔から、無理に貼りつけていた大人の仮面が、ゆっくりと剥がれ落ちていった。