壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 玲瑠の人生は生きているだけでも疲れる。

 その疲労の正体は、インターネットの情報で理解している。

 衣琉華の顔色をうかがい、足音やドアを閉める音に身をすくませ、いつ自室の扉が開けられるかわからない恐怖におびえる毎日。そして、衣琉華との会話のシミュレーションを頭の中で何度も繰り返しながら過ごす時間は、精神にかなりの負担がかかる。

 おまけに根っからの運動不足で、根本的な体力がない。

 そんな心身ともに疲れきった日常の中でも、涼水文房具店にいる間だけは、すべての疲れが嘘みたいに遥か彼方へと吹き飛んでいく。

 今日も吸い寄せられるように足が進み、ガタつくガラス戸をゆっくりと滑らせた。

 エアコンの心地いい冷気とともに、古い紙と木材の香りが肺を満たしていく。

 初めてこの店に足を踏み入れてから、今日でちょうど十日目だ。雨が降る日も、出かけるとき衣琉華に嫌味を言われる土日も、玲瑠はこの聖域へと通い詰めていた。

「いらっしゃいませ~。あっ、レイルちゃん今日もきてくれたんだね」

 レジカウンターの奥、色褪せた藍色の暖簾をくぐって姿を現したのはリヒトだった。今日もその瞳には、透き通ったガラス玉のような光が宿っている。

「リヒト先生、こんにちは!」
「こんにちは。それじゃあ今日もマステ絵をしようか」
「はい! よろしくお願いします!」

 通い始めて二日目のこと。玲瑠が勇気を振り絞って「私もマステ絵を描いてみたいです」っと伝えたら、リヒトは「もちろん!」っとふたつ返事で快諾してくれたのだ。

 それ以来、リヒトはやさしくマステ絵を教えてくれ、今ではすっかり師弟のような関係になっている。

「それじゃあ、いつもの席にどうぞ」
「ありがとうございます、リヒト先生!」

 玲瑠は上目遣いでリヒトを見つめながら、リヒトが羽織っているカーディガンの袖口を細い指先でちょこんと小さくつまんだ。

 そのままリヒトに引っ張られるようにしてレジカウンターの脇を抜け、店裏につながる暖簾をくぐる。

 店裏の土間の一角はリヒトのアトリエになっていた。

 壁際に設置された大きなL字型の作業机。そこは、線画を描いたりマステを貼ったりする作業スペースと、大量のマスキングテープが並べられたスペースにわけられている。

 作業スペースには巨大なトレース台が設置されていて、リヒトの描きかけのマステ絵と、クラフトナイフが転がっていた。

 その脇に置かれたノートPCのUSBポートから伸びるコードを目で追うと、アームで固定された撮影用のカメラへとつながっている。動画サイトに投稿されるあの美しいメイキング動画も、すべてこの場所から生み出されているのだ。

 そして、作業机の右半分のマスキングテープが置いてあるスペース。そこには、平たいプラスチックのカゴがテーブル一面に並べられ、幾重にも積み上げられていた。

 カゴの中には、あらゆる色や柄のマスキングテープが、石畳みたいに敷き詰められている。

 ざっと千個はあるだろうか。正確に数えたことはないけど、とにかく圧倒的な数だった。

 玲瑠はリヒトがさっきまで座っていた、ふかふかのクッションつきの椅子へ腰を下ろす。

 リヒトは描きかけの作品を手際よく片付け、パイプ椅子を持ってきて玲瑠の隣に座った。

「ん!」

 その瞬間、玲瑠はリヒトの腕にそっと顔をもたれさせた。ゴリッとした、男の人特有の硬くて頼もしい腕を頬で感じる。

「ちょっとレイルちゃん。エアコンが効いてても暑いから離れてくれないかな? これじゃマステ絵も教えられないし」
「はーい!」

 玲瑠は満足感に浸りながら体を離すと、困り果てたような顔をするリヒトを覗き込んで、クスっとイタズラっぽく微笑んでみせた。

「そうだリヒト先生! 今日は線画を描いてきたんです。今までリヒト先生の線画を使わせてもらってましたけど、マステ絵は線画を描くところから始まるって教えてもらったので、ゼロから描いてみました!」

 トートバッグからクリアファイルを取り出し、一枚のA4用紙を作業机に置いた。

 昨晩、リビングから響く母親の足音や生活音に怯え、いつ部屋のドアを開けられるかわからない緊張感の中、必死で描き上げた一枚だ。

 デザインはリヒトのメインコンテンツと同じ、華やかなプリンセスドレスを着たお姫様が、大きな天使の翼を広げているデザイン。

 消しゴムで何度も擦った跡が残り、鉛筆の黒い線が幾重にも重なっている不器用な仕上がり。だけど、絵を描く習慣すらなかった玲瑠にとって、全力を注ぎ込んだ最高傑作だった。

「お、レイルちゃんが描いたのか。どれどれ?」

 リヒトは手に取り、まじまじと見つめる。

(うわぁ……緊張するなぁ)

 描き上げた瞬間は渾身の出来だと思えたのに、プロの目に晒された途端、下手な絵に見えて強烈な恥ずかしさが襲ってきた。

「すごくいいデザインだ。レイルちゃんが心を込めて描いたのがよく伝わってくるよ。やっぱり、俺が描く線画と全然違って、レイルちゃんテイストの作画になってるから、学ぶところがあるな。このドレスと翼にマステを貼るのがすごく楽しみだ」
「――っ!」

 玲瑠の顔にヒマワリが咲き誇る。

 デッサンの狂いや、線のブレなど、欠点を探せばいくらでもあるはずだ。でも、リヒトは決して否定せず、ただ優しく褒めてくれている。

 小学校に上がる前、広告チラシの裏に描いた花の絵を衣琉華に見せた日の記憶が蘇る。
『下手くそねぇ』と鼻で笑われ、目の前で手直しされてプライドがボキボキ折れた覚えがある。

 それ以来絵を描いてこなかった。でも、一生懸命描いた絵をこうして褒めてもらえたことで、過去の傷口が消えていくのを感じた。

「ありがとうございます! あの、もしよかったら、頭……撫でてもらってもいいですか?」
「はいはい、よくできたね。レイルちゃんは本当に甘えん坊さんだなあ」

 リヒトは呆れたように笑いながらも、大きな手のひらを玲瑠の頭にそっと乗せた。ポンポンっと優しく、慈しむように髪を撫でてくれる。

 その温もりに、胸がキュンと甘く疼いた。

「それじゃあマステを貼っていこうか」
「はい!」

 玲瑠はくるりと椅子を九十度回転させ、L字デスクの右側へと体を向ける。

 積み上げられた平たいプラスチックのカゴ。整然と並ぶ千個近くのマスキングテープは、色別・ブランド別にキレイな虹色を描いていた。

 その中から好みのピンク色のマスキングテープを十個ほどピックアップする。

 線画の上に試し置きをして、貼る前にどこにどの柄を配置すればキレイな仕上がりになるか、何度もシミュレーションを重ねていく。

「うーん……リヒト先生。ここにはなにを貼るのがいいと思いますか?」
「俺の頭の中に答えはあるけど、俺が言っちゃうと玲瑠ちゃんが先入観に囚われちゃうから、そのアドバイスはできないな」
「え〜、いじわる言わないでヒントくださいよ〜」
「こうやって悩んで試行錯誤する時間もマステ絵の醍醐味なんだ。俺が答えを言ったら、レイルちゃんからその楽しさを奪っちゃうことになるだろ? あと、なにより俺は、レイルちゃんが選んだマステで完成させた絵が見たいんだ。だからここは黙っておくよ」
「はい! わかりました、自分の力で描いてみせます!」
「楽しみにしてるよ」

 そんな愛おしいやり取りを交わしながら、シミュレーションを終える。

 ここ数日で道具の置き場所を完璧に把握した玲瑠は、棚から一枚の紙を取り出した。画用紙よりも表面がなめらかなケント紙だ。

 線画の上にケント紙を重ね、四隅をマネークリップで挟んで二枚の紙がズレないようにガッチリと固定する。

 トレース台のスイッチを入れると、パッとまばゆい白い光が点灯した。光がケント紙を透かし、下の線画の黒い線がくっきりと浮かび上がる。

 選んだピンク色のマステの端を爪でカリカリと探し当て、ジジジジっと数センチほど剥がしてちぎる。

 ペタッとケント紙に貼りつけ、刃先が三十度のクラフトナイフで透けた線に沿ってマステを切っていった。

「そこの長い直線を切るときは、四十五度のナイフにしたほうがブレずに真っ直ぐ切れるよ」
「あっ……はい! ありがとうございます!」

 真横から耳元へ届くリヒトの温かい吐息に耳たぶをくすぐられながら、一ミリずつ慎重にナイフを進める。

 そして、マステを貼る工程にも思考を巡らせる。

 柄をそのまま活かして貼ることもあれば、柄違いのマステを重ねて新しい柄を作り出したり、手でちぎった粗い断面を見せることでドレスの影や立体感を表現したりと、貼り方ひとつで無限に表情が変わる。

 つたないけど、必死に動かす玲瑠の手によって、真っ白な大地に生命が宿っていく……

「レイルちゃん、リヒト君、お疲れ様。お茶を持ってきたよ」

 かすれつつも優しい声に呼ばれ、ふたりは同時に振り返った。

 静かな足音とともに現れたのは、リヒトの祖母の明紀(あき)だった。この涼水文房具店を長年守り続けてきた店主だ。

 リヒトから明紀は御歳八十五歳だと聞いているが、背筋がピンと伸び、短い白髪をキレイに整えた佇まいは、とても八十代には見えない品格と若々しさに満ちていた。

 明紀はカランと氷が浮かぶ麦茶が入ったコップをお盆から降ろし、作業机の端にそっと置いた。

「ありがとな、おばあちゃん」
「おばあちゃん、ありがとうございます!」

 明紀は玲瑠の顔を慈しむように見つめると、目元に深いシワを刻んで微笑んだ。

「それにしても玲瑠ちゃんは本当にキレイなお顔立ちをしてるわねぇ。お肌も雪みたいに白くて、まるでお人形さんみたい」
「えっ……そ、そんなことないです! 私なんて、全然……」

 うつむき、真っ赤になった顔を両手で隠す。

 玲瑠は衣琉華や同級生から、容姿を褒められたことなんて一度もなかった。
 自己肯定感の底が完全に抜け落ちている玲瑠にとって、真っ直ぐな褒め言葉はむず痒くて仕方がない。

「それじゃあレイルちゃん、リヒト君にたくさん教えてもらって、お絵描き上手になってね」
「あっ……ありがとう……ございます……」

 明紀は満足そうに微笑みながら、静かに奥の生活スペースへと戻っていった。

 真っ赤に染まった顔を冷やすために、氷が浮かぶ麦茶を喉へ流し込み、玲瑠は意識を絵へと集中させた。

(うーん……なんだろう、しっくりこないな……)

 作業を進める途中、新たな壁にぶつかった。

 マスキングテープを貼れば貼るほど、思い描いているお姫様の色合いから遠ざかっていく。
 ただの技術不足なのか。いや、明確に手元にあるマスキングテープだけでは、どうしても理想に届かないことに気づく。

 SNSで日常的に目にするデジタルイラストのような、あの透明感あふれるスカイブルーや、パッと目を惹く鮮やかなピンク柄が、どこを探しても見当たらない。

「リヒト先生。マステ絵ってすごく素敵な表現ですけど……なんか、描きづらくないですか? デジタルと違って自由が効かないというか。ほしい色や柄がないときって、どうすればいいんですか?」

 ピンセットを握りしめたままポツリと漏らした玲瑠に、リヒトは腕を組み、深くうなずいた。

「どうすればいいっていうか、マステ絵っていうのは、手元にある柄だけで表現するしかない画法なんだ」
「それじゃあ、マステをたくさん持ってない人は、描きたい絵が描けないじゃないですか」
「レイルちゃんの言う通りだ。俺も最初の数枚は、この店に売れ残っていたマステだけで描いてたから、レイルちゃんの苦しみはよくわかるよ。マステ絵は配られたカードだけで勝負するしかない、ある種人生みたいな画法なんだよ」
「配られた……カード……」

 ほんわかとしたお絵描きの空間に、突如として投げかけられた冷酷なフレーズ。

 鋭い針で胸を刺されたような痛みが走った。

 ネットの濁流の中で、嫌というほど目にし、そのたびに玲瑠を深い絶望の底へと叩き落としてきた、悪魔のような概念。

 元々は持たざる者が理不尽な格差を笑い飛ばす皮肉だったはずなのに、いつしか恵まれた側の人間たちが、自分の努力を誇示するための武器として使うようになった奪われた言葉だ。

 特にタチが悪いのは、「俺は配られたカードで工夫して勝ち上がった」っと豪語する、初期の手札がどれほど恵まれていたのか自覚していない特権階級の人間たち。

 最初から強いカードを握りしめていたことを自覚せず、苦労でもない苦労を見せびらかして「努力が足りない」っと言って弱い者を叩く行為。そうやって他人を見下す瞬間は、脳内で快楽物質がドバドバ出てさぞ気持ちがいいだろう。

 まさか、世間の醜悪さから切り離されたこのアトリエで、リヒトの口からそんな言葉が出てくるなんて思いもしなかった。

 リヒトは玲瑠が使っていたマスキングテープをひとつ、ガサガサな指先で摘まみ取った。

「今は新商品の華やかなマステも使ってるけど、今思えばたった十個っていう配られたカードでよく描いたなって思うよ……あ、でも、この店に放置されてた子たちは貧弱な存在なんて思ってないけどな」 

 リヒトの口から紡がれる「配られたカード」という言葉には、不思議と、勝ち組たちの説教の不快感が一切含まれていなかった。

「俺は手元にある柄で描くしかないマステ絵をやってるからこそ、人生は配られたカードで勝負するしかない、人生は思い通りに行かないから面白いって上から目線で軽々しく言ってくるやつらが大嫌いなんだ。そういうやつらは大抵、自分が最初から恵まれたカードを配られてることに気づいてない。限られたマステしか使えない人が、どうやってまともな絵を描けばいいんだって話だ」

 リヒトは自嘲気味に肩をすくめ、苦笑いを浮かべた。

「まあでも、その限られた条件の中で知恵を絞って工夫する工程こそが、マステ絵の面白いところでもあって、奥深いところでもあるんだけどな。ゴメンな、若い子の前で社会の愚痴なんて言っちゃって」
「いえ! ホントにその通りだと思います!」

 玲瑠は音量を間違えた、ハッキリとした大声で答えた。その声量で続ける。

「人生ってホントに理不尽ですよね! 人間って、産まれた瞬間から将来が全部決まって!」
「……あっ、おう、そうだな」

 一瞬目を丸くしたリヒト。次第に、その澄んだ瞳の奥に、静かで青い情熱の火が宿った。

「だからこそ、マステ絵っていう小さな人生を何度も描いてきた俺は、どんなに限られた条件でも、工夫すれば最高の一枚を描き上げられるってことを証明したいんだ。それが俺の役割だって思ってる」

 真っ直ぐに見つめられるリヒトの顔は、呼吸を忘れてしまうほど流麗で、どこまでもたくましかった。

  同時に、玲瑠はリヒトの前向きな啓発を聞き、すべてを察して絶望する。

(そうだよね……リヒト先生は絵を描いて生活してるぐらいだから、そっち側の人間なんだよね)

 SNSで流れてくる芸術家たちの境遇。よく美大生やアーティストたちが槍玉に上げられている。

 確かに血の滲むような努力を重ねたのだろうけど、その努力を注ぐための余白や環境があったこと自体、恵まれていた証拠だ。本当に明日を生きるのに精一杯な人間は、絵を描く時間すらうばわれてしまうのだから。

 おそらくリヒトも、自分がどれだけ恵まれたカードを引いていたのか気づいていない、上の世界の人間なのだろうと予想してしまう。

(でもいいんだ……リヒト先生と一緒にいると、こんな私でも元気になれるから)

 リヒトと出会ってからの人生は、一枚、また一枚、っと、新しいマスキングテープの柄が重なっていくような、一度きりしかない人生に色がつけられていく感覚だった。

 この感覚が味わえるだけで、リヒトがどの立場でも関係ない。

 玲瑠は思考をポジティブに切り替え、とびきりの笑顔を咲かせてリヒトを見つめた。

「はい! 私もマステ絵をもっと練習して、あまり使われない子たちで絵を描いて、みんなをビックリさせたいです!」
「おう! いい心意気だな。俺も教え甲斐があるよ」

 リヒトとの間に、またひとつ会話が咲き誇る。
 そして、この会話が続いていく。

 それでいい。それだけでいい。
 今はただ、憧れのリヒトと同じ空間でマステ絵に向き合えるこの特別な時間を、なによりも大切に抱きしめていたかった。