気づいた時には、涼水文房具店の閉店時間はとっくに過ぎていた。
シャープペンの芯が入った小さな紙袋を受け取り、夢の余韻から覚めないまま店をあとにした。出入口の前で振り返る。
「レイルちゃん、今日はありがとな。またいつでも遊びにきてくれよ」
「はい! 絶対にまたきます!」
「それじゃ、気をつけて帰るんだぞ」
「ありがとうございます!」
軽くお辞儀をし、リヒトが浮かべた微笑みを瞳の奥深くに焼きつける。明日まで見られない、憧れの人の顔を。
玲瑠は軽くターンをし、名残惜しさに長い髪を引かれながら歩き始めた。
背後から、古びたシャッターが下りるガラガラという音が、夜の空気にさみしく響き渡っている。
街路灯がぽつりぽつりと灯る夜道を歩きながら、今日一日を振り返る。
インターネットという果てしなく広がる宇宙で輝く、雲の上の存在だった神イラストレーターと、まさかこんな近所で出会えるなんて思ってもいなかった。
奇跡を噛みしめるたび、嬉しさで胸がはじけ飛びそうだ。
それだけじゃない。玲瑠が口にした拙い言葉に、リヒトは「こうして直接声をかけてもらえる方が何倍も嬉しいものだな」っと笑顔になってくれた。
さらに、「俺の信念が報われたような気がしてすごく嬉しかったよ」っとまで言ってくれて、ほんのわずかでもリヒトの力になれた気がした。
誰かの役に立てたという確信。ここ数年味わったことのない熱い自己肯定感が、血流に乗って全身を駆け巡っていく。
リヒトと交わした一言一言。一緒にマステ絵を鑑賞した幻想的な時間。そして、ふたりだけで共有した秘密の約束。それらを思い返すたび、胸の鼓動がトクトクと甘い拍動を刻む。
「……んふふ」
街灯というスポットライトを浴びている玲瑠の顔は、嬉しさのあまりへにゃりと緩みきっていた。
……でも、その自然と浮かんでいた笑顔は、歩みを進めるごとに少しずつしぼんでいった。
お風呂上がりみたいにぽかぽかとしていた桃色の感情が、見慣れた家屋が立ち並ぶ光景に戻るにつれて、黒色へと塗り潰されていく。
夢のような時間を過ごした代償を払わされる瞬間が、刻一刻と近づいている。
たどり着いた、監獄と呼ぶのがふさわしい、みすぼらしい外観の古びたアパート。錆びついた外階段を上り、二階の角部屋を目指す。
曇りガラスから漏れ出るLEDの冷ややかな白い光。それを見ただけで、ハァハァっと呼吸が浅くなった。
ドアの前に立ち、深呼吸をして息を整える。「よしっ!」っと、一喝入れてドアノブに手をかけた……手が離れてしまった。
(もう一回!)
ドアノブをギュッと握り、勢いで手首を回転させた。
音を立てないよう、数ミリ単位の慎重さで開けようと試みた。でも、手入れのされていない金具が、無慈悲にも「キィィィィ」っと甲高い音を響かせる。
「……ただいま」
消え入りそうな声で呟き、狭い玄関へと踏み込んだ。
足元には、かかとがすり減った黒いパンプスが乱雑に脱ぎ捨てられ、その脇にはアルコール度数高めのストロング缶が二本転がっている。
部屋全体に充満するのは、ツンと鼻を突く甘酸っぱい臭いと、湿った生活臭だ。
「……あんた……何時だと思ってんの」
「――っ」
全身が凍りつく。
母親の衣琉華(いるか)は、すでに帰宅していた。玄関から入ってすぐ、リビング兼キッチンのテーブルに座り、ロング缶を握りしめたまま血走った鋭い視線を玲瑠へと向けている。
その顔は、一日の疲労と、玲瑠に対する理不尽なイラ立ちで大きく歪みきっていた。
威嚇する野獣のような眼光で射抜かれ、呼吸の仕方も、脚の力の入れ方すら忘れてしまいそうだ。
ただ、頭だけは異様なほど高速で回転していた。
目の前の敵に対してこう答えたらこう返ってくるという幾多の未来の予想が、一瞬で頭の中を流れていく。
ここは変に嘘をつかず、事実だけを平然と口にするのが正解だと、長年の学習体験が告げていた。
「ちょっと……文房具屋さんでシャープペンの芯を買ってました。ゴメンなさい、遅くなってしまって」
玲瑠は視線を斜め下へ逸らし、傷だらけのフローリングの木目を見つめた。
荒波を立ててはいけない。
衣琉華の酔い具合、目の据わり方、顔に作る深いシワの数、声のトーンから瞬時に危険度のパラメータを察知し、極限まで感情を削ぎ落とした平坦なトーンで返す。
「文房具屋だぁ? 芯一個買うのに、なんでこんな時間までほっつき歩いてんのよ!」
衣琉華がバンッと勢いよくテーブルを叩いた。
玲瑠の肩がビクッと跳ね上がる。
空いた缶が横倒しになり、テーブルの上を転がって床にカランっと落ちる。
「あんた勉強もせずふらふら遊び回って、完全に人生舐めてるでしょ!」
その通りだけど、こんな腐り切った世界で生きる意味なんて見出せないから舐めているだなんて、敵の前では口が裂けても言えるはずがない。
「舐めてないよ。勉強は夕方までちゃんと終わらせたし……」
「終わらせたからなんだって言うのよ!? 言われたことだけじゃなくて、もっと自習しなさいって言ってんの!」
衣琉華は怒号とともに立ち上がり、千鳥足で玲瑠へ迫った。
玲瑠は思わずあとずさり、背中が玄関ドアにぶつかる。
濃密な酒臭さと、まき散らされる怒りの熱気に、「もう勘弁してよ」っと思う。
「本当になさけないわ。私はまともに育ててきたつもりなのに、不登校になって、普通の高校にも通えなくて……通信制の高校ならできるって言ってたのに、その勉強すらまともにできてないじゃない。勉強しないなら今すぐこの家から出ていきなさい!」
出た、衣琉華の決まり文句だ。
衣琉華は『まともに育ててきた』と呪文のように繰り返すけど、最低限のエサと小屋を与えてきただけで、心に寄り添ってくれたことなんて一度だってなかった。
それなのに、衣琉華は自身が最高の親であるかのような全能感を抱いている。そして、思い通りにいかなかった過去の人生の敗北感と劣等感をすべて娘へぶつけてくる。
どうせ、衣琉華も中高生のときは頭がよくなかったくせに。
衣琉華のこの発狂は、玲瑠が不登校になる遥か昔から始まっていた。
小学生の頃から成績が普通でも「こんな点数しか取れないの」っと叫び散らし、いい点数を取ったときも「これが普通」だと吐き捨てて。褒めてくれたことなんて一度もなかった。
そして、テストのたびにこうして家から追い出すと脅迫してきた。
稼ぐ手段も生きる術も持っていない、幼い子どもに対してだ。
経済力を人質に取った、まぎれもない精神的虐待。っと、インターネットのカウンセラーたちが口をそろえてそう呼んでいる。
本当なら「そんなやる気を削ぐ育て方をしてきたから、生きる意欲を失って、最小限のエネルギーでしか生きられない娘になったんだよ」っと、言い返してやりたい。
(落ち着け……反論したら終わりだ。今刺激したら、本当に外に放り出される)
玲瑠は爪が手のひらに食い込むほど拳をきつく握りしめ、喉元まで出かかった感情を必死に押し殺した。
「それにあんた、家計がどれだけカツカツかわかってて言ってるの? 通信制の学校だって学費がかかるのよ! 真剣にやらないなら、今すぐ学校辞めて働きなさい!」
肩を細かく震わせる。
(中卒がまともな職に就けるわけないでしょ。それに、お金がないお金がないって……お母さんがお父さんと離婚したからお金がないんでしょ!)
奥歯を強く噛みしめ、最終兵器の言葉をギリギリで踏みとどまる。
この爆弾の言葉をこらえて、もう何度目になるだろう。
(お前が勝手に浮気して、無計画に私を産んだから、苦しくて当たり前なんだよ!)
心の中では冷酷な言葉を並べ立て、目の前に立つ母親という存在を軽蔑することでしか精神を保てない。
衣琉華と幼少期に家を出ていった父親から直接聞いたわけじゃないが、玲瑠はインターネットで集めた知識をかき集め、悲しい真実へたどり着いていた。
――玲瑠は、離婚した父親の実子じゃない――
母と父の血液型はどちらもA型。そして玲瑠の血液型はB型。両親の遺伝子にB型が含まれていない限り、絶対に生まれるはずのない血液型だ。
導き出される答えは、托卵。
その残酷な事実に父親は気づき、家を去っていったのだろう。
世間の離婚した父親の約半数は養育費を払うと聞くが、衣琉華は「あの人はちっとも払ってくれない」と被害者ぶる。
父親が養育費を払わないのは当然だ。
血のつながっていない子どもに金を払いたくない気持ちはよくわかる。むしろ、前に住んでいた家賃が高いアパートから、このおんぼろアパートに引っ越すとき、母親が父親に慰謝料を支払ったんじゃないかとも予想できる。
去った父親は悪くない。悪いのは浮気したこの女だ。
仮に、托卵じゃなかったとしても、この感情でしか動けない女と暮らしていれば、遅かれ早かれ父親は精神をすり減らして離婚していただろう。
とっくに娘は母親の本性を知っている。それなのに衣琉華はそれに気づかず自分だけが傷ついている被害者だと信じ込み、なにも悪くない父親の愚痴を吐き捨てているから救いようがない。
本当はすべての真実を白日の下に晒し、この女の醜いプライドを粉々に粉砕してやりたい。
そんな感情を含んだ最終兵器のような言葉が喉元まで出かかっている。
けれど、玲瑠は決して口にしない。
今感情に任せて動けば、この身ひとつで社会に放り出され、路頭に迷うことになる……でも、家出という選択肢も視野に入れないといけない。
「ゴメンなさい。お母さんの言う通りです。もっとちゃんと勉強します
その場をやり過ごすための、空っぽで薄っぺらな平謝りをする。
「ったく、ちゃんと勉強しなさいよ。今日みたいに夜遅くまで出歩いて、毎日非行に走ってたら、この先まともな人生を送れないからね」
(まともな人生……?)
胸の奥で、乾いた嘲笑が漏れた。
こんな勉強できない血統で、十分に育成できる資金も環境もなく、気持ち任せに動く気性難の母親の下に産まれた時点で、いい人生なんて送れないに決まっている。
「はああああああ、あんたの幸せを願って、本当は普通の学校に行って、普通に生きてほしかったのに、なんでこんな子になっちゃったのかしら」
衣琉華の目頭に、涙が滲んでいく。
なんて汚い涙だ。
大人としての汚さと、女としての汚さが混じった、尿よりも汚い涙なんて、インターネットで理論武装した玲瑠に効くはずがなかった。
『幸せを願って』なんて口では言いながら、理想の娘像を押しつけるだけの身勝手な主張。そしてその描いた理想に現実が追いつかず、勝手に苦しんでいる。
子供を作ろうとしたとき、衣琉華は自分が子供を育てたら、苦しい思いをする想像をしていなかったのだろうか。
いや、こんなモラルもない親が数年先を予想できる頭なんてあるはずもない。っと、自問自答で納得してあきらめた。
玲瑠は血の混じった声で反省を口にする。
「本当に、こんな風に育ってゴメンなさい。でも、少しでも勉強して将来ちゃんと働くから、心配しないで」
玲瑠は即座に反省したフリをして、スッと動き出した。
床に転がっていた空き缶を拾い上げ、シンクですすぎ、ゴミ袋へ捨てた。
衣琉華の意識を『悪い子』から『扱いやすい従順な子』へ変えるための、長年の恐怖体験から編み出した行動。
今はプライドを投げ捨て、都合のいい召使いを演じ切る。
「お母さん? もっとお酒飲む?」
「いらないわよ、もう部屋に入りなさい。顔を見てるだけでイライラするわ」
「わかった。おやすみなさい」
玲瑠は顔の筋肉を無理やり動かし、作り笑いを浮かべる。足音を立てないように、息を潜めて、トートバッグとともに逃げるようにリビングを抜け出そうとした。
「待ちなさい」
背後から呼び止められ、ビクッと体が数ミリ浮き上がる。
指先から血の気が引いて、ビリビリ痺れていくのを感じながら、ゆっくりと振り返った。
衣琉華は机につっぷし、ドロドロの瞳を向けている。
「なんですか?」
「犯罪だけは起こさないでよ。私にまで迷惑がかかるんだから」
自己中心的な釘刺しだ。玲瑠自体が犯罪を起こすことには心配していない。
「さすがの私もそこまでしないから、安心して」
そう答えてはいるけど、困窮した人間が足を踏みはずすメカニズムは学習済みだ。明日我が身。
そして、この母親から犯罪を起こしかねない存在としてさげすまれ、ハナから信用されていないのだと、改めて突きつけられた。
今さら信用なんて勝ち取るつもりはないのだけど。
「それじゃあ、おやすみなさい」
再び歩き出し、自室のドアノブに手をかけた瞬間、消えそうな小声で密かに囁く。
「犯罪者になる前に死んであげるから、お母さんには迷惑かけないよ」
感情が消えた虚ろな笑みを浮かべ、逃げるように自室に入って扉を閉めた。
パツンっと緊張の糸が切れ、全身の筋力が一気に抜け落ちる。崩れ落ちるように、その場にペタリと座った。
冷たいフローリングに太ももを押しつけ、浅く荒い息を繰り返す。
ほんの数分間のやり取りで、生命力を根こそぎ奪われたようなすさまじい脱力感。感情の振れ幅が激しい母親の相手をするのは、不発弾を抱えて綱渡りをさせられているようなものだ。
ここには、安全に息を吸える空気すらない。
(もう、疲れちゃったな)
暗がりの中、ふらつく足取りで立ち上がった。
女子高生らしさのカケラもない、安物の家具だけがぽつんと置かれた四畳半の部屋。
トートバッグをベッドへ投げ捨て、着替えもせず、吸い寄せられるように布団へ倒れ込んだ。
「……」
カーテンを閉めていない窓から、月明かりが差し込んでいる。シミが浮かぶ天井を見つめる、無の時間が流れる
「う……っ」
視界が滲み、熱い雫がもみあげを伝って枕へ染みていく。
トートバッグからスマートフォンを取り出し、電源をつけた。
もう限界だ。
SNSアプリを起動すると、手当たり次第にフォローした仲間たちがボロボロと流れてくる。
『今日もヒスられて消えたくなった』
『お前さえいなければ離婚したのにって毎日言われる』
『親にゴミ扱いされて、早く死にたい』
スクロールするたび、顔も名前も知らないけれど、確実にこの世界のどこかで息を殺して怯えている子どもたちの、悲痛なSOSが無数に流れてくる。
その助けを呼ぶ声にふれるだけで、どうしようもない安心感が生まれ、酷く摩耗した心がほんの少しだけ救われる気がした。
続けてパブリックサーチをするために検索窓をタップする。
打ち込んだのは『毒親』『機能不全家族』『アダルトチルドレン』といった言葉たち。
検索すると、玲瑠と同じような境遇を生き抜いた先人たちのアドバイスや、専門家の解説記事が次々と表示される。
(全部私のお母さんだ)
文字を追いかけるたび、奇妙な安堵が胸を包み込んでいく。
玲瑠だけじゃない。親のエゴで勝手に生み出され、この不条理な世界で泣いている子どもたちが、この世にはたくさん存在する。
その事実だけが、心の痛みを麻痺させてくれる鎮痛剤だった。
でも、画面をスクロールすればするほど、そのアドバイスは冷酷な刃となって、玲瑠の胸をざっくりと切り裂いた。
『親からの精神的ストレスから身を守る唯一の方法は、物理的な距離を置くことです。一刻も早く実家を出て独立し、連絡を断ちましょう』
『専門機関やカウンセラーに相談し、受けた傷を客観的に治療しましょう』
『アダルトチルドレンから脱却するには、親を正しく拒絶するフェイズが必要です。罪悪感を捨て、勇気を持って親から離れましょう』
専門家たちの解決策は、どれも玲瑠にとって非現実的なものばかりだった。
「できるわけないよ……」
かすれた声でつぶやいた。
ただ毎日を生きるだけで精一杯の十七歳が、どうやってこの辛さから逃れればいいのだろう。口では助けてくれるけど、現実では誰も助けてはくれない。
(結局、運がいい人しか幸せになれないんだ。私はこうやって、傷口を舐め合って、満足するしかないんだ)
他人の不幸に安堵し、自身の絶望を補強することでしか快楽を得られない惨めさ。
どうして親が衣琉華だったのだろう。どうして、普通に笑い合える家庭に生まれてこられなかったのだろう。
不公平すぎる世界の理不尽さに、玲瑠は膝を抱え、奥歯をギリリと噛みしめた。
(ああ、もうこんな人生嫌だ……今すぐ、消えてなくなりたい)
玲瑠はベッドのマットレスの下へスッと手を差し込み、固い感触のある物を引っ張り出した。
なけなしのお小遣いを叩いて買った、頑丈な三打ち縄。トラックの荷台などで重い資材を固定するための道具だ。
無機質でザラついた感触のその縄は……首吊り縄の形状に結われている。
ネットで画像を見ながら結んだ逃げ道。
保険証を衣琉華に握られ、メンタルクリニックに通うことすら許されない玲瑠にとって、この縄が唯一の精神安定剤だった。
いつでも自分の意志で人生の終わりを選べる、っというジョーカーが手元にあるだけで、人生は楽に生きられる。っと、SNSで流れていた。
その投稿主が言うには、過去に発禁された本に書かれていたらしい。
実際、玲瑠はこの首吊り縄があるから、絶望的な世界でもギリギリのラインで踏みとどまっていられた。
さらに、首の吊り方もしっかりと勉強をしていた。
ただ単に首を吊るだけだと、息苦しさに悶えながら死ぬことになる。だから絞首刑のように高い所から落ちるように首を吊ることによって、一頸椎を折って一瞬で死ぬことができる。
心の支えの命綱をそっと抱きしめた。
「うっ……う……っ……リヒト先生……」
ふと、今日初めて出会ったばかりの男性の名前が口からこぼれた。
理由はわからないけど、すがるようにその名を呟いてしまう。
「リヒト先生……リヒト先生……」
その名を囁いている間だけは、心が癒されるのはわかる
「リヒト先生……私も救ってください。なにもできない私をキレイなお姫様にしてください……」
その晩、玲瑠は首吊り縄の輪を強く強く抱きしめ、憧れのイラストレーターの名前を繰り返し呟きながら、静かに眠りについた。
シャープペンの芯が入った小さな紙袋を受け取り、夢の余韻から覚めないまま店をあとにした。出入口の前で振り返る。
「レイルちゃん、今日はありがとな。またいつでも遊びにきてくれよ」
「はい! 絶対にまたきます!」
「それじゃ、気をつけて帰るんだぞ」
「ありがとうございます!」
軽くお辞儀をし、リヒトが浮かべた微笑みを瞳の奥深くに焼きつける。明日まで見られない、憧れの人の顔を。
玲瑠は軽くターンをし、名残惜しさに長い髪を引かれながら歩き始めた。
背後から、古びたシャッターが下りるガラガラという音が、夜の空気にさみしく響き渡っている。
街路灯がぽつりぽつりと灯る夜道を歩きながら、今日一日を振り返る。
インターネットという果てしなく広がる宇宙で輝く、雲の上の存在だった神イラストレーターと、まさかこんな近所で出会えるなんて思ってもいなかった。
奇跡を噛みしめるたび、嬉しさで胸がはじけ飛びそうだ。
それだけじゃない。玲瑠が口にした拙い言葉に、リヒトは「こうして直接声をかけてもらえる方が何倍も嬉しいものだな」っと笑顔になってくれた。
さらに、「俺の信念が報われたような気がしてすごく嬉しかったよ」っとまで言ってくれて、ほんのわずかでもリヒトの力になれた気がした。
誰かの役に立てたという確信。ここ数年味わったことのない熱い自己肯定感が、血流に乗って全身を駆け巡っていく。
リヒトと交わした一言一言。一緒にマステ絵を鑑賞した幻想的な時間。そして、ふたりだけで共有した秘密の約束。それらを思い返すたび、胸の鼓動がトクトクと甘い拍動を刻む。
「……んふふ」
街灯というスポットライトを浴びている玲瑠の顔は、嬉しさのあまりへにゃりと緩みきっていた。
……でも、その自然と浮かんでいた笑顔は、歩みを進めるごとに少しずつしぼんでいった。
お風呂上がりみたいにぽかぽかとしていた桃色の感情が、見慣れた家屋が立ち並ぶ光景に戻るにつれて、黒色へと塗り潰されていく。
夢のような時間を過ごした代償を払わされる瞬間が、刻一刻と近づいている。
たどり着いた、監獄と呼ぶのがふさわしい、みすぼらしい外観の古びたアパート。錆びついた外階段を上り、二階の角部屋を目指す。
曇りガラスから漏れ出るLEDの冷ややかな白い光。それを見ただけで、ハァハァっと呼吸が浅くなった。
ドアの前に立ち、深呼吸をして息を整える。「よしっ!」っと、一喝入れてドアノブに手をかけた……手が離れてしまった。
(もう一回!)
ドアノブをギュッと握り、勢いで手首を回転させた。
音を立てないよう、数ミリ単位の慎重さで開けようと試みた。でも、手入れのされていない金具が、無慈悲にも「キィィィィ」っと甲高い音を響かせる。
「……ただいま」
消え入りそうな声で呟き、狭い玄関へと踏み込んだ。
足元には、かかとがすり減った黒いパンプスが乱雑に脱ぎ捨てられ、その脇にはアルコール度数高めのストロング缶が二本転がっている。
部屋全体に充満するのは、ツンと鼻を突く甘酸っぱい臭いと、湿った生活臭だ。
「……あんた……何時だと思ってんの」
「――っ」
全身が凍りつく。
母親の衣琉華(いるか)は、すでに帰宅していた。玄関から入ってすぐ、リビング兼キッチンのテーブルに座り、ロング缶を握りしめたまま血走った鋭い視線を玲瑠へと向けている。
その顔は、一日の疲労と、玲瑠に対する理不尽なイラ立ちで大きく歪みきっていた。
威嚇する野獣のような眼光で射抜かれ、呼吸の仕方も、脚の力の入れ方すら忘れてしまいそうだ。
ただ、頭だけは異様なほど高速で回転していた。
目の前の敵に対してこう答えたらこう返ってくるという幾多の未来の予想が、一瞬で頭の中を流れていく。
ここは変に嘘をつかず、事実だけを平然と口にするのが正解だと、長年の学習体験が告げていた。
「ちょっと……文房具屋さんでシャープペンの芯を買ってました。ゴメンなさい、遅くなってしまって」
玲瑠は視線を斜め下へ逸らし、傷だらけのフローリングの木目を見つめた。
荒波を立ててはいけない。
衣琉華の酔い具合、目の据わり方、顔に作る深いシワの数、声のトーンから瞬時に危険度のパラメータを察知し、極限まで感情を削ぎ落とした平坦なトーンで返す。
「文房具屋だぁ? 芯一個買うのに、なんでこんな時間までほっつき歩いてんのよ!」
衣琉華がバンッと勢いよくテーブルを叩いた。
玲瑠の肩がビクッと跳ね上がる。
空いた缶が横倒しになり、テーブルの上を転がって床にカランっと落ちる。
「あんた勉強もせずふらふら遊び回って、完全に人生舐めてるでしょ!」
その通りだけど、こんな腐り切った世界で生きる意味なんて見出せないから舐めているだなんて、敵の前では口が裂けても言えるはずがない。
「舐めてないよ。勉強は夕方までちゃんと終わらせたし……」
「終わらせたからなんだって言うのよ!? 言われたことだけじゃなくて、もっと自習しなさいって言ってんの!」
衣琉華は怒号とともに立ち上がり、千鳥足で玲瑠へ迫った。
玲瑠は思わずあとずさり、背中が玄関ドアにぶつかる。
濃密な酒臭さと、まき散らされる怒りの熱気に、「もう勘弁してよ」っと思う。
「本当になさけないわ。私はまともに育ててきたつもりなのに、不登校になって、普通の高校にも通えなくて……通信制の高校ならできるって言ってたのに、その勉強すらまともにできてないじゃない。勉強しないなら今すぐこの家から出ていきなさい!」
出た、衣琉華の決まり文句だ。
衣琉華は『まともに育ててきた』と呪文のように繰り返すけど、最低限のエサと小屋を与えてきただけで、心に寄り添ってくれたことなんて一度だってなかった。
それなのに、衣琉華は自身が最高の親であるかのような全能感を抱いている。そして、思い通りにいかなかった過去の人生の敗北感と劣等感をすべて娘へぶつけてくる。
どうせ、衣琉華も中高生のときは頭がよくなかったくせに。
衣琉華のこの発狂は、玲瑠が不登校になる遥か昔から始まっていた。
小学生の頃から成績が普通でも「こんな点数しか取れないの」っと叫び散らし、いい点数を取ったときも「これが普通」だと吐き捨てて。褒めてくれたことなんて一度もなかった。
そして、テストのたびにこうして家から追い出すと脅迫してきた。
稼ぐ手段も生きる術も持っていない、幼い子どもに対してだ。
経済力を人質に取った、まぎれもない精神的虐待。っと、インターネットのカウンセラーたちが口をそろえてそう呼んでいる。
本当なら「そんなやる気を削ぐ育て方をしてきたから、生きる意欲を失って、最小限のエネルギーでしか生きられない娘になったんだよ」っと、言い返してやりたい。
(落ち着け……反論したら終わりだ。今刺激したら、本当に外に放り出される)
玲瑠は爪が手のひらに食い込むほど拳をきつく握りしめ、喉元まで出かかった感情を必死に押し殺した。
「それにあんた、家計がどれだけカツカツかわかってて言ってるの? 通信制の学校だって学費がかかるのよ! 真剣にやらないなら、今すぐ学校辞めて働きなさい!」
肩を細かく震わせる。
(中卒がまともな職に就けるわけないでしょ。それに、お金がないお金がないって……お母さんがお父さんと離婚したからお金がないんでしょ!)
奥歯を強く噛みしめ、最終兵器の言葉をギリギリで踏みとどまる。
この爆弾の言葉をこらえて、もう何度目になるだろう。
(お前が勝手に浮気して、無計画に私を産んだから、苦しくて当たり前なんだよ!)
心の中では冷酷な言葉を並べ立て、目の前に立つ母親という存在を軽蔑することでしか精神を保てない。
衣琉華と幼少期に家を出ていった父親から直接聞いたわけじゃないが、玲瑠はインターネットで集めた知識をかき集め、悲しい真実へたどり着いていた。
――玲瑠は、離婚した父親の実子じゃない――
母と父の血液型はどちらもA型。そして玲瑠の血液型はB型。両親の遺伝子にB型が含まれていない限り、絶対に生まれるはずのない血液型だ。
導き出される答えは、托卵。
その残酷な事実に父親は気づき、家を去っていったのだろう。
世間の離婚した父親の約半数は養育費を払うと聞くが、衣琉華は「あの人はちっとも払ってくれない」と被害者ぶる。
父親が養育費を払わないのは当然だ。
血のつながっていない子どもに金を払いたくない気持ちはよくわかる。むしろ、前に住んでいた家賃が高いアパートから、このおんぼろアパートに引っ越すとき、母親が父親に慰謝料を支払ったんじゃないかとも予想できる。
去った父親は悪くない。悪いのは浮気したこの女だ。
仮に、托卵じゃなかったとしても、この感情でしか動けない女と暮らしていれば、遅かれ早かれ父親は精神をすり減らして離婚していただろう。
とっくに娘は母親の本性を知っている。それなのに衣琉華はそれに気づかず自分だけが傷ついている被害者だと信じ込み、なにも悪くない父親の愚痴を吐き捨てているから救いようがない。
本当はすべての真実を白日の下に晒し、この女の醜いプライドを粉々に粉砕してやりたい。
そんな感情を含んだ最終兵器のような言葉が喉元まで出かかっている。
けれど、玲瑠は決して口にしない。
今感情に任せて動けば、この身ひとつで社会に放り出され、路頭に迷うことになる……でも、家出という選択肢も視野に入れないといけない。
「ゴメンなさい。お母さんの言う通りです。もっとちゃんと勉強します
その場をやり過ごすための、空っぽで薄っぺらな平謝りをする。
「ったく、ちゃんと勉強しなさいよ。今日みたいに夜遅くまで出歩いて、毎日非行に走ってたら、この先まともな人生を送れないからね」
(まともな人生……?)
胸の奥で、乾いた嘲笑が漏れた。
こんな勉強できない血統で、十分に育成できる資金も環境もなく、気持ち任せに動く気性難の母親の下に産まれた時点で、いい人生なんて送れないに決まっている。
「はああああああ、あんたの幸せを願って、本当は普通の学校に行って、普通に生きてほしかったのに、なんでこんな子になっちゃったのかしら」
衣琉華の目頭に、涙が滲んでいく。
なんて汚い涙だ。
大人としての汚さと、女としての汚さが混じった、尿よりも汚い涙なんて、インターネットで理論武装した玲瑠に効くはずがなかった。
『幸せを願って』なんて口では言いながら、理想の娘像を押しつけるだけの身勝手な主張。そしてその描いた理想に現実が追いつかず、勝手に苦しんでいる。
子供を作ろうとしたとき、衣琉華は自分が子供を育てたら、苦しい思いをする想像をしていなかったのだろうか。
いや、こんなモラルもない親が数年先を予想できる頭なんてあるはずもない。っと、自問自答で納得してあきらめた。
玲瑠は血の混じった声で反省を口にする。
「本当に、こんな風に育ってゴメンなさい。でも、少しでも勉強して将来ちゃんと働くから、心配しないで」
玲瑠は即座に反省したフリをして、スッと動き出した。
床に転がっていた空き缶を拾い上げ、シンクですすぎ、ゴミ袋へ捨てた。
衣琉華の意識を『悪い子』から『扱いやすい従順な子』へ変えるための、長年の恐怖体験から編み出した行動。
今はプライドを投げ捨て、都合のいい召使いを演じ切る。
「お母さん? もっとお酒飲む?」
「いらないわよ、もう部屋に入りなさい。顔を見てるだけでイライラするわ」
「わかった。おやすみなさい」
玲瑠は顔の筋肉を無理やり動かし、作り笑いを浮かべる。足音を立てないように、息を潜めて、トートバッグとともに逃げるようにリビングを抜け出そうとした。
「待ちなさい」
背後から呼び止められ、ビクッと体が数ミリ浮き上がる。
指先から血の気が引いて、ビリビリ痺れていくのを感じながら、ゆっくりと振り返った。
衣琉華は机につっぷし、ドロドロの瞳を向けている。
「なんですか?」
「犯罪だけは起こさないでよ。私にまで迷惑がかかるんだから」
自己中心的な釘刺しだ。玲瑠自体が犯罪を起こすことには心配していない。
「さすがの私もそこまでしないから、安心して」
そう答えてはいるけど、困窮した人間が足を踏みはずすメカニズムは学習済みだ。明日我が身。
そして、この母親から犯罪を起こしかねない存在としてさげすまれ、ハナから信用されていないのだと、改めて突きつけられた。
今さら信用なんて勝ち取るつもりはないのだけど。
「それじゃあ、おやすみなさい」
再び歩き出し、自室のドアノブに手をかけた瞬間、消えそうな小声で密かに囁く。
「犯罪者になる前に死んであげるから、お母さんには迷惑かけないよ」
感情が消えた虚ろな笑みを浮かべ、逃げるように自室に入って扉を閉めた。
パツンっと緊張の糸が切れ、全身の筋力が一気に抜け落ちる。崩れ落ちるように、その場にペタリと座った。
冷たいフローリングに太ももを押しつけ、浅く荒い息を繰り返す。
ほんの数分間のやり取りで、生命力を根こそぎ奪われたようなすさまじい脱力感。感情の振れ幅が激しい母親の相手をするのは、不発弾を抱えて綱渡りをさせられているようなものだ。
ここには、安全に息を吸える空気すらない。
(もう、疲れちゃったな)
暗がりの中、ふらつく足取りで立ち上がった。
女子高生らしさのカケラもない、安物の家具だけがぽつんと置かれた四畳半の部屋。
トートバッグをベッドへ投げ捨て、着替えもせず、吸い寄せられるように布団へ倒れ込んだ。
「……」
カーテンを閉めていない窓から、月明かりが差し込んでいる。シミが浮かぶ天井を見つめる、無の時間が流れる
「う……っ」
視界が滲み、熱い雫がもみあげを伝って枕へ染みていく。
トートバッグからスマートフォンを取り出し、電源をつけた。
もう限界だ。
SNSアプリを起動すると、手当たり次第にフォローした仲間たちがボロボロと流れてくる。
『今日もヒスられて消えたくなった』
『お前さえいなければ離婚したのにって毎日言われる』
『親にゴミ扱いされて、早く死にたい』
スクロールするたび、顔も名前も知らないけれど、確実にこの世界のどこかで息を殺して怯えている子どもたちの、悲痛なSOSが無数に流れてくる。
その助けを呼ぶ声にふれるだけで、どうしようもない安心感が生まれ、酷く摩耗した心がほんの少しだけ救われる気がした。
続けてパブリックサーチをするために検索窓をタップする。
打ち込んだのは『毒親』『機能不全家族』『アダルトチルドレン』といった言葉たち。
検索すると、玲瑠と同じような境遇を生き抜いた先人たちのアドバイスや、専門家の解説記事が次々と表示される。
(全部私のお母さんだ)
文字を追いかけるたび、奇妙な安堵が胸を包み込んでいく。
玲瑠だけじゃない。親のエゴで勝手に生み出され、この不条理な世界で泣いている子どもたちが、この世にはたくさん存在する。
その事実だけが、心の痛みを麻痺させてくれる鎮痛剤だった。
でも、画面をスクロールすればするほど、そのアドバイスは冷酷な刃となって、玲瑠の胸をざっくりと切り裂いた。
『親からの精神的ストレスから身を守る唯一の方法は、物理的な距離を置くことです。一刻も早く実家を出て独立し、連絡を断ちましょう』
『専門機関やカウンセラーに相談し、受けた傷を客観的に治療しましょう』
『アダルトチルドレンから脱却するには、親を正しく拒絶するフェイズが必要です。罪悪感を捨て、勇気を持って親から離れましょう』
専門家たちの解決策は、どれも玲瑠にとって非現実的なものばかりだった。
「できるわけないよ……」
かすれた声でつぶやいた。
ただ毎日を生きるだけで精一杯の十七歳が、どうやってこの辛さから逃れればいいのだろう。口では助けてくれるけど、現実では誰も助けてはくれない。
(結局、運がいい人しか幸せになれないんだ。私はこうやって、傷口を舐め合って、満足するしかないんだ)
他人の不幸に安堵し、自身の絶望を補強することでしか快楽を得られない惨めさ。
どうして親が衣琉華だったのだろう。どうして、普通に笑い合える家庭に生まれてこられなかったのだろう。
不公平すぎる世界の理不尽さに、玲瑠は膝を抱え、奥歯をギリリと噛みしめた。
(ああ、もうこんな人生嫌だ……今すぐ、消えてなくなりたい)
玲瑠はベッドのマットレスの下へスッと手を差し込み、固い感触のある物を引っ張り出した。
なけなしのお小遣いを叩いて買った、頑丈な三打ち縄。トラックの荷台などで重い資材を固定するための道具だ。
無機質でザラついた感触のその縄は……首吊り縄の形状に結われている。
ネットで画像を見ながら結んだ逃げ道。
保険証を衣琉華に握られ、メンタルクリニックに通うことすら許されない玲瑠にとって、この縄が唯一の精神安定剤だった。
いつでも自分の意志で人生の終わりを選べる、っというジョーカーが手元にあるだけで、人生は楽に生きられる。っと、SNSで流れていた。
その投稿主が言うには、過去に発禁された本に書かれていたらしい。
実際、玲瑠はこの首吊り縄があるから、絶望的な世界でもギリギリのラインで踏みとどまっていられた。
さらに、首の吊り方もしっかりと勉強をしていた。
ただ単に首を吊るだけだと、息苦しさに悶えながら死ぬことになる。だから絞首刑のように高い所から落ちるように首を吊ることによって、一頸椎を折って一瞬で死ぬことができる。
心の支えの命綱をそっと抱きしめた。
「うっ……う……っ……リヒト先生……」
ふと、今日初めて出会ったばかりの男性の名前が口からこぼれた。
理由はわからないけど、すがるようにその名を呟いてしまう。
「リヒト先生……リヒト先生……」
その名を囁いている間だけは、心が癒されるのはわかる
「リヒト先生……私も救ってください。なにもできない私をキレイなお姫様にしてください……」
その晩、玲瑠は首吊り縄の輪を強く強く抱きしめ、憧れのイラストレーターの名前を繰り返し呟きながら、静かに眠りについた。
