それは今から十日前の夕方のこと。
天気は晴れているのに、シャープペンの芯を買いにコンビニへ向かう玲瑠の足取りは、ドロドロの土を踏みしめているようにひどく重たかった。
日頃運動をしていないからだろうか、ひさしぶりに外に出て残暑の不快感にやられたからだろうか。
あるいは、あの母親と顔を合わせる日常に、心も体もすっかり摩耗してしまったからだろうか。
とにかく一歩踏み出すことすら億劫で仕方がなかった。
(あそこ、まだ開いてるかなぁ……)
スタミナを使い切った玲瑠の頭に、ふと記憶が蘇った。
小学生の頃歩いていた通学路の脇道でひっそりと営業していた古びた文房具店。
あそこなら、コンビニへ行くより大幅に距離短縮できる。
今も営業しているかはわからない。けれど、息が上がっている玲瑠は望みをかけて目的地を変更した。
コンビニへと続く道から外れ、狭い裏道へと進路を切り替える。
小学校を卒業してから歩いていない、ひさしぶりの通学路をスローペースで進んでいく。
懐かしい風景を視界に収めながら数分歩くと、お目当ての場所にたどり着いた。
目の前にあるのは、まるで時の流れから取り残されてしまったかのような、昭和の香りを強く残す小さな店舗兼住宅の家屋だった。
年季の入ったこげ茶色のトタンの壁面に、瓦屋根の二階建て構造。出入口の上部に掲げられた木製看板には、黒のインクで『涼水文房具店』っと書かれている。しかし、長年の雨風と紫外線に晒され、黒い文字はかすれ、半ば消えかけていた。
それでも、ガラス張りの壁面は手入れを怠っていないみたいで、ピカピカに磨かれていた。ガラス戸越しに覗く店内は明かりが灯っている。ただ、人影は見当たらない。本当に営業しているのだろうか。
誰もいなかったら、それはそれで構わない。もし人がいて営業していないと言われたら恥をかいてしまう。
様々なシチュエーションを高速で思い浮かべ、こうなったらこう対応しようと念入りに予行練習をする。
息を入れ、引き戸のくぼみに指をかける。グッと力を込めて横に滑らせると、油が
切れた戸車が甲高い金属音を上げた。
冷房のひんやりとした風がスッと肌を刺す。
「いらっしゃいませ〜」
カウンターの奥から、気だるくもおっとりした男性の声が響いた。どうやら営業しているらしく一安心。
玲瑠以外に客のいない狭い店内は、昭和の面影が色濃く残っていた。
いつ組み立てられたのかわからない、ポロポロと木屑が落ちる商品棚に文房具が点々と並べられている。
黄色く変色したノートなどの紙製品を始め、古い商品の匂いが複雑に混ざり合い、どこか懐かしくも切ない独特の空気が漂っている。
昔からデザインが変わらない六角鉛筆。古いモデルのシャープペンシル。ブリキ製のシンプルな筆箱。今の時代でも十分使えそうなホチキスや穴あけパンチといった事務用品。
インターネットに転がるレトロ写真でしか見たことがないような世界が、自宅からほんの数百メートルの場所にまだ存在していたなんて、思いもしなかった。
ガラス窓から差し込む夕焼けのオレンジ色が、映画のワンシーンのようなエモーショナルな雰囲気を作り出している。
冷房のゴオオオオッという重い駆動音が響く中、シャープペンシルの芯を探すため、タイムスリップしたかのような世界を歩いていく。
(……ん? えっ、ちょっと待って、嘘でしょ……この絵って!)
足がピタッと止まる。
壁際の商品棚の上。壁の一面に、一瞬で目を奪い去る魅力的な絵画が無数に飾ってあった。
何枚もの絵画は、豪華絢爛なプリンセスドレスをまとい、背中から大きな翼をバサッと広げた、お姫様と天使を融合させたような幻想的な少女だ。
そして、遠目からでもハッキリとわかった……この絵が一体なにを使って描かれているのかを。
マスキングテープだ。
本来なら塗装のはみ出しを防いだり、物を仮止めしたりするために使用する道具。オシャレな柄のマステは、手帳のデコレーションなどに使う物だと思っていた。
でも、その常識が、ショート動画をボーッとスクロールしていたとき流れてきたメイキング動画で覆された。
この世には、マスキングテープを巧みに操り、一枚の作品を作り上げるクリエイターたちが存在するのだ。
通称「マステ絵」っと言っただろうか。
画面越しにマステ絵を見かけたときは「へぇ、すごーい」っとハートマークを押し、すぐにスクロールして次の動画へと流していた。
でも今、手の届く距離に存在する実物のマステ絵は、放つ存在感がまったく違っていた。
チェック柄や花柄、ストライプ柄といった異なる柄は、手で細かくちぎられたり、デザインナイフで繊細に切り出されたりしている。その数々のマステの柄はケンカすることなく、計算し尽くされて上手く噛み合っている。
さらに、ドレスの重厚な生地の質感や影の立体感。躍動感あふれる翼の広がり。風になびく繊細な髪の毛の流れ。背景に舞い散る花弁に至るまで、すべてがマスキングテープだけで緻密に表現されていた。
(嘘……これって、もしかして……)
心臓がドクンドクンっと大きく脈打ち始める。
SNSのタイムラインやショート動画に流れてくるたび、その美しさに息を飲み、孤独な夜を彩ってくれた無数のイラスト。その中のひとつが、今目の前にある。
ということは、あの有名イラストレーターがここにいるかもしれない。
店員に声をかけたら出しゃばり過ぎだろうか。いや、そもそも話しかけてもいいのだろうか。いや、でも有名人に話しかけてみたい。
トートバッグの紐を強く握りしめる手のひらは、いつの間にか汗でビタビタに濡れていた。
「ありがとな、じっくり見てくれて」
静寂を破るように低い声で呼びかけられ、ビクッと肩を震わせた。ゆっくりと顔を向ける。
カウンターの奥からのっそりと歩み寄ってきたのは、さっき「いらっしゃいませ~」っと穏やかな声で挨拶をした男性店員だった。
年齢は二十代後半ぐらいだろうか。ほつれた糸が飛び出るベージュのカーディガンに、灰色のダボッとしたスラックスをはいている。
無造作に伸びた黒髪の隙間から見える、つり上がった大きな両目は、やさしく輝いている。
うっすらと生やした無精髭に、深いえくぼ。少しだけ疲れたような雰囲気を漂わせつつも、どこか陽だまりが宿っている温厚な顔だ。
大人としての落ち着きをまとった雰囲気。
玲瑠の前に男性が立つと、フローラルな柔軟剤の香りがふわっと鼻腔をくすぐって、ハッと正気に戻った。
「あっ、いえ……すごく素敵な絵だなって思って」
「ありがとな」
「あの……この絵を描いたのって、お兄さんですか?」
消え入りそうな声で、流れに任せて質問をしてみた。
「俺が描いた絵だ。やっぱり、画面越しに文字で感想をもらうより、こうして直接言葉をもらえる方が何倍も嬉しいものだな」
男性は少し照れくさそうに頬をムニョっと上げた。
玲瑠はここ数か月、母親、コンビニ店員、オンラインでの学校の先生など、生活の中で関わる人としか会話をしていない。
赤の他人、それも初対面の人と雑談のような会話を交わす方法なんて、遥か昔に忘れてしまった。
(よし! 聞いてみよう!)
慣れないシチュエーションでの会話に気恥しさがあった。でも、ここで尋ねないと一生後悔すると直感が告げていた。
ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込み、小さな口を大きく開く。
「あの! ……もし間違ってたら申しわけないんですけど……お兄さんって、もしかして……マスキングテープで絵を描いてる、リヒト先生ですか?」
男性のくたびれていた顔が、一瞬でパーッと明るくなる。
「おお、俺のこと知ってくれてるのか! まさかこんな所で俺のこと知ってる人と出会えるなんて思ってもなかった。ホントにありがとな!」
「――っ!」
頭がオーバーヒートを起こしそうになる。
まさか、自宅から数百メートルしか離れていない文房具店で、ずっと画面越しに見ていたイラストレーターと出会えるなんて、夢にも思わなかった。
インターネット社会の現代では、数多の絵描きたちが次々と作品を投稿している。
とりわけ、近年は生成AIの台頭によって、高クオリティーな画像が秒単位で量産され、タイムラインの競争は熾烈を極めていた。
そんな群雄割拠の時代に、作品を上げるたびに何千、何万の「いいね」をもらっている『リヒト』が今、目の前に生きている人間として存在している。
さらに、大半のネットユーザーは画面上のデジタルデータとしてしか拝めない美しいアナログイラストを、この瞳で、生で見ることができている。
玲瑠は自分だけがこの贅沢な瞬間を独占しているという状況に、胸の奥がトクトクと熱いビートを刻み始めていた。こんなにも胸が高鳴る感覚なんて、いつ以来だろう。
堰を切ったように、小さな口が大爆発を起こす。
「私もリヒト先生ご本人とこんなところで会えるなんて思ってもいませんでした! SNSで作品が流れてきたり、メイキング動画を見るたび、すごいなーって思って、いつも感動してました!」
「重ね重ねありがとな。ホントに嬉しい限りだな」
「だって、本当にすごすぎるんですもん! あの、サイン貰ってもいいですか!? ここ、色紙売ってますか?」
「ああ、ゴメンな、もう色紙買う人がいないから入荷してないんだ」
「全然大丈夫です! 今度またきますから、そのときにお願いします!」
「もちろんだ」
上手く舌が動くか心配していたけど、驚くほど軽やかに動いてくれている。
「あの、もうひとつ質問してもいいですか?」
「なんだい?」
「どうしてお姫様と天使をかけ合わせたようなデザインを描こうと思ったんですか?」
「おっ、いい着眼点だな」
リヒトはンフフフフっとお茶目に口元を緩め、少し誇らしげな顔を見せた。
「マステ絵っていうのは、貼る面積が多ければ多いほどいいと思ってる、俺なりのこだわりなんだ。だから、ふわっと裾が大きく広がるプリンセスドレスを着せて、背中に大きな翼を広げさせて、髪を長くして、貼る面積を広げてるんだ」
「へぇ~、ものすごく考えてデザインされてるんですねぇ」
改めて壁に飾られたマステ絵を見上げる。
リヒトの解説を聞いてから絵を鑑賞すると、確かにA4の紙いっぱいに画材を使えるような構成になっている。
「あっ、リヒト先生! もうひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだい? どれだけでも聞いてくれよ」
「リヒト先生はなんでマスキングテープで絵を描こうって思ったんですか? 油絵や水彩画やデジタルのイラストを始める理由はなんとなくわかりますけど、マステ絵っていうマイナーな画法を選んだきっかけが知りたいです!」
問いかけると、リヒトは少しだけ困ったように眉をハの字にした。
「本当は俺も子供の頃は油絵とか水彩画みたいなメジャーな画法をやりたかったんだけど、いろいろ家庭の事情があってできなかったんだ。でも、大人になってからどうしても絵を描きたくなって、せっかくなら他人がやらないことをしようと思って、この店で売れ残ってたマスキングテープを使ったところが俺のマステ絵人生のスタートなんだ……ほら、あれが売れ残りのマステだけ描いた、初期の頃のイラストだ」
リヒトはゴツゴツとした指をすっと伸ばし、壁の端に飾られた一枚を指した。
その作品は、どこかくすんだ茶色や深緑、派手さのない花柄で構成されていた。
他の作品のような華やかさや煌びやかさはない。でも、リヒトの手によって、控えめな柄が見事に調和し、味わい深い一枚へと昇華されていた。
「すごいです……売れ残りのマスキングテープで描いたって言われないと、絶対にわからないクオリティーですよ!」
「ありがとな。マステ絵っていうのは面白いもので、ゲームみたいな画法なんだ。売れ残った柄という一度は見捨てられた戦力でも、上手くかけ合わせることによって価値がある存在に変えることができるんだ。その売れ残った子たちを上手に使って、魅力を引き出してあげるのもマステ絵師の腕の見せ所なんだ」
「おお……! どんな画材でも完璧な作品に変えちゃうなんて、やっぱりリヒト先生は神イラストレーターですね!」
玲瑠の口から、偽りのない称賛がこぼれ落ちる。
「いや、俺は神なんかじゃない。マステ絵っていうのは、デザイナーさんたちが脳に汗水を垂らして作ってくれた素敵な柄を借りて絵を描く技法なんだ。だから、使わせてくれた素材たちがよかっただけだ」
リヒトは棚に並ぶ、少し色褪せたマステたちを愛おしそうに見つめた。
その謙遜して照れ隠しをするリヒトに、玲瑠は追撃の褒め言葉を重ねる。
「柄、もっ、いいんですよ! リヒト先生、照れないでください! 実際に売れ残ったマステで絵を描いて、何千もいいねをもらえるなんて、リヒト先生の巧み画力がないと絶対にできないことなんですから。神イラストレーターとして、もっと自信を持ってください!」
「神、か……俺が神様……ねぇ」
「間違いなく神イラストレーターですよ!」
「そっか……神様か。この世界に、本当に神様なんて存在したらよかったんだけどな」
やわらかかったリヒトの横顔に、ふと遠くを見つめるような、哀愁を帯びた深い陰が差した。
「なぁ、急に変な質問をして悪いんだけど……俺に使われたこの子たち。特に、この店で売れ残ってたこの子たちは、俺の絵になれて喜んでると思うか?」
突然投げかけられた重みのある問いかけ。
理由はわからないけど、この場は盛り上げなければならないと本能が悟る。
「絶対に喜んでますよ! だって、こんなにキレイな絵になれたんですから!」
「それはよかった。この古い店でホコリ被っていた子たちを、少しは救ってあげられたような気がして、すごく嬉しいよ」
リヒトはマスキングテープに向けていた、慈しむような切ない眼差しを玲瑠に向けた。
「そんな……私は本当のことを言っただけですよ。それともうひとつ! リヒト先生はマスキングテープのことをこの子たちって子供みたいに扱って、救ってあげたいって思ってるやさしい気持ち、すっごく素敵だなって思いました!」
「素敵な気持ちって、ありがとな。でも、救ってあげたいっていうこの気持ちは、ある種残酷な気持ちなんだ」
「残酷……? どうしてですか?」
「勝手に同情してるからだ」
「なにを同情してるんですか?」
「売れ残ったこの子たちは、せっかく生み出されたのにこんな古びた店にやってきて、誰からも選ばれなかった子たちなんだ。生まれてきたのに暗い棚の中で劣化して、消えていくだけの人生なんて悲しいんじゃないかって思って、使ってあげたんだ」
「そう……です……ね……」
静かに語るリヒトの言葉に、玲瑠の胸の奥が強烈に疼き出す。
――売れ残った
――誰からも選ばれなかった
――暗い棚の中で劣化して消えていく
そのフレーズのひとつひとつが、玲瑠が歩んできた人生と恐ろしいほど重なり、融け合っていく気がした。
(私と同じだ……何者にもなれなくて、誰からも必要とされなくて……ただ静かに消えるのを待ってる私と、まったく一緒……)
最初から戦う土俵に立つことすら許されなかった、運も才能もない玲瑠にとって、リヒトの言葉は鋭い刃となって胸を突き刺した。
(私だってお金持ちの家に生まれてたら……マステを愛するリヒト先生みたいに、愛してくれる人のところに生まれてたら……もっと輝ける人生を歩めてたのかな……)
リヒトの手によって救われ、居場所を与えられた売れ残りのマスキングテープたちが、どうしようもなく羨ましかった。
「それに、デザイナーさんだって自分が作った我が子が使われなかったら悲しいだろ? だからマステ絵師が切って、ちぎって、貼って、一枚の作品に仕上げて、たくさんの人に見てもらって、こんな素晴らしい柄なんだぞってことをみんなに教えてやりたいんだ」
「……」
玲瑠は言葉が出ず、リヒトの少し肌荒れした横顔を見つめ、創作姿勢に耳を傾けることしかできなかった。
「俺は人気の柄も、売れ残った柄も、俺の手元にきてくれた画材たち全員に『この人の手元にきてよかった』って思ってもらえるように日々絵を描いてるんだ。今日、ファンの子にマステたちの代弁をしてもらえて、俺の信念が報われたような気がしてすごく嬉しかったよ。改めてありがとな」
リヒトは口角を少し上げ、どこか寂しげで、けれど誇らしげな笑みを浮かべた。
ファンの玲瑠は憧れのイラストレーターから感謝され、心の底から嬉しかった……が、ふわっとした声色でリヒトが告げたあるセリフに、ピキッとした頭痛が走る。
『俺は人気の柄も、売れ残った柄も、俺の手元にきてくれた画材たち全員に『この人の手元にきてよかった』って思ってもらえるように日々絵を描いてるんだ』
その文章は、インターネットの世界で嫌というほど目にしてきた、ある残酷な真実と重なって胸に落ちる。
(これって……親ガチャだよね……)
SNSにどっぷり浸かるZ世代の玲瑠にとって、それはあまりにも身近な理論で、絶望を象徴する言葉だった。
生まれた瞬間、どの親の元に落ちるかで、初期ステータスも、人生の選択肢も、未来の結末も、すべてが決まってしまう理不尽な現実。
どれだけ努力をしたところで、親の才能、財力、環境という基盤が整った人には敵わない。いや、戦う前、スタートラインに立った瞬間から負けが確定している。
ネットで見かけるスピリチュアルな人たちはよく「子供は親を選んで生まれてくる」なんて戯言を言う。
また、親ガチャなどないと豪語する言論人もいるが、その人たちは自覚していないだけで親ガチャ当たりの環境で育っているのが真実だ。たまにその真実を暴かれて炎上している言論人を見かける。
誰だって、裕福で、優しくて、才能を持っていて、力を伸ばしてくれる恵まれた親の元に生まれたいに決まっている。
玲瑠だってそうだ。もしも愛してくれる親の元に生まれていれば、こんな辛い思いをしないで済んだはずだ。
生まれた時点で敗北が決まっている負け組たちが、あきらめを受け入れるために使う言葉――それが親ガチャだ。
けれど、リヒトは違っていた。
リヒトはクリエイターという親の立場から、手元にやってきた子供たちへ、どこまでも深い愛を注いでいる。そして、確かな技術と信念を持って、どんなに不人気の柄でも大切に扱い、マステ絵という生きる場所を与えている。
(リヒト先生……カッコよすぎる……)
胸がギュッとしめつけられるような、未だかつて味わったことのない情熱が体を満たしていく。
冷房が効いているはずの店内が、一気に春の陽気になったみたいだ。
(もしも本当に生まれ変わりがあるなら、次はリヒト先生の手の中にあるマスキングテープになりたい。そうすれば、こんな私でも、世界で一番キレイなお姫様の一部になれるかもしれないのに)
甘い願望が胸の奥で芽生える。
今日初めて出会ったばかりの男性が、玲瑠の中で神聖な存在へと変わっていく。
「へへっ、頼まれてもいないのに自分語りしちゃったな。長々としゃべってゴメンな」
リヒトは鼻の頭をかきながら、照れくさそうに笑った。
その何気ない笑顔すら、どうしようもなく特別なものに見える。
「いえ! 涙が出そうなぐらい、素敵な言葉でした!」
「それはよかった。あっ、そうだ。この話は、対面で会えたファン限定の秘密ってことでお願いできるかな? 今、売れ残りのマステだけで描いた絵でコンテストに応募しようとって思っていて、世間に絵を出したときにネタバラシしようと思ってるから、ネットには書かないでくれると助かるな」
「はい! 絶対にしません! ふたりだけの秘密にします!」
ふたりだけの秘密という響きが、特別な絆に思えて、胸がキュンとときめいた。
「よろしく頼んだ。そういえばファンなのに名前を聞いてなかったな。ネットのアカウント名を教えてくれないか?」
「えっと……ええと、その……」
「ゴメンゴメン! 恥ずかしかったら無理に言わなくていいからね」
「いえ! レイルです……!」
「レイルちゃん……誰だ? すまないな、パッと出てこなくて」
「見る専門のアカウントなので知らないと思います! でも、これからはたくさん感想送りますね!」
「ありがとなレイルちゃん。これからもファンとしてよろしくな」
「はい! よろしくお願いします!」
本当は『エンペラーズカフェ』っというハンドルネームのアカウントを使っているけど、名前が痛々しくて伝えるのが恥ずかしかった。
そこでとっさに口から出てしまったのが、本名の玲瑠だったが、キラキラネームで本名と思われていないみたいだ。
玲瑠は母親からつけられたこの名前がずっと大嫌いで仕方がなかった。でも、憧れのイラストレーターから「レイルちゃん」っと優しく呼ばれた瞬間、生まれて初めて名前が好きになれたかもしれない。
すっかり上機嫌になった玲瑠は、舌が回る口を開いた。
「あの! もし良かったら、もっと近くで作品を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ! ちょっと待っててくれ」
リヒトは店の奥から脚立を持ってくると、ひょいと登り、棚の上部に飾られた額縁付きのマステ絵をいくつか下ろしてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
受け取った額縁を両手で大切に掴み、顔に近づけて見つめる。
「わぁ! すごい! すごすぎる!」
最初に手にしたのは、天使のお姫様が色鮮やかな花束を抱きしめている絵だった。
間近で見ると、髪の毛一筋一筋の精密なカットや、幾重にも重ねられたテープが生み出す影の立体感が、より鮮明に鑑賞できる。
とりわけ目を引いたのは、抱えられた赤いバラの花束だ。個性的な模様のマスキングテープで彩られ、幻想的に咲き誇っている
このレベルに到達するまで、いったいどれだけの時間と情熱を注いできたのだろうか。相当打ち込んだことが伺える。
それから、二枚目、三枚目と、ふたりだけの特別な鑑賞会は続いていく。
作品一枚一枚、リヒトが絵のこだわりや制作秘話を語ってくれるたび、憧れのイラストレーターとの心の距離が縮まっていくような幸福感に包まれた。
一枚でも多く。一秒でも長く、この人の絵を見て、この人の声を聞いていたい。
今、この小さな空間には、外の世界の冷たいニュースも、SNSのドロドロとした喧騒も、あの家の息苦しさも、なにひとつ存在していない。
ガラス戸の向こうに広がる空は、玲瑠が気づかないうちに、燃えるような茜色から、深みのある濃い藍色へと、ゆっくりと移り変わっていった。
天気は晴れているのに、シャープペンの芯を買いにコンビニへ向かう玲瑠の足取りは、ドロドロの土を踏みしめているようにひどく重たかった。
日頃運動をしていないからだろうか、ひさしぶりに外に出て残暑の不快感にやられたからだろうか。
あるいは、あの母親と顔を合わせる日常に、心も体もすっかり摩耗してしまったからだろうか。
とにかく一歩踏み出すことすら億劫で仕方がなかった。
(あそこ、まだ開いてるかなぁ……)
スタミナを使い切った玲瑠の頭に、ふと記憶が蘇った。
小学生の頃歩いていた通学路の脇道でひっそりと営業していた古びた文房具店。
あそこなら、コンビニへ行くより大幅に距離短縮できる。
今も営業しているかはわからない。けれど、息が上がっている玲瑠は望みをかけて目的地を変更した。
コンビニへと続く道から外れ、狭い裏道へと進路を切り替える。
小学校を卒業してから歩いていない、ひさしぶりの通学路をスローペースで進んでいく。
懐かしい風景を視界に収めながら数分歩くと、お目当ての場所にたどり着いた。
目の前にあるのは、まるで時の流れから取り残されてしまったかのような、昭和の香りを強く残す小さな店舗兼住宅の家屋だった。
年季の入ったこげ茶色のトタンの壁面に、瓦屋根の二階建て構造。出入口の上部に掲げられた木製看板には、黒のインクで『涼水文房具店』っと書かれている。しかし、長年の雨風と紫外線に晒され、黒い文字はかすれ、半ば消えかけていた。
それでも、ガラス張りの壁面は手入れを怠っていないみたいで、ピカピカに磨かれていた。ガラス戸越しに覗く店内は明かりが灯っている。ただ、人影は見当たらない。本当に営業しているのだろうか。
誰もいなかったら、それはそれで構わない。もし人がいて営業していないと言われたら恥をかいてしまう。
様々なシチュエーションを高速で思い浮かべ、こうなったらこう対応しようと念入りに予行練習をする。
息を入れ、引き戸のくぼみに指をかける。グッと力を込めて横に滑らせると、油が
切れた戸車が甲高い金属音を上げた。
冷房のひんやりとした風がスッと肌を刺す。
「いらっしゃいませ〜」
カウンターの奥から、気だるくもおっとりした男性の声が響いた。どうやら営業しているらしく一安心。
玲瑠以外に客のいない狭い店内は、昭和の面影が色濃く残っていた。
いつ組み立てられたのかわからない、ポロポロと木屑が落ちる商品棚に文房具が点々と並べられている。
黄色く変色したノートなどの紙製品を始め、古い商品の匂いが複雑に混ざり合い、どこか懐かしくも切ない独特の空気が漂っている。
昔からデザインが変わらない六角鉛筆。古いモデルのシャープペンシル。ブリキ製のシンプルな筆箱。今の時代でも十分使えそうなホチキスや穴あけパンチといった事務用品。
インターネットに転がるレトロ写真でしか見たことがないような世界が、自宅からほんの数百メートルの場所にまだ存在していたなんて、思いもしなかった。
ガラス窓から差し込む夕焼けのオレンジ色が、映画のワンシーンのようなエモーショナルな雰囲気を作り出している。
冷房のゴオオオオッという重い駆動音が響く中、シャープペンシルの芯を探すため、タイムスリップしたかのような世界を歩いていく。
(……ん? えっ、ちょっと待って、嘘でしょ……この絵って!)
足がピタッと止まる。
壁際の商品棚の上。壁の一面に、一瞬で目を奪い去る魅力的な絵画が無数に飾ってあった。
何枚もの絵画は、豪華絢爛なプリンセスドレスをまとい、背中から大きな翼をバサッと広げた、お姫様と天使を融合させたような幻想的な少女だ。
そして、遠目からでもハッキリとわかった……この絵が一体なにを使って描かれているのかを。
マスキングテープだ。
本来なら塗装のはみ出しを防いだり、物を仮止めしたりするために使用する道具。オシャレな柄のマステは、手帳のデコレーションなどに使う物だと思っていた。
でも、その常識が、ショート動画をボーッとスクロールしていたとき流れてきたメイキング動画で覆された。
この世には、マスキングテープを巧みに操り、一枚の作品を作り上げるクリエイターたちが存在するのだ。
通称「マステ絵」っと言っただろうか。
画面越しにマステ絵を見かけたときは「へぇ、すごーい」っとハートマークを押し、すぐにスクロールして次の動画へと流していた。
でも今、手の届く距離に存在する実物のマステ絵は、放つ存在感がまったく違っていた。
チェック柄や花柄、ストライプ柄といった異なる柄は、手で細かくちぎられたり、デザインナイフで繊細に切り出されたりしている。その数々のマステの柄はケンカすることなく、計算し尽くされて上手く噛み合っている。
さらに、ドレスの重厚な生地の質感や影の立体感。躍動感あふれる翼の広がり。風になびく繊細な髪の毛の流れ。背景に舞い散る花弁に至るまで、すべてがマスキングテープだけで緻密に表現されていた。
(嘘……これって、もしかして……)
心臓がドクンドクンっと大きく脈打ち始める。
SNSのタイムラインやショート動画に流れてくるたび、その美しさに息を飲み、孤独な夜を彩ってくれた無数のイラスト。その中のひとつが、今目の前にある。
ということは、あの有名イラストレーターがここにいるかもしれない。
店員に声をかけたら出しゃばり過ぎだろうか。いや、そもそも話しかけてもいいのだろうか。いや、でも有名人に話しかけてみたい。
トートバッグの紐を強く握りしめる手のひらは、いつの間にか汗でビタビタに濡れていた。
「ありがとな、じっくり見てくれて」
静寂を破るように低い声で呼びかけられ、ビクッと肩を震わせた。ゆっくりと顔を向ける。
カウンターの奥からのっそりと歩み寄ってきたのは、さっき「いらっしゃいませ~」っと穏やかな声で挨拶をした男性店員だった。
年齢は二十代後半ぐらいだろうか。ほつれた糸が飛び出るベージュのカーディガンに、灰色のダボッとしたスラックスをはいている。
無造作に伸びた黒髪の隙間から見える、つり上がった大きな両目は、やさしく輝いている。
うっすらと生やした無精髭に、深いえくぼ。少しだけ疲れたような雰囲気を漂わせつつも、どこか陽だまりが宿っている温厚な顔だ。
大人としての落ち着きをまとった雰囲気。
玲瑠の前に男性が立つと、フローラルな柔軟剤の香りがふわっと鼻腔をくすぐって、ハッと正気に戻った。
「あっ、いえ……すごく素敵な絵だなって思って」
「ありがとな」
「あの……この絵を描いたのって、お兄さんですか?」
消え入りそうな声で、流れに任せて質問をしてみた。
「俺が描いた絵だ。やっぱり、画面越しに文字で感想をもらうより、こうして直接言葉をもらえる方が何倍も嬉しいものだな」
男性は少し照れくさそうに頬をムニョっと上げた。
玲瑠はここ数か月、母親、コンビニ店員、オンラインでの学校の先生など、生活の中で関わる人としか会話をしていない。
赤の他人、それも初対面の人と雑談のような会話を交わす方法なんて、遥か昔に忘れてしまった。
(よし! 聞いてみよう!)
慣れないシチュエーションでの会話に気恥しさがあった。でも、ここで尋ねないと一生後悔すると直感が告げていた。
ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込み、小さな口を大きく開く。
「あの! ……もし間違ってたら申しわけないんですけど……お兄さんって、もしかして……マスキングテープで絵を描いてる、リヒト先生ですか?」
男性のくたびれていた顔が、一瞬でパーッと明るくなる。
「おお、俺のこと知ってくれてるのか! まさかこんな所で俺のこと知ってる人と出会えるなんて思ってもなかった。ホントにありがとな!」
「――っ!」
頭がオーバーヒートを起こしそうになる。
まさか、自宅から数百メートルしか離れていない文房具店で、ずっと画面越しに見ていたイラストレーターと出会えるなんて、夢にも思わなかった。
インターネット社会の現代では、数多の絵描きたちが次々と作品を投稿している。
とりわけ、近年は生成AIの台頭によって、高クオリティーな画像が秒単位で量産され、タイムラインの競争は熾烈を極めていた。
そんな群雄割拠の時代に、作品を上げるたびに何千、何万の「いいね」をもらっている『リヒト』が今、目の前に生きている人間として存在している。
さらに、大半のネットユーザーは画面上のデジタルデータとしてしか拝めない美しいアナログイラストを、この瞳で、生で見ることができている。
玲瑠は自分だけがこの贅沢な瞬間を独占しているという状況に、胸の奥がトクトクと熱いビートを刻み始めていた。こんなにも胸が高鳴る感覚なんて、いつ以来だろう。
堰を切ったように、小さな口が大爆発を起こす。
「私もリヒト先生ご本人とこんなところで会えるなんて思ってもいませんでした! SNSで作品が流れてきたり、メイキング動画を見るたび、すごいなーって思って、いつも感動してました!」
「重ね重ねありがとな。ホントに嬉しい限りだな」
「だって、本当にすごすぎるんですもん! あの、サイン貰ってもいいですか!? ここ、色紙売ってますか?」
「ああ、ゴメンな、もう色紙買う人がいないから入荷してないんだ」
「全然大丈夫です! 今度またきますから、そのときにお願いします!」
「もちろんだ」
上手く舌が動くか心配していたけど、驚くほど軽やかに動いてくれている。
「あの、もうひとつ質問してもいいですか?」
「なんだい?」
「どうしてお姫様と天使をかけ合わせたようなデザインを描こうと思ったんですか?」
「おっ、いい着眼点だな」
リヒトはンフフフフっとお茶目に口元を緩め、少し誇らしげな顔を見せた。
「マステ絵っていうのは、貼る面積が多ければ多いほどいいと思ってる、俺なりのこだわりなんだ。だから、ふわっと裾が大きく広がるプリンセスドレスを着せて、背中に大きな翼を広げさせて、髪を長くして、貼る面積を広げてるんだ」
「へぇ~、ものすごく考えてデザインされてるんですねぇ」
改めて壁に飾られたマステ絵を見上げる。
リヒトの解説を聞いてから絵を鑑賞すると、確かにA4の紙いっぱいに画材を使えるような構成になっている。
「あっ、リヒト先生! もうひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだい? どれだけでも聞いてくれよ」
「リヒト先生はなんでマスキングテープで絵を描こうって思ったんですか? 油絵や水彩画やデジタルのイラストを始める理由はなんとなくわかりますけど、マステ絵っていうマイナーな画法を選んだきっかけが知りたいです!」
問いかけると、リヒトは少しだけ困ったように眉をハの字にした。
「本当は俺も子供の頃は油絵とか水彩画みたいなメジャーな画法をやりたかったんだけど、いろいろ家庭の事情があってできなかったんだ。でも、大人になってからどうしても絵を描きたくなって、せっかくなら他人がやらないことをしようと思って、この店で売れ残ってたマスキングテープを使ったところが俺のマステ絵人生のスタートなんだ……ほら、あれが売れ残りのマステだけ描いた、初期の頃のイラストだ」
リヒトはゴツゴツとした指をすっと伸ばし、壁の端に飾られた一枚を指した。
その作品は、どこかくすんだ茶色や深緑、派手さのない花柄で構成されていた。
他の作品のような華やかさや煌びやかさはない。でも、リヒトの手によって、控えめな柄が見事に調和し、味わい深い一枚へと昇華されていた。
「すごいです……売れ残りのマスキングテープで描いたって言われないと、絶対にわからないクオリティーですよ!」
「ありがとな。マステ絵っていうのは面白いもので、ゲームみたいな画法なんだ。売れ残った柄という一度は見捨てられた戦力でも、上手くかけ合わせることによって価値がある存在に変えることができるんだ。その売れ残った子たちを上手に使って、魅力を引き出してあげるのもマステ絵師の腕の見せ所なんだ」
「おお……! どんな画材でも完璧な作品に変えちゃうなんて、やっぱりリヒト先生は神イラストレーターですね!」
玲瑠の口から、偽りのない称賛がこぼれ落ちる。
「いや、俺は神なんかじゃない。マステ絵っていうのは、デザイナーさんたちが脳に汗水を垂らして作ってくれた素敵な柄を借りて絵を描く技法なんだ。だから、使わせてくれた素材たちがよかっただけだ」
リヒトは棚に並ぶ、少し色褪せたマステたちを愛おしそうに見つめた。
その謙遜して照れ隠しをするリヒトに、玲瑠は追撃の褒め言葉を重ねる。
「柄、もっ、いいんですよ! リヒト先生、照れないでください! 実際に売れ残ったマステで絵を描いて、何千もいいねをもらえるなんて、リヒト先生の巧み画力がないと絶対にできないことなんですから。神イラストレーターとして、もっと自信を持ってください!」
「神、か……俺が神様……ねぇ」
「間違いなく神イラストレーターですよ!」
「そっか……神様か。この世界に、本当に神様なんて存在したらよかったんだけどな」
やわらかかったリヒトの横顔に、ふと遠くを見つめるような、哀愁を帯びた深い陰が差した。
「なぁ、急に変な質問をして悪いんだけど……俺に使われたこの子たち。特に、この店で売れ残ってたこの子たちは、俺の絵になれて喜んでると思うか?」
突然投げかけられた重みのある問いかけ。
理由はわからないけど、この場は盛り上げなければならないと本能が悟る。
「絶対に喜んでますよ! だって、こんなにキレイな絵になれたんですから!」
「それはよかった。この古い店でホコリ被っていた子たちを、少しは救ってあげられたような気がして、すごく嬉しいよ」
リヒトはマスキングテープに向けていた、慈しむような切ない眼差しを玲瑠に向けた。
「そんな……私は本当のことを言っただけですよ。それともうひとつ! リヒト先生はマスキングテープのことをこの子たちって子供みたいに扱って、救ってあげたいって思ってるやさしい気持ち、すっごく素敵だなって思いました!」
「素敵な気持ちって、ありがとな。でも、救ってあげたいっていうこの気持ちは、ある種残酷な気持ちなんだ」
「残酷……? どうしてですか?」
「勝手に同情してるからだ」
「なにを同情してるんですか?」
「売れ残ったこの子たちは、せっかく生み出されたのにこんな古びた店にやってきて、誰からも選ばれなかった子たちなんだ。生まれてきたのに暗い棚の中で劣化して、消えていくだけの人生なんて悲しいんじゃないかって思って、使ってあげたんだ」
「そう……です……ね……」
静かに語るリヒトの言葉に、玲瑠の胸の奥が強烈に疼き出す。
――売れ残った
――誰からも選ばれなかった
――暗い棚の中で劣化して消えていく
そのフレーズのひとつひとつが、玲瑠が歩んできた人生と恐ろしいほど重なり、融け合っていく気がした。
(私と同じだ……何者にもなれなくて、誰からも必要とされなくて……ただ静かに消えるのを待ってる私と、まったく一緒……)
最初から戦う土俵に立つことすら許されなかった、運も才能もない玲瑠にとって、リヒトの言葉は鋭い刃となって胸を突き刺した。
(私だってお金持ちの家に生まれてたら……マステを愛するリヒト先生みたいに、愛してくれる人のところに生まれてたら……もっと輝ける人生を歩めてたのかな……)
リヒトの手によって救われ、居場所を与えられた売れ残りのマスキングテープたちが、どうしようもなく羨ましかった。
「それに、デザイナーさんだって自分が作った我が子が使われなかったら悲しいだろ? だからマステ絵師が切って、ちぎって、貼って、一枚の作品に仕上げて、たくさんの人に見てもらって、こんな素晴らしい柄なんだぞってことをみんなに教えてやりたいんだ」
「……」
玲瑠は言葉が出ず、リヒトの少し肌荒れした横顔を見つめ、創作姿勢に耳を傾けることしかできなかった。
「俺は人気の柄も、売れ残った柄も、俺の手元にきてくれた画材たち全員に『この人の手元にきてよかった』って思ってもらえるように日々絵を描いてるんだ。今日、ファンの子にマステたちの代弁をしてもらえて、俺の信念が報われたような気がしてすごく嬉しかったよ。改めてありがとな」
リヒトは口角を少し上げ、どこか寂しげで、けれど誇らしげな笑みを浮かべた。
ファンの玲瑠は憧れのイラストレーターから感謝され、心の底から嬉しかった……が、ふわっとした声色でリヒトが告げたあるセリフに、ピキッとした頭痛が走る。
『俺は人気の柄も、売れ残った柄も、俺の手元にきてくれた画材たち全員に『この人の手元にきてよかった』って思ってもらえるように日々絵を描いてるんだ』
その文章は、インターネットの世界で嫌というほど目にしてきた、ある残酷な真実と重なって胸に落ちる。
(これって……親ガチャだよね……)
SNSにどっぷり浸かるZ世代の玲瑠にとって、それはあまりにも身近な理論で、絶望を象徴する言葉だった。
生まれた瞬間、どの親の元に落ちるかで、初期ステータスも、人生の選択肢も、未来の結末も、すべてが決まってしまう理不尽な現実。
どれだけ努力をしたところで、親の才能、財力、環境という基盤が整った人には敵わない。いや、戦う前、スタートラインに立った瞬間から負けが確定している。
ネットで見かけるスピリチュアルな人たちはよく「子供は親を選んで生まれてくる」なんて戯言を言う。
また、親ガチャなどないと豪語する言論人もいるが、その人たちは自覚していないだけで親ガチャ当たりの環境で育っているのが真実だ。たまにその真実を暴かれて炎上している言論人を見かける。
誰だって、裕福で、優しくて、才能を持っていて、力を伸ばしてくれる恵まれた親の元に生まれたいに決まっている。
玲瑠だってそうだ。もしも愛してくれる親の元に生まれていれば、こんな辛い思いをしないで済んだはずだ。
生まれた時点で敗北が決まっている負け組たちが、あきらめを受け入れるために使う言葉――それが親ガチャだ。
けれど、リヒトは違っていた。
リヒトはクリエイターという親の立場から、手元にやってきた子供たちへ、どこまでも深い愛を注いでいる。そして、確かな技術と信念を持って、どんなに不人気の柄でも大切に扱い、マステ絵という生きる場所を与えている。
(リヒト先生……カッコよすぎる……)
胸がギュッとしめつけられるような、未だかつて味わったことのない情熱が体を満たしていく。
冷房が効いているはずの店内が、一気に春の陽気になったみたいだ。
(もしも本当に生まれ変わりがあるなら、次はリヒト先生の手の中にあるマスキングテープになりたい。そうすれば、こんな私でも、世界で一番キレイなお姫様の一部になれるかもしれないのに)
甘い願望が胸の奥で芽生える。
今日初めて出会ったばかりの男性が、玲瑠の中で神聖な存在へと変わっていく。
「へへっ、頼まれてもいないのに自分語りしちゃったな。長々としゃべってゴメンな」
リヒトは鼻の頭をかきながら、照れくさそうに笑った。
その何気ない笑顔すら、どうしようもなく特別なものに見える。
「いえ! 涙が出そうなぐらい、素敵な言葉でした!」
「それはよかった。あっ、そうだ。この話は、対面で会えたファン限定の秘密ってことでお願いできるかな? 今、売れ残りのマステだけで描いた絵でコンテストに応募しようとって思っていて、世間に絵を出したときにネタバラシしようと思ってるから、ネットには書かないでくれると助かるな」
「はい! 絶対にしません! ふたりだけの秘密にします!」
ふたりだけの秘密という響きが、特別な絆に思えて、胸がキュンとときめいた。
「よろしく頼んだ。そういえばファンなのに名前を聞いてなかったな。ネットのアカウント名を教えてくれないか?」
「えっと……ええと、その……」
「ゴメンゴメン! 恥ずかしかったら無理に言わなくていいからね」
「いえ! レイルです……!」
「レイルちゃん……誰だ? すまないな、パッと出てこなくて」
「見る専門のアカウントなので知らないと思います! でも、これからはたくさん感想送りますね!」
「ありがとなレイルちゃん。これからもファンとしてよろしくな」
「はい! よろしくお願いします!」
本当は『エンペラーズカフェ』っというハンドルネームのアカウントを使っているけど、名前が痛々しくて伝えるのが恥ずかしかった。
そこでとっさに口から出てしまったのが、本名の玲瑠だったが、キラキラネームで本名と思われていないみたいだ。
玲瑠は母親からつけられたこの名前がずっと大嫌いで仕方がなかった。でも、憧れのイラストレーターから「レイルちゃん」っと優しく呼ばれた瞬間、生まれて初めて名前が好きになれたかもしれない。
すっかり上機嫌になった玲瑠は、舌が回る口を開いた。
「あの! もし良かったら、もっと近くで作品を見せてもらってもいいですか?」
「もちろんだよ! ちょっと待っててくれ」
リヒトは店の奥から脚立を持ってくると、ひょいと登り、棚の上部に飾られた額縁付きのマステ絵をいくつか下ろしてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます!」
受け取った額縁を両手で大切に掴み、顔に近づけて見つめる。
「わぁ! すごい! すごすぎる!」
最初に手にしたのは、天使のお姫様が色鮮やかな花束を抱きしめている絵だった。
間近で見ると、髪の毛一筋一筋の精密なカットや、幾重にも重ねられたテープが生み出す影の立体感が、より鮮明に鑑賞できる。
とりわけ目を引いたのは、抱えられた赤いバラの花束だ。個性的な模様のマスキングテープで彩られ、幻想的に咲き誇っている
このレベルに到達するまで、いったいどれだけの時間と情熱を注いできたのだろうか。相当打ち込んだことが伺える。
それから、二枚目、三枚目と、ふたりだけの特別な鑑賞会は続いていく。
作品一枚一枚、リヒトが絵のこだわりや制作秘話を語ってくれるたび、憧れのイラストレーターとの心の距離が縮まっていくような幸福感に包まれた。
一枚でも多く。一秒でも長く、この人の絵を見て、この人の声を聞いていたい。
今、この小さな空間には、外の世界の冷たいニュースも、SNSのドロドロとした喧騒も、あの家の息苦しさも、なにひとつ存在していない。
ガラス戸の向こうに広がる空は、玲瑠が気づかないうちに、燃えるような茜色から、深みのある濃い藍色へと、ゆっくりと移り変わっていった。
