壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 高校三年生の三月、人生で最後の春休み。

 どこか寒さを残す風の中に、春の匂いが混ざり始める季節、玲瑠の手にはお世話になった通信制高校の卒業証書が届いた。

 玲瑠自らの足で駆け抜け、泥臭く積み上げてきた努力の証。その重たい紙を手に取りながら、足は新しい未来へ向けてさらに力強く動き出していた。

 これから、長年縛りつけてきたこの家からの脱出作戦を開始する。そして、衣琉華の精神的、経済的な支配から完全に離脱する。

 まずは本屋のアルバイトで貯めた数十万円を使い、ひとり暮らしをするためのアパートを借りた。

 新卒の高校生が親に頼らずひとり暮らしの部屋を借りるための手続きは、想像以上の煩雑を極めた。

 親の同意や連帯保証人を必要としない物件を探す作業は気が遠くなるほどの労力と時間を要した。

 年齢や属性を理由に門前払いされそうになり、書類の不備に何度も頭を抱え、世間の冷たさに押し潰されそうになる夜もあった。 

 でも「絶対にここから抜け出して、自分の足で生きていくんだ」という強い意思が、玲瑠の体を突き動かし続けた。
 皮肉なこと、衣琉華の怒声や毒に怯えていた脆弱さは、手続きの渦中で強さへと昇華されていたみたいだ。

 それから、就職先の会社から送られてくる雇用契約書や、指定された銀行での口座開設、等々の手続きを進めていく。

 衣琉華がパートに出ている間に行う、ひそかな引っ越し準備。

 新居へ送るための小さな段ボール箱を組み立てながら、玲瑠は自分の部屋を静かに見回す。

 ベッドや学習机などの家具は大きすぎるから持っていかない。

 お気に入りの枕や、まだ着られるリヒトとデートをしたときの思い出のワンピース。数少ない漫画や、新天地でも使いたいシャープペン。

 首吊り縄は……一応入れておく。

 涼水文房具店のガレキ。

 そして、高校生活後半を支えてくれた、リヒトからもらった手紙を大切に入れる。

 部屋の隅にぽつんと並んだ段ボール箱はたったのふたつ。

(この家には埠頭玲瑠なんて存在していなかったんだ)

 長い時間を過ごしてきた部屋なのに、荷物をまとめてみると、この部屋には玲瑠という存在があまりにも少なかったことに気づく。

 反対に、ボーっと見つめていた天井の木目、壁のシミ、飛び降りようとした窓など、忌々しい思い出はたくさんある。

 衣琉華の不機嫌な足音に緊張し、ドアの向こうからの怒声におびえ、膝を抱えて震えていたこの監獄とも、もうすぐお別れだ。

◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇

 数日後の朝、窓から白々とした朝日が差し込んでいる。キッチンではパートへ出勤する衣琉華が準備をしていた。

 私服のパーカーに長ズボンのジーンズという動きやすい服装に着替えた玲瑠は、部屋のドアをバタンっと開ける。相棒のトートバッ具とともに、キッチンの横を堂々とした足取りで歩いていく。

 玄関前で振り返る。

「お母さん、初出勤行ってきます」
「ああ、そう、いってらっしゃーい」

 娘の新生活が始まるという、親としても人生の節目だというのに、ここまで無関心なのはある意味感心する。

 もうこの敵に恐れることはない。この敵の後ろ盾がなくても生きていける。
 その何食わぬ顔をしている敵に向かって、玲瑠はニヤリと曲げた唇を開いた。

「お母さん、今まで雨風をしのげる家を用意して、ご飯を食べさせてくれて、体は育ててくれてありがとうございました。そして私はこれから人間として成長するために、もうここには二度と戻りません。十八年間、体は育ててくれてありがとうございました!」

 不本意だけど一礼した。

 顔を上げると、衣琉華がきょとんっとした面持ちで振り向いていた。 

「ちょっと待ちなさいよ、二度と戻らないってどういうことよ」
「言った通りです。私はもう衣琉華さんの家には戻りません」

 ハキハキと拒絶の意を込めてしゃべっているけど、衣琉華にもいいところがあったシーンを思い出してしまう。
 しかし、そのシーンは親としての最低限の行為や、DVを受けているときに親切にされるとギャップでいい人だと思ってしまう心理だと言い聞かせ、必死に洗脳を解く戦いをしながら育ての親の顔から目線を外さない。

「いや、働くのはいいけど、戻ってこないってどういうことよ」
「何度も言わせないでください。その通りの意味です」
「なに? カレシと同棲でもするの? いつの間にそんなことしてたのよ、つき合ってたなら私にも言いなさいよ~」

 小学生低学年の頃、気になっている男の子がいると言ったとき、茶化してきた人格の持ち主が今さらなにを言っているのか。

 そして、衣琉華は完全に焦っている。

 もちろんこの焦りは想定済みだ。衣琉華は散々玲瑠の悪口を言って、家から出て行けと脅しているけど、本当に脅しでしかない。
 実際は玲瑠に家にずっといてもらい、ストレス発散のサンドバッグとして支配下に置いておきたいのだろう。そして、不慮の事故や老後のために、少なくともすぐに駆けつけてくれる距離にはいてほしいのだろう。

 そんな都合のいい役割を果たしてくれると思い、苦労して稼いだお金で投資を続けていた対象物に裏切られるのだ

 今までの苦労が水の泡と化す絶望にまみれる敵の顔。

 実に気味がいい顔だ。

「いえ、カレシと同棲するつもりもありません。私がここから出ていく理由は、衣琉華さんが自分の胸に手を当てて考えてみてください」
「自分の胸に手を当てて……そんな酷いこと言わないでよ。理由があるんだったら、早く言いなさないよ」
「答えを言わずに自分で考えろと言って怒鳴り散らかしていた衣琉華さんに育てられた通り、私は自分で考えろって言い返しているのです。よかったですね、子供が教育の方針通りに育ってくれて」

 最高の皮肉を言い放つと、衣琉華の顔が「なんだこいつ」っと歪む。

「私はそんな風に育てたつもりはないわよ。というか家出って恩を仇で返す気? 家を出ていってもいいけど、住所ぐらい教えなさいよ!」

 言い返せなくなったのか、ヒステリックに大声で圧倒しようとする。

 この状態になってしまったら、もうなにを言っても無駄だ。しかも最後の最後で最悪なことに「そんな風に育てたつもりはない」などと、記憶改竄をしている。

 やっぱり、この人間と十八年間も同じ空間にいるのは異常だったと思い知らされる。

「住所は教えません。電車の時間もあるので、もう失礼します。改めて最後に、体は大きく育ててくれてありがとうございました」

 軽く一礼して振り返ると、何度も開閉した重たいドアをグッと押し、朝日が照らす外の世界へと一歩踏み出した。

「待ちなさい!」

 っと、背後では叫び声が聞こえるが、パタンっと重たい扉を閉じて封印する。

 敵が追いかけてくるかもしれないから、アパートの外階段をタタタタッと素早く降り、二度と見ることはない生まれ育った街並みを目に映しながら駆け抜けていく。

 町を脱出する小さな駅にたどり着き、ローカル線の電車と新幹線を乗り継ぐこと数時間。

 車窓の外の景色は、なだらかな山並みと広い空がどこまでも広がるのどかな田園風景へと変わっていった。

 玲瑠が住んでいた町はベッドタウンの住宅街という立ち位置の田舎町だった。

 毛色が違う田舎の駅に降り立ち、無人の改札を通って新たな町に降り立つ。

 かつての玲瑠なら、スマートフォンの画面を見ながら「出生地ガチャ」なんて投げやりな言葉を呟き「大都会へ行けば何者かになれるんじゃないか」と夢想していただろう。

 でも、今の玲瑠には眩しすぎるネオンの光も、都会の喧騒も必要なかった。

 駅から三十分歩いた場所にある、築年数が経過した小さな木造アパート。ポケットから取り出した鍵を鍵穴に差し込み、カチャリと音を立ててゆっくりとドアを開ける。

 すーっと鼻をくすぐったのは、新しいフローリングと張り替えられたばかりの壁紙のさわやかな匂いだった。

 誰もいない、家具もない、まっさらな一室。

 窓から差し込むやわらかな春の陽光が、茶色のフローリングの上に四角を描いている。
 肩にかけていた大きなトートバッグを床にそっと置き、玲瑠はその部屋の真ん中に静かに立ち尽くした。

(ああ、やっと抜け出せたんだ……)

 支配者の指示も受けない。
 支配者の不機嫌な顔色も窺わない。
 重たかった枷を外した玲瑠の本当の人生が始まるのだ。

 なにが正解かもわからない十八年間を不器用に駆け抜け、傷つき、涙を流しながらも勝ち取った安寧の地。

 玲瑠は胸いっぱいに春の空気を吸い込み、未来へ向けて、あたたかな笑顔を咲かせる。

 普通の人と比べたら十八年も遅れを取ってしまったかもしれない。でも、ここからようやくスタートラインに立つことができた。