過去の玲瑠が死んでから、あっという間に一カ月の月日が流れていた。
今日も玲瑠は日課となっている体力をつけるための散歩を始める。
季節はすっかり秋が深まり、街路樹の葉は赤や黄色へと変わっていた。
夕暮れのそよ風は肌寒くなって、長袖じゃないとブルっと鳥肌が立つ。
散歩道は涼水文房具店へ続く通学。一ヶ月経過して、リヒトがいなくなった現実を受け入れられるようになった。でも、もしかしたらリヒトが戻ってきているかもしれない淡い期待を抱きながら歩いていく。
「ああっ……」
力が抜けた弱々しいため息が漏れる。
昭和情緒あふれる古びた涼水文房具店の家屋。建物を囲うように足場が組まれ、灰色の防音シートで周りが覆われていた。そして、ショベルカーのショベルが壁にめり込んでいる。
解体が始まっていた。
辺りに漂うカビ臭い匂いを嗅ぎながら解体中の家屋を覗く。リヒトと一緒にマステ絵を描いていた、思い出のアトリエが野ざらしになっていた。
玲瑠に取って真の実家が取り壊されてしまう悲しみが胸からズーンっとこみ上げてきた。
(誰もいないよね……)
現場作業は終わっているみたいで、解体作業員は周りにいない。
キョロキョロと周りを見渡して、他にも見ている人がいないか確認して、涼水文房具店の敷地に不法侵入を始める。
ヘルメットをしていないと危険な中、半壊のアトリエに足を踏み入れて、手のひらに収まるガレキをひとつ拝借する。
慌てて解体現場の敷地から出ると、涼水文房具店の一角を担っていたガレキのカケラを握りしめ、その日の散歩は終わりを告げた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
翌日、玲瑠はベッドに腰をかけ、スマートフォンを震える指で操作していた。
検索窓に『第八回マスキングテープアートコンテスト』っと打ち込む。
今日はリヒトと一緒に描き上げたマステ絵が評価され、リヒトの今後の人生が決まる運命の日だ。
体が震えてしまうのは仕方がない。
細く痙攣する指先でエンターパネルをタップすると、少しのロード時間を挟んでリヒトに初めて見せてもらったときの画面が現れる。
下に少しスクロール。「結果発表」っという単語が現れて、ここで一度深呼吸。
喉をゴクッと鳴らし、体がぎゅっと縮こまるような緊張感を覚えながら、画面を下へとゆっくりスライドさせていく。
まずは数百点の中から選ばれた、最も輝かしい最高峰の賞――最優秀賞。
「ああ……」
小さくため息が漏れ、ガックリとうなだれた。
画面いっぱいに大きく表示されたのは、煌びやかなマステを贅沢に使い、圧倒的な画力で描かれた湖畔の風景画だった。作者は誰か知らない。
それでもまだ他の賞がある。あきらめずにさらに画面を下にスライドさせる。
金賞、知らない人の絵
銀賞、知らない人の絵
銅賞、知らない人の絵
焦る気持ちでスクロールする速度を早め、審査員特別賞の欄を目で追っていくが、そこにも「リヒト」というペンネームは見当たらない。
最後に、名前だけが記載されている佳作の欄。目を皿のようにして、名前がずらりと並ぶリストの中から「リヒト」の三文字を探した。
(あった!)
一覧の下部あたりに、SNSのアカウント名で何度も目にした「リヒト」という文字が躍っていた。無事、入選は果たせたみたいだ。
力が抜け、ふわっとベッドに倒れて天井を見上げる。
(よかった、リヒト先生のためになれた)
負け続けの人生の中で手に入れることができた、数少ない成功体験。この上ない達成感に浸る。
リヒトの絵を手伝っていた時間が報われたような気がして、努力は実を結ぶことが実感できた。
努力と言っても、九十九パーセント努力したのはリヒトだ。それでも、愛した人を支え、奔走した体験は、玲瑠の今後の人生を支える貴重な経験になるだろう。
「……はぁ、佳作かぁ」
喜びもつかの間、玲瑠は大きなため息をついて、そっと目を閉じる。
リヒトは入選を果たすことができた。しかし、一番下の賞の佳作。確かに日本一のマステ絵を決めるコンテストではすごい実績だろう。でも、リヒトの人生が激変するような実績にはならない。
(やっぱり、人生って上手くいかないんだね)
玲瑠も、リヒトも、そして商品棚に並んでいるマスキングテープたちも、この世界に生きるすべての存在は、自分の居場所を勝ち取るために毎日しのぎを削って生きている。
特にリヒトが目指しているのは、玲瑠が嫉妬の眼差しを向けていた、芸術の世界。
その世界は、普通の幸せを手に入れるよりも遥かに難しい世界だ。
スポットライトが当たる場所に立てるのは、ほんの一握りの人間だけ。
高みを目指す人たちが、本気で自分の表現を作品にぶつけて、戦っているのだから、誰かが選ばれ、誰かが落とされてしまうのは悲しいけど仕方のない現実だった。
(やっぱり、貧弱な手札じゃ勝てないのかな)
スマホの画面をつけ、改めて受賞作品を鑑賞する。
どの作品も、玲瑠が見たこともないマステの柄が使われていた。
上位入選を果たしたマステ絵に使われている柄は、魅力的で、使いやすいのだろうか。マステ絵を少しかじった程度の玲瑠にはわからない。
写真フォルダに入っている、リヒトの作品、翼を生やしたお姫様の絵画をじっくりと見つめる。
贔屓目が入っているのは自覚している。でも、リヒトの絵のほうが圧倒的に素晴らしい絵に見える。しかし、プロから見たら違うのだろう。
また、審査員は表現全体を見ているだけで、売れ残りのマスキングテープを使っているというバックボーンは知らないのだろう。
審査員の気持ちはなんとなくわかる。芸術の世界でバックボーンを評価したら、作品そのもの価値がなくなってしまう。
(リヒト先生、ゴメンなさい……)
使うマステを選ぶとき、別の柄を選んでいたら運命は変わっていたのだろうか。
最も後悔しているのが、フレームに貼るマスキングテープを玲瑠が選んだことだ。リヒトは使ってくれたが、全力で止めていたら、もっといい作品になったかもしれない。
そんな強烈な後悔が波のように何度も押し寄せる。
(リヒト先生、元気にしてるかな?)
同じ結果を見ているリヒトは、今なにを思っているだろう。
落ち込んでいるだろうか。それとも、次の挑戦に向けて闘志を燃やしているだろうか。
そもそも、新天地で仕事は上手くやれているのだろうか。また、パワハラを受けて病んでいないだろうか。絵を描く時間は取れているのだろうか。
そんな途方もない心配が胸を駆け巡る。
(リヒト先生なら上手くやってる! 私も上手くやらないと!)
玲瑠は自身を鼓舞するように言い聞かせ、上位入選できなかった嘆きもほどほどにしてベッドから起き上がった。
そして、今日も課題はすべて終わったが、追加で自主勉強をしていく。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
高校二年生の冬休み前、玲瑠の勉強習慣は日常になりつつあった。
不登校になって勉強の習慣が抜け落ち、通信制の高校生になってからも最低ラインの勉強しかしてこなかった身が、まさかここにきて進んで勉強するなんて思ってもいなかった。
本来なら中学生のときに学ばなければいけなかった知識を拾い集める毎日。全日制の普通科高校に通っている人と比べたら、何周も遅れている。
それでも、高校を卒業するときに少しでも胸を張って卒業できるように勉強を続けていく。
(うーん……数学全然わからないよ~)
ただ、その道のりは決して安易じゃなかった。数式とにらめっこをしては、気が遠くなって気が滅入っていったのは一度や二度だけじゃない。
前までの玲瑠ならあきらめていたかもしれないが、学校のチャットを活用してわからないところを聞くと、科目の先生が親切丁寧に解説を返してくれ、一歩ずつ着実に成長していった。
「わからない」が「わかる」に変わっていく小さな達成感は、リヒトとマステ絵を描いていたときに感じた、少しづつ上手くなっていったときのような感覚と同じで、着実に玲瑠の自尊心を上げていった。
さらにある日「通信制高校に通っている人は、少しでもアルバイトをして社会性を身につけたり、体力を身につけておいたりした方がいいでしょう」っという専門家のアドバイスをSNSで見かけた。
それに触発された玲瑠は午後からの時間を活用して、近所の小さな本屋でアルバイトを始めた。
初日は接客やレジ打ちにガチガチに緊張していたけど、涼水文房具店で相手にしたふたりのお客さんを思い出しながら挑戦し、少しずつ慣れていった。
そして、仕事で一番の楽しみだったのは、店に届く最新の文房具のカタログを読むことや、入荷したての新商品の文房具をチェックすることだった。
見たこともない機能を持つ新作のシャープペンや、季節限定の可愛らしいマスキングテープを店頭に並べていると、涼水文房具店を引き継いで切り盛りしたかったと切に思う。
ただ、お金をもらっている以上、責任や理不尽なこともつきまとう。
品出しの際、入れる本棚を間違えて怒られたり、若い女の子としゃべりたいだけの五十歳以上の男性客に話しかけられたりと、勉強では感じなかった苦痛を受ける日もあった。
正直、嫌な思いをするたびに仕事を辞めたいと思った。でも、そのたびに「人間関係が良好な職場は辞めないほうがいい」「面倒くさいが原因なら辞めないほうがいい」などのSNSでのアドバイスを思い出して、なんとか耐え抜いた。
もちろん、SNSの助言を見ているから、いつでも逃げ出せるように心の準備はしている。
それでも衣琉華の下で育てられた繊細な心を持っている玲瑠は、普通の人より嫌な記憶が頭に残ってしまい、精神的な疲弊が半端なかった。
店長に怒られたあとに店長の気持ちを考えてしまったり、クレーマーやセクハラクソジジィの顔が頭にこびりついて離れなかったりと、寝る前に悶々と思い出してしまう。
そんな落ち込んだ日はリヒトの手紙を読んだり、リヒトの過去のイラストを見たりして、自分で自分を励ましていた。
そして、毎月支払われるアルバイト代は衣琉華に家に入れろと言われた分以外は一切手をつけず、コツコツと貯めていった。いつか、訪れるその時に使うためだ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
新年を迎え、一月中旬。
リヒトは新しい仕事が落ち着いたのか、SNSでのお絵描き活動が再開した。
『おひさしぶりです、リヒトです。ここ数ヵ月個人的な用事があって絵の投稿ができていませんでしたが、本日から再開します。この絵はマステ絵のコンテストに投稿したもので、佳作をいただきました。今後も応援よろしくお願いします』
っと、最新のつぶやきとともに、コンテストに応募したマステ絵が投稿されていた。
愛の告白を断られた直後に連絡を取るために作った「レイル」というSNSアカウントはブロックされたままで、二度と使うことができない。
でも、昔から使っていた「エンペラーズカフェ」という別のアカウントなら、リヒトとつながることができる。
玲瑠は恐る恐る指を動かし、他人を装ってリヒトの最新のつぶやきに、溢れんばかりの思いをなんとかシンプルにして感想のコメントを書き込んだ。
『佳作おめでとうございます! 周りのカラフルなビンのマステいいですね。これからも応援しています!』
投稿して間もなく、スマートフォンがポロンと通知音を鳴らし、リヒトからの返信が届いた。
『ありがとうございます。フレームのマステは上手く作品に噛み合って気に入っています。今後もよろしくお願いします』
リヒトの声で再生される文章。
かつてのような特別な関係として隣にいられなくても、ファンとして言葉を交わすことができた。そのほんの少しのやり取りだけで、玲瑠の心はいっぱいになり、枕に顔を埋めてバタバタと足をバウンドさせる。
(リヒト先生、ちゃんとご飯食べてるかな。新しい職場にも慣れたのかな。お絵描き楽しんでるかな?)
返してもらったメッセージを何度も読みながら、少しずつ絵を描き始めているリヒトを思い浮かべてニヤニヤと笑顔がこぼれる。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
月日は流れ、学年が上がり、夏を越え、二学期後半。進路と嫌でも向き合わなければならない季節がやってきた。
スマートフォンの画面越しにリモートで行う、進路指導。
担任の先生が資料をめくりながら嬉しそうに微笑んだ。
「このまま順調にいけば卒業できますね」
慣れない努力を積み重ね、最低ラインはクリアできそうでよかった。
「それと埠頭さんの今の成績なら、Eランク程度の私立大学なら十分合格が狙えますよ。その進路も視野に入れてみたらどうですか?」
「大学、ですか……」
先生からの予想外の言葉に、玲瑠は一瞬胸がきらめいた。
中学生で学校をドロップアウトした身が、大学という選択肢を持てるまでに成長できたことは純粋に誇らしかった。
特に通信制の高校生は卒業後に体感で半数は行方がわからなくなると聞いているから、明確に次へのステップアップを提示されたのは嬉しかった。
だけど、玲瑠はネットで事前に頭に入れていた現実的な問題を思い出していた。
名前も聞いたことがないようなEランクやFランクの大学に進学し、数百万円の奨学金を借りてしまえば、卒業後に奨学金の返済に苦しんでしまうという問題だ。
そして、明確に学びたい学問がないままなんとなく大学に行くぐらいなら、若いうちから社会に出て働いた方が身になると聞いている。
なにより、奨学金を借りて大学に行くとなれば、初期費用でどうしても衣琉華の援助を頼らざるを得なくなってしまう。
衣琉華は低ランク大学ごときで援助してくれるはずもないし、なによりもこれ以上衣琉華に縛られ、「誰のおかげで大学に行けていると思っているの!」っと見下され続ける従属関係だけは今後も続けたくなかった。
結論を出すのに、一秒もいらなかった。
「先生、私、高卒で就職します。早く自分の力で生きていきたいんです!」
毅然と告げた言葉に、先生はどこか温かい眼差しでうなずいた。
玲瑠自身で考え、悩み、選び抜いた道。
同年代の普通の道を歩んだ学生と比べると、かなり遠回りしたかもしれない。だけど、間違いなくいい方向へと向かっている。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
しばらくして就職活動が始まった。
正社員として雇ってもらう就職活動は、アルバイトのような条件をすり合わせる作業じゃない。その会社に忠誠を誓えるかを問う、宗教のような面接をしなければならない。
玲瑠はインターネットで通信制高校を卒業した人の面接の体験談や、圧迫面接などの経験談を幾多も目にしていた。。
他人の就職活動を思い出すたびに足がすくむけど、ここで逃げ出し、玲瑠が望む企業に就職できなかったら生きている意味がないと心を奮い立たせ、立ち向かうことを決めた。
アルバイトで貯めたお金で、近所のスーパーマーケットで格安のリクルートスーツを購入。しっかり採寸していないから少し肩が落ちていて不格好だ。でも、そのスーツを着て全身鏡の前に立つと、キャリアウーマンみたいに見えてまたひとつ成長できたように感じる。
そして、ドキドキの一次面接の日。
玲瑠はリクルートスーツを着こなして、髪を整え、人生で一番清潔感のある姿へと変貌を遂げる。
スマートフォンを机の上に立て、通話アプリを立ち上げ、インカメラをオン。面接をしてくれるおじさんの顔が画面いっぱいに広がった。
この会社は、通信制高校が紹介してくれるような会社じゃない。玲瑠が望んで選んだ会社だ。そして、玲瑠はこの会社しか面接を受けるつもりはない。この会社に落ちたら、首を吊ってやろうという気持ちで面接に挑む。
「本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
それから、自己紹介を終え、会社を選んだ理由、会社でやりたいこと、自分ならなにができるか……等々の質問に答えていく。
最初はガチガチに緊張していたけど次第に慣れていき、セリフを事前に準備していたから円滑に面接は進んでいった。
「これで以上になります……埠頭さん申しわけございません。すでに弊社で採用したい方が数名いるので、今回はおそらく不採用になるでしょう。埠頭さんの今後のご活躍、心よりお祈り申し上げます」
テンプレートの断り文句「心よりお祈り申し上げます」を聞いた瞬間、心臓が絶対零度のごとく凍りづいた。
一社しか受けるつもりがない会社から不採用を突きつけられてしまった。ここで夢への道を断たれてしまったら、今までの努力が水の泡となり、玲瑠は死の道を選ぶしかないだろう。いや、ショックから今すぐにでも首を吊りたい。
引き下がるわけにはいかない。どうせ縁がなくなるかもしれない会社だ。失礼を承知で玲瑠は声を張り上げる。
「ちょっと待ってください! それでは正社員じゃなくてもいいので、契約社員かフルのパートタイマーでもいいので働かせてください! そちらの雇用でも御社は求人を出していましたよね? お願いします!」
カメラにアップになった玲瑠の迫力ある顔に、面接のおじさんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「そ、そんなに弊社で働きたいのですか?」
「はい! 正直雇用形態は関係ないです! 御社で働くことに意味があるんです!」
「……わかりました。それではここでの不採用は取り下げ、一度持ち帰って上と相談いたします。それと確認なのですが、契約社員かパートタイマーの雇用でもいいのですね」
「大丈夫です!」
「かしこまりました。それでは、本日の面接は以上になります。ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
カメラの前で深々と頭を下げ、通話が途切れて人生初の面接を終えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
ほんの数十分の出来事だが、長距離を走ったときみたいに心臓がバクバクと暴れ回って息が切れていた。
(これでよかったんだよね……お願い! 採用してください!)
そう祈りながら数日過ごしていると、一通のメールが届いた。メールを開くと「一次選考通過」の文字が書いてあった。
玲瑠はベッドをトランポリンみたいにして狂喜乱舞した。熱意が届いたみたいで安堵する。
そして、次は電車と新幹線を乗り継いで、本社まで赴いての二次面接。
初めてリアルで顔を合わせ、初老のおじさんたちに囲まれて行う役員面接。
空気だけでゲロを吐きそうだったけど、絶対にここに採用してもらうぞという闘志を燃やし、臆することなくハキハキと答え続ける。
面接は無事終わり、確かな手ごたえがある中数日間待っていると、なんと正社員として採用してもらうことができた。
正真正銘、玲瑠が玲瑠自身の手で初めて掴み取った、普通の人へ続く夢だ。
今日も玲瑠は日課となっている体力をつけるための散歩を始める。
季節はすっかり秋が深まり、街路樹の葉は赤や黄色へと変わっていた。
夕暮れのそよ風は肌寒くなって、長袖じゃないとブルっと鳥肌が立つ。
散歩道は涼水文房具店へ続く通学。一ヶ月経過して、リヒトがいなくなった現実を受け入れられるようになった。でも、もしかしたらリヒトが戻ってきているかもしれない淡い期待を抱きながら歩いていく。
「ああっ……」
力が抜けた弱々しいため息が漏れる。
昭和情緒あふれる古びた涼水文房具店の家屋。建物を囲うように足場が組まれ、灰色の防音シートで周りが覆われていた。そして、ショベルカーのショベルが壁にめり込んでいる。
解体が始まっていた。
辺りに漂うカビ臭い匂いを嗅ぎながら解体中の家屋を覗く。リヒトと一緒にマステ絵を描いていた、思い出のアトリエが野ざらしになっていた。
玲瑠に取って真の実家が取り壊されてしまう悲しみが胸からズーンっとこみ上げてきた。
(誰もいないよね……)
現場作業は終わっているみたいで、解体作業員は周りにいない。
キョロキョロと周りを見渡して、他にも見ている人がいないか確認して、涼水文房具店の敷地に不法侵入を始める。
ヘルメットをしていないと危険な中、半壊のアトリエに足を踏み入れて、手のひらに収まるガレキをひとつ拝借する。
慌てて解体現場の敷地から出ると、涼水文房具店の一角を担っていたガレキのカケラを握りしめ、その日の散歩は終わりを告げた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
翌日、玲瑠はベッドに腰をかけ、スマートフォンを震える指で操作していた。
検索窓に『第八回マスキングテープアートコンテスト』っと打ち込む。
今日はリヒトと一緒に描き上げたマステ絵が評価され、リヒトの今後の人生が決まる運命の日だ。
体が震えてしまうのは仕方がない。
細く痙攣する指先でエンターパネルをタップすると、少しのロード時間を挟んでリヒトに初めて見せてもらったときの画面が現れる。
下に少しスクロール。「結果発表」っという単語が現れて、ここで一度深呼吸。
喉をゴクッと鳴らし、体がぎゅっと縮こまるような緊張感を覚えながら、画面を下へとゆっくりスライドさせていく。
まずは数百点の中から選ばれた、最も輝かしい最高峰の賞――最優秀賞。
「ああ……」
小さくため息が漏れ、ガックリとうなだれた。
画面いっぱいに大きく表示されたのは、煌びやかなマステを贅沢に使い、圧倒的な画力で描かれた湖畔の風景画だった。作者は誰か知らない。
それでもまだ他の賞がある。あきらめずにさらに画面を下にスライドさせる。
金賞、知らない人の絵
銀賞、知らない人の絵
銅賞、知らない人の絵
焦る気持ちでスクロールする速度を早め、審査員特別賞の欄を目で追っていくが、そこにも「リヒト」というペンネームは見当たらない。
最後に、名前だけが記載されている佳作の欄。目を皿のようにして、名前がずらりと並ぶリストの中から「リヒト」の三文字を探した。
(あった!)
一覧の下部あたりに、SNSのアカウント名で何度も目にした「リヒト」という文字が躍っていた。無事、入選は果たせたみたいだ。
力が抜け、ふわっとベッドに倒れて天井を見上げる。
(よかった、リヒト先生のためになれた)
負け続けの人生の中で手に入れることができた、数少ない成功体験。この上ない達成感に浸る。
リヒトの絵を手伝っていた時間が報われたような気がして、努力は実を結ぶことが実感できた。
努力と言っても、九十九パーセント努力したのはリヒトだ。それでも、愛した人を支え、奔走した体験は、玲瑠の今後の人生を支える貴重な経験になるだろう。
「……はぁ、佳作かぁ」
喜びもつかの間、玲瑠は大きなため息をついて、そっと目を閉じる。
リヒトは入選を果たすことができた。しかし、一番下の賞の佳作。確かに日本一のマステ絵を決めるコンテストではすごい実績だろう。でも、リヒトの人生が激変するような実績にはならない。
(やっぱり、人生って上手くいかないんだね)
玲瑠も、リヒトも、そして商品棚に並んでいるマスキングテープたちも、この世界に生きるすべての存在は、自分の居場所を勝ち取るために毎日しのぎを削って生きている。
特にリヒトが目指しているのは、玲瑠が嫉妬の眼差しを向けていた、芸術の世界。
その世界は、普通の幸せを手に入れるよりも遥かに難しい世界だ。
スポットライトが当たる場所に立てるのは、ほんの一握りの人間だけ。
高みを目指す人たちが、本気で自分の表現を作品にぶつけて、戦っているのだから、誰かが選ばれ、誰かが落とされてしまうのは悲しいけど仕方のない現実だった。
(やっぱり、貧弱な手札じゃ勝てないのかな)
スマホの画面をつけ、改めて受賞作品を鑑賞する。
どの作品も、玲瑠が見たこともないマステの柄が使われていた。
上位入選を果たしたマステ絵に使われている柄は、魅力的で、使いやすいのだろうか。マステ絵を少しかじった程度の玲瑠にはわからない。
写真フォルダに入っている、リヒトの作品、翼を生やしたお姫様の絵画をじっくりと見つめる。
贔屓目が入っているのは自覚している。でも、リヒトの絵のほうが圧倒的に素晴らしい絵に見える。しかし、プロから見たら違うのだろう。
また、審査員は表現全体を見ているだけで、売れ残りのマスキングテープを使っているというバックボーンは知らないのだろう。
審査員の気持ちはなんとなくわかる。芸術の世界でバックボーンを評価したら、作品そのもの価値がなくなってしまう。
(リヒト先生、ゴメンなさい……)
使うマステを選ぶとき、別の柄を選んでいたら運命は変わっていたのだろうか。
最も後悔しているのが、フレームに貼るマスキングテープを玲瑠が選んだことだ。リヒトは使ってくれたが、全力で止めていたら、もっといい作品になったかもしれない。
そんな強烈な後悔が波のように何度も押し寄せる。
(リヒト先生、元気にしてるかな?)
同じ結果を見ているリヒトは、今なにを思っているだろう。
落ち込んでいるだろうか。それとも、次の挑戦に向けて闘志を燃やしているだろうか。
そもそも、新天地で仕事は上手くやれているのだろうか。また、パワハラを受けて病んでいないだろうか。絵を描く時間は取れているのだろうか。
そんな途方もない心配が胸を駆け巡る。
(リヒト先生なら上手くやってる! 私も上手くやらないと!)
玲瑠は自身を鼓舞するように言い聞かせ、上位入選できなかった嘆きもほどほどにしてベッドから起き上がった。
そして、今日も課題はすべて終わったが、追加で自主勉強をしていく。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
高校二年生の冬休み前、玲瑠の勉強習慣は日常になりつつあった。
不登校になって勉強の習慣が抜け落ち、通信制の高校生になってからも最低ラインの勉強しかしてこなかった身が、まさかここにきて進んで勉強するなんて思ってもいなかった。
本来なら中学生のときに学ばなければいけなかった知識を拾い集める毎日。全日制の普通科高校に通っている人と比べたら、何周も遅れている。
それでも、高校を卒業するときに少しでも胸を張って卒業できるように勉強を続けていく。
(うーん……数学全然わからないよ~)
ただ、その道のりは決して安易じゃなかった。数式とにらめっこをしては、気が遠くなって気が滅入っていったのは一度や二度だけじゃない。
前までの玲瑠ならあきらめていたかもしれないが、学校のチャットを活用してわからないところを聞くと、科目の先生が親切丁寧に解説を返してくれ、一歩ずつ着実に成長していった。
「わからない」が「わかる」に変わっていく小さな達成感は、リヒトとマステ絵を描いていたときに感じた、少しづつ上手くなっていったときのような感覚と同じで、着実に玲瑠の自尊心を上げていった。
さらにある日「通信制高校に通っている人は、少しでもアルバイトをして社会性を身につけたり、体力を身につけておいたりした方がいいでしょう」っという専門家のアドバイスをSNSで見かけた。
それに触発された玲瑠は午後からの時間を活用して、近所の小さな本屋でアルバイトを始めた。
初日は接客やレジ打ちにガチガチに緊張していたけど、涼水文房具店で相手にしたふたりのお客さんを思い出しながら挑戦し、少しずつ慣れていった。
そして、仕事で一番の楽しみだったのは、店に届く最新の文房具のカタログを読むことや、入荷したての新商品の文房具をチェックすることだった。
見たこともない機能を持つ新作のシャープペンや、季節限定の可愛らしいマスキングテープを店頭に並べていると、涼水文房具店を引き継いで切り盛りしたかったと切に思う。
ただ、お金をもらっている以上、責任や理不尽なこともつきまとう。
品出しの際、入れる本棚を間違えて怒られたり、若い女の子としゃべりたいだけの五十歳以上の男性客に話しかけられたりと、勉強では感じなかった苦痛を受ける日もあった。
正直、嫌な思いをするたびに仕事を辞めたいと思った。でも、そのたびに「人間関係が良好な職場は辞めないほうがいい」「面倒くさいが原因なら辞めないほうがいい」などのSNSでのアドバイスを思い出して、なんとか耐え抜いた。
もちろん、SNSの助言を見ているから、いつでも逃げ出せるように心の準備はしている。
それでも衣琉華の下で育てられた繊細な心を持っている玲瑠は、普通の人より嫌な記憶が頭に残ってしまい、精神的な疲弊が半端なかった。
店長に怒られたあとに店長の気持ちを考えてしまったり、クレーマーやセクハラクソジジィの顔が頭にこびりついて離れなかったりと、寝る前に悶々と思い出してしまう。
そんな落ち込んだ日はリヒトの手紙を読んだり、リヒトの過去のイラストを見たりして、自分で自分を励ましていた。
そして、毎月支払われるアルバイト代は衣琉華に家に入れろと言われた分以外は一切手をつけず、コツコツと貯めていった。いつか、訪れるその時に使うためだ。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
新年を迎え、一月中旬。
リヒトは新しい仕事が落ち着いたのか、SNSでのお絵描き活動が再開した。
『おひさしぶりです、リヒトです。ここ数ヵ月個人的な用事があって絵の投稿ができていませんでしたが、本日から再開します。この絵はマステ絵のコンテストに投稿したもので、佳作をいただきました。今後も応援よろしくお願いします』
っと、最新のつぶやきとともに、コンテストに応募したマステ絵が投稿されていた。
愛の告白を断られた直後に連絡を取るために作った「レイル」というSNSアカウントはブロックされたままで、二度と使うことができない。
でも、昔から使っていた「エンペラーズカフェ」という別のアカウントなら、リヒトとつながることができる。
玲瑠は恐る恐る指を動かし、他人を装ってリヒトの最新のつぶやきに、溢れんばかりの思いをなんとかシンプルにして感想のコメントを書き込んだ。
『佳作おめでとうございます! 周りのカラフルなビンのマステいいですね。これからも応援しています!』
投稿して間もなく、スマートフォンがポロンと通知音を鳴らし、リヒトからの返信が届いた。
『ありがとうございます。フレームのマステは上手く作品に噛み合って気に入っています。今後もよろしくお願いします』
リヒトの声で再生される文章。
かつてのような特別な関係として隣にいられなくても、ファンとして言葉を交わすことができた。そのほんの少しのやり取りだけで、玲瑠の心はいっぱいになり、枕に顔を埋めてバタバタと足をバウンドさせる。
(リヒト先生、ちゃんとご飯食べてるかな。新しい職場にも慣れたのかな。お絵描き楽しんでるかな?)
返してもらったメッセージを何度も読みながら、少しずつ絵を描き始めているリヒトを思い浮かべてニヤニヤと笑顔がこぼれる。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
月日は流れ、学年が上がり、夏を越え、二学期後半。進路と嫌でも向き合わなければならない季節がやってきた。
スマートフォンの画面越しにリモートで行う、進路指導。
担任の先生が資料をめくりながら嬉しそうに微笑んだ。
「このまま順調にいけば卒業できますね」
慣れない努力を積み重ね、最低ラインはクリアできそうでよかった。
「それと埠頭さんの今の成績なら、Eランク程度の私立大学なら十分合格が狙えますよ。その進路も視野に入れてみたらどうですか?」
「大学、ですか……」
先生からの予想外の言葉に、玲瑠は一瞬胸がきらめいた。
中学生で学校をドロップアウトした身が、大学という選択肢を持てるまでに成長できたことは純粋に誇らしかった。
特に通信制の高校生は卒業後に体感で半数は行方がわからなくなると聞いているから、明確に次へのステップアップを提示されたのは嬉しかった。
だけど、玲瑠はネットで事前に頭に入れていた現実的な問題を思い出していた。
名前も聞いたことがないようなEランクやFランクの大学に進学し、数百万円の奨学金を借りてしまえば、卒業後に奨学金の返済に苦しんでしまうという問題だ。
そして、明確に学びたい学問がないままなんとなく大学に行くぐらいなら、若いうちから社会に出て働いた方が身になると聞いている。
なにより、奨学金を借りて大学に行くとなれば、初期費用でどうしても衣琉華の援助を頼らざるを得なくなってしまう。
衣琉華は低ランク大学ごときで援助してくれるはずもないし、なによりもこれ以上衣琉華に縛られ、「誰のおかげで大学に行けていると思っているの!」っと見下され続ける従属関係だけは今後も続けたくなかった。
結論を出すのに、一秒もいらなかった。
「先生、私、高卒で就職します。早く自分の力で生きていきたいんです!」
毅然と告げた言葉に、先生はどこか温かい眼差しでうなずいた。
玲瑠自身で考え、悩み、選び抜いた道。
同年代の普通の道を歩んだ学生と比べると、かなり遠回りしたかもしれない。だけど、間違いなくいい方向へと向かっている。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
しばらくして就職活動が始まった。
正社員として雇ってもらう就職活動は、アルバイトのような条件をすり合わせる作業じゃない。その会社に忠誠を誓えるかを問う、宗教のような面接をしなければならない。
玲瑠はインターネットで通信制高校を卒業した人の面接の体験談や、圧迫面接などの経験談を幾多も目にしていた。。
他人の就職活動を思い出すたびに足がすくむけど、ここで逃げ出し、玲瑠が望む企業に就職できなかったら生きている意味がないと心を奮い立たせ、立ち向かうことを決めた。
アルバイトで貯めたお金で、近所のスーパーマーケットで格安のリクルートスーツを購入。しっかり採寸していないから少し肩が落ちていて不格好だ。でも、そのスーツを着て全身鏡の前に立つと、キャリアウーマンみたいに見えてまたひとつ成長できたように感じる。
そして、ドキドキの一次面接の日。
玲瑠はリクルートスーツを着こなして、髪を整え、人生で一番清潔感のある姿へと変貌を遂げる。
スマートフォンを机の上に立て、通話アプリを立ち上げ、インカメラをオン。面接をしてくれるおじさんの顔が画面いっぱいに広がった。
この会社は、通信制高校が紹介してくれるような会社じゃない。玲瑠が望んで選んだ会社だ。そして、玲瑠はこの会社しか面接を受けるつもりはない。この会社に落ちたら、首を吊ってやろうという気持ちで面接に挑む。
「本日はよろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
それから、自己紹介を終え、会社を選んだ理由、会社でやりたいこと、自分ならなにができるか……等々の質問に答えていく。
最初はガチガチに緊張していたけど次第に慣れていき、セリフを事前に準備していたから円滑に面接は進んでいった。
「これで以上になります……埠頭さん申しわけございません。すでに弊社で採用したい方が数名いるので、今回はおそらく不採用になるでしょう。埠頭さんの今後のご活躍、心よりお祈り申し上げます」
テンプレートの断り文句「心よりお祈り申し上げます」を聞いた瞬間、心臓が絶対零度のごとく凍りづいた。
一社しか受けるつもりがない会社から不採用を突きつけられてしまった。ここで夢への道を断たれてしまったら、今までの努力が水の泡となり、玲瑠は死の道を選ぶしかないだろう。いや、ショックから今すぐにでも首を吊りたい。
引き下がるわけにはいかない。どうせ縁がなくなるかもしれない会社だ。失礼を承知で玲瑠は声を張り上げる。
「ちょっと待ってください! それでは正社員じゃなくてもいいので、契約社員かフルのパートタイマーでもいいので働かせてください! そちらの雇用でも御社は求人を出していましたよね? お願いします!」
カメラにアップになった玲瑠の迫力ある顔に、面接のおじさんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「そ、そんなに弊社で働きたいのですか?」
「はい! 正直雇用形態は関係ないです! 御社で働くことに意味があるんです!」
「……わかりました。それではここでの不採用は取り下げ、一度持ち帰って上と相談いたします。それと確認なのですが、契約社員かパートタイマーの雇用でもいいのですね」
「大丈夫です!」
「かしこまりました。それでは、本日の面接は以上になります。ありがとうございました」
「ありがとうございました!」
カメラの前で深々と頭を下げ、通話が途切れて人生初の面接を終えた。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
ほんの数十分の出来事だが、長距離を走ったときみたいに心臓がバクバクと暴れ回って息が切れていた。
(これでよかったんだよね……お願い! 採用してください!)
そう祈りながら数日過ごしていると、一通のメールが届いた。メールを開くと「一次選考通過」の文字が書いてあった。
玲瑠はベッドをトランポリンみたいにして狂喜乱舞した。熱意が届いたみたいで安堵する。
そして、次は電車と新幹線を乗り継いで、本社まで赴いての二次面接。
初めてリアルで顔を合わせ、初老のおじさんたちに囲まれて行う役員面接。
空気だけでゲロを吐きそうだったけど、絶対にここに採用してもらうぞという闘志を燃やし、臆することなくハキハキと答え続ける。
面接は無事終わり、確かな手ごたえがある中数日間待っていると、なんと正社員として採用してもらうことができた。
正真正銘、玲瑠が玲瑠自身の手で初めて掴み取った、普通の人へ続く夢だ。
