壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 リヒトがこの街を去ってから、玲瑠はひたすら泣き続けた。

 昼夜問わず自室のベッドでスマートフォンを握りしめて涙を流し、オンラインの授業中は泣くのを我慢するのが苦しく、酔っ払った衣琉華からの攻撃も耳をすり抜け、食事のときはご飯が喉を通らなかった。

 現実逃避で見ていた、嫌なことを忘れられるショート動画やアニメを見ても、リヒトの存在がぼんやりと頭に浮かんで、一秒も忘れられそうにない。

 課題を終えた夕方からは、涼水文房具店へと足を運ぶ毎日。

 明紀が倒れてから見ていた映像はすべて悪い夢で、もしかしたら今日は店の明かりがついていて、リヒトと明紀が出迎えてくれるかもしれない。

 そんな淡い期待を抱きながら店の前に立っても、無情にも錆びたシャッターは閉められている。あの日から変わらない「臨時休業」っと書かれた紙が貼られていた。

 その光景を見ては、毎日悲しみに暮れている。

 店の前でスマートフォンの電源をつけた。リヒトとの連絡手段のために作った「レイル」のSNSアカウントを開く。画面に表示されるのは「@Rihito_2525さんはあなたをブロックしました」っという、拒絶の文章。コメントを送ることも、ダイレクトメッセージを送ることも叶わない。

 一瞬、新しいアカウントを作り直してDMを送ろうかという激しい誘惑が頭をよぎった。
でも、最後の夜、身勝手な感情をぶつけたときにリヒトが見せた、冷ややかな表情が脳裏をかすめる。

『アンチと同等に扱うからな』

 リヒトの暗い声が、耳の奥で蘇る。

(ダメ! 本当に嫌われちゃう……ストーカーみたいになっちゃう)

 勝手に動き出す右の親指を、左手で押さえて新アカウントを作ろうとすることをなんとか阻止していた。

 そうして、リヒトと出会う前以上に辛くなった五日間を過ごし、昼夜問わず泣き明かして六日目の朝を迎えた。

 耳障りなアラームとともに目が覚める。まぶたは赤く腫れ上がり、視界はかすみ、鏡を見るまでもなく酷い顔をしているのがわかった。

 頭痛が残る重たい頭を持ち上げてベッドから降り、フラフラとした足取りで朝食を取るために部屋を出た。

 部屋を出ると、キッチンに身の毛もよだつような殺気が充満していることに気づく。

 レディースのスーツに着替え、事務のパートに出かける前の衣琉華が鬼のような形相そしながら、スマートフォンを突きつけてきた。

「おい玲瑠」

 怒りしか込められてi
ない声色。
 朝の寝ぼけた頭で詰めてくるのはやめてよと思う。

「昨日お前授業サボっただろ」

 衣琉華のスマートフォンと連動して、授業に出席したかの通知が学校側から飛ぶようになっている。

 玲瑠自身は受けた記憶があるのに、昨日の玲瑠は授業を受けていないみたいだった。

 どうやら、五日間も泣き続けて頭がおかしくなってしまったみたいだ。

「ったくよ、ついに授業までサボりやがって。通信制の高校に通うって言ったとき約束したよな? 授業をサボった日は飯抜きだって。それが嫌だったら、今日は授業受けろよ」
「ゴメンなさい……ちょっと体調が悪くて」
「なに体調悪くなってんだよ、とりあえず今日はサボるなよ」

 っと、玲瑠を心配することなく、衣琉華はスマートフォンを鞄に入れ、パンプスを履いて部屋から出て行ってしまった。

 飯抜きと言っていたから、もちろん、キッチンのテーブルには朝食がない。

 今まで一回も授業をサボったことがないのに、本当の体調不良だったのに、衣琉華は聞く耳を持ってくれなかった。

「なんか、生きるの疲れちゃったな……」

 ギリギリのところで耐えていた糸が、プツンっと切れる音がした。

 足が無意識に動き出し、自室に戻ってベッドに歩み寄った。マットレスを数センチ持ち上げ、細い腕を突っ込んでグッとあるものを引っ張り出した。

 首吊り縄の形状に結んだ、頑丈な三打ち縄。

 その首吊り縄を首にかける。

 無心のまま、淡々とした手つきで吊るすほうの紐を窓際にある勉強机の脚に括りつけた。

 窓を開ける。
 天気は玲瑠の心を表すかのように、灰色の雲で覆われ、ザーザーっと雨が降っている。

 二階建ての古びたアパート。首に縄をかけた状態で窓から身を投げ出したら、落下の途中で縄が首に食い込み、勢いで頸椎が折れる。

 上手くいけば、絞首刑のように逝くことができる。

 ようやく、この世のすべての面倒事からさよならできる。
 過去の痛みを清算し、未来の痛みも感じることはない。

「十七年間、苦しい人生だったな。リヒト先生と一緒だったら生きられてたのに……うっ――」

 ダメだ。リヒトという愛する人の名前を口にしてしまった。

 なにも考えず、体が機械的に動き、玲瑠が望んでいた未来に突き進んでいたというのに、リヒトのことを思い出してしまった。

 リヒトの笑顔とやさしい声色が鮮明に蘇り、このまま生き続けていたら、宝くじを当てる確率でも、またリヒトに会えるかもしれない甘い期待を抱いてしまう。

 そんな厄介な期待が死にたくないと主張する。
 主張に言い負かされた玲瑠の心は、リヒトと二度と会えなくなってしまう恐怖に支配された。

 足を震わせ、一歩、二歩、と後退し、ドスっと畳に尻もちをついた。

(っ……死ねなかった……)

 窓の外の雨空を見上げ、数秒間放心する。

「うぅ……うああああああああん、リヒト先生酷いよおお!」

 大粒の雨を両目からポタポタと流し、リヒトに届くぐらいの大声で、空に向かって吠え叫ぶ。

 リヒトは優しい声と、心がこもった文字で「レイルちゃんは幸せになってくれ」っと伝えてくれた。

 玲瑠なりの幸せを掴むため、あの世という広い世界に旅に出ようと思ったのに、寸前のところでリヒトに止められてしまった。

 酷い。酷すぎる。
 リヒトは絶対に許されない罪を背負った男だ。

 死にたいと思っていた人生を救ってくれ、また死にたくなるぐらいの絶望に突き落とし、本当に死のうと思ったら引き止められてしまった。

 しかも最悪なことに、死にたくないという恐怖を覚えてしまった。

 またこの足で立って、窓から飛び降りる勇気はもう湧き起こらない。

 最終手段の自殺。この手段があるから、理不尽な世界でもギリギリのところで生きていられた。でも、精神安定剤にしていた選択肢が玲瑠の中から消えてしまった。

 もう、玲瑠がインターネットで見てきた地獄の世界を生きていくしかない。

 こんな辛い思いをするなら、リヒトに出会う前に死にたかった。

「私、どうやって生きていけばいいの……リヒト先生」

 体育座りになり、目を閉じて膝に顔を伏せる。

 今まで絶望の将来しか見えず、怠惰な生活を送ってきた玲瑠。

 こんな人種が社会に放り出されたら、苦しみながら生きていくしかない。

 苦しみたくないから、いつか自殺したいと思っていた。

 しかし今、自殺を躊躇してしまった。
 今後、また死と向き合えるだろうか……

「……未来の私、頼んだよ」

 また自死の道を選んでくれる将来の自分に期待を押しつけ、首吊り縄を緩めて外した。

 勉強机の椅子に座り、引き出しを開け、奥からそっと取り出したのは、リヒトが旅立つ前に残していった一通の手紙だ。世界でたったひとつしかない、特別な便箋。

 その手紙をそっと開いて読み返す。

 リヒトの温もりがまだ残っているかのような、少し癖のある文字を追いかけるたび、胸の奥が熱いやさしさに包まれ、同時に耐えがたい痛みが襲いかかってくる。

「リヒト先生、酷いよ。私に幸せになれなんて言っておきながら……私をこんなに不幸にしてっ!」

 涙で濡れた瞳のまま、グッと歯を食いしばった。

「じゃあ私に幸せになる方法を教えてよっ!」

 ドンっと、机に小さな拳を叩きつける。

 インターネットに出没する偽善者は「生きていればいいことがある」「生きているだけで価値がある」「人生辛いことより幸せなことのほうが多い」っと、言うだけ言って、明確な道筋なんて教授してくれない。

 結局リヒトもキレイ事しか言えない、ただの無責任な大人でしかなかった。

「でも……待ってるだけじゃなにも起きないよね…」

 地獄を知らない裕福な家庭の人や、努力して地獄から抜け出したことがある人は「不幸になった人は自己責任」っと切り捨てることがある。そして、その攻撃的な発言は毎回炎上している。

 力が及ばない運が絡んでくる場面でその人が転んだら、自己責任と切り捨てられるのは納得がいかない。

 でも、その人の力が及ぶ範囲で目一杯動かず不幸にひれ伏していたら、確かに自己責任かもしれない。っと、運よく才能があっただけだろと、普段はウザいと思っているスポーツ選手の名言的なことを思い出す。

「リヒト先生、知ってますか? 今の子供って、大人のことなんか舐めてて、人生だって舐め腐ってて……大人の言うことなんて、これっぽちも聞かないワガママな生き物なんですよ」

 自暴自棄な感情が生意気なセリフになってこぼれていく。大切な手紙を、指先で少しクシャっと折り曲げてしまう。

「こんな、なにもかもから逃げ出したような落ちこぼれ、幸せになれる資格なんて最初からないんですよ。ゴメンなさい、私リヒト先生との約束守れそうにありません。私は、幸せになれそうもありません。リヒト先生に嫌われる道を目指すしかないみたいです」

 置き去りにした仕打ちへの反抗として、強がりな言葉を重ねると、グッと顔を上げた。

(埠頭玲瑠は……一回死んだ)

 衣琉華を刺激しないように聞き分けのいい子を演じ、リヒトに嫌われないように我慢していた玲瑠はここで終わりだ。

 ここからは玲瑠が生きたいように生きる。例え、進んだ先が絶望とわかっていても、その時は未来の玲瑠が死んでくれると信じて。勉強机の脚に括りつけた首吊り縄をほどいてベッドに投げ捨てた。また使うかもしれないから取っておく。

 手紙を引き出しの中にそっと仕舞う。筆箱へと手を伸ばし、シャープペンを取り出した。中には涼水文房具店で購入したシャープペンシルの芯が入っている。

 そのシャープペンを折れんばかりの強い力でぎゅっと握りしめ、顔を伏せた。大粒の涙がポロポロと溢れ出し、机の上のノートに落ちて大きなシミを作っていく。

「ゴメンなさい、リヒト先生。私にはこうするしかないんです。リヒト先生には幻滅されちゃうかもしれないですけど、私が幸せになるにはこの道しかないんです。リヒト先生が私にくれたカードで、こうやって私の人生を描くしかないんです」

 決意を固めた顔を上げると、濡れたノートにシャープペンをカリカリカリカリっと走らせていく。

 答えがひとつしかない参考書の問題を解くたびに、やっぱり玲瑠は大人の言うことが聞けない悪い子だとつくづく思う。

 そうやって自暴自棄になりながらも、一度間違えて貼りつけてしまった人生を剥がして、またやり直すしか玲瑠には選択肢しかなかった。

 リヒトが教えてくれた、マステ絵のように。