壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 涼水文房具店の奥にある、昭和の面影を残した浴室。
 水色の四角いタイルが敷き詰められた風呂場で、玲瑠はシャワーの温かな湯を浴びながら、乱れる息と鼓動を整えようとしていた。

 でも、人生で初めて愛した人の家に泊まる夢のような現実に、胸の高鳴りが収まるはずもなかった。

 リヒトの家のボディーソープで体を洗い、リヒトの家のシャンプーとリンスで髪を洗う。体中がリヒトの家の香りに染まり、お泊りするという実感がまたひとつ体に刻まれる。

 体を洗い終え、脱衣所に出る。玲瑠は鏡に映る自身の姿を見つめた。湯気で火照り、真っ赤に上気した顔。ほんの少しだけ、大人になった十七歳の顔がそこにある。

 リヒトの家にお泊まりするなんて思いもしていなかったから、当然寝間着なんて持っていない。リヒトがおばあちゃんのでよかったらと用意してくれたパジャマに着替える。

 明紀が着ていたパジャマを身にまとうと、スーッとしたミントに近い殺虫剤の香りが全身から漂い、明紀の匂いを思い出す。明紀に全身抱きしめられているみたいで、まだ生きているかのように感じる。

 濡れた長い髪をタオルで拭きながら、脱衣所の引き戸を開けた。
 建築時からリフォームされていないだろう、色褪せた茶色の木材の暗い廊下を歩き、店舗へと足を進める。

 暖簾をくぐって蛍光灯のスイッチをパチッと押す。

 数週間前までリヒトや明紀、時折訪れるお客さんの温かな笑い声で溢れていたはずの狭いお店は、深海の底のような静寂に包み込まれていた。

 棚の商品や家具はまだ残されているというのに、店を満たしていたあの陽だまりのような温度はすっかり失われている。

 もう、この思い出の空間もなくなってしまう虚しさがこみ上げる中、第二の実家の光景を目に焼きつける。

 そして、ひんやりとした木の床の感触を感じながら、明紀が転倒した急勾配の階段の前に立つ。その場所を直視できず、ぎゅっと目を伏せながら階段を踏みしめた。一歩上るごとに、木板がキィと小さく軋む。

 二階の住居スペースに辿り着き、リヒトに案内された部屋のふすまの手前で一度立ち止まって、ゴクリと唾を飲み込んだ。震える手でふすまの縁に手をかけて、そっと引き開ける。

 リヒトは畳の上に敷いた客用の二枚の布団の片方に座り、スマホをいじっているところだった。

「お風呂、お先にいただきました」
「おう、それじゃあ俺が入ってくるから、ゆっくりしててくれ。ドライヤーはあそこのやつを使ってくれ」

 部屋の隅に置かれたドライヤーを指差し、すれ違いざまにやわらかい笑みを残して部屋を出ていった。

 ひとり残されたレイル。お言葉に甘えてドライヤーを手に取り、布団にちょこんと座って髪を乾かし始める。

 ドライヤーを持つ手が微かに震え、心臓が今にも胸から飛び出してきそうなほど高鳴っている。

 髪を乾かすのもほどほどに、トートバッグからスマートフォンを取り出した。ブラウザを開き、検索窓をタッチして文字を打ち込む。

『初めてのカレシの家でお泊り』『好きな人と一緒に寝る時のマナー』『好きな人の家に泊まる心構え』っといった女性向け恋愛サイトやまとめ記事を次々とタップして閲覧していく。

 しかし、ずらりと並ぶ文字がまったく読めない。耳の奥でドクンドクンとうるさく鳴り響く脈拍のせいで、文字は目を滑り落ちていくだけだった。

(どうしよう……ああ、どうしよう……)

 緊張を和らげる術を手に入れられず、枕に顔を埋めてバタ足を繰り返す。

「お待たせ。待たせてゴメンね」
「わぁっ!」

 ふすまが開き、玲瑠は飛び起きて正座になる。バタ足をしているところを見られていたら恥ずかしい。

 風呂上がりのリヒトが姿を現した。グレーのシンプルなスウェットを着ている。髪はタオルで拭いただけでまだ湿っていて、玲瑠と同じシャンプーの香りがふわりと漂ってくる。

 水が滴った、アトリエで見せていたカーディガン姿の優しい先生とはまた違う、無防備でなまめかしい大人の男性としての存在感。

 その姿を目にするだけで、玲瑠の頭が酔いそうになる。

「ところで親御さんは大丈夫? レイルちゃんの親御さん厳しいんだよね?」

 心配そうに気遣う声で尋ねる。
 
「はい、友達の家に泊まるって言って連絡入れたから大丈夫です。それと、親の話はしないでほしいです」
「そうだね、俺たちの時間を楽しまないとな」

 玲瑠は握りしめているスマートフォンの電源ボタンを長押しした。
 液晶画面が消灯し、ただの黒い板へと変わる。

 これで、衣琉華からの厳しい追及も、インターネットから流れてくるありとあらゆる雑音も完全にシャットアウトされた。四角い小さな和室に、誰からも邪魔されない、ふたりだけの世界が完成する。

「それじゃあもう寝ようか。申しわけないけど、俺、明日早くここを出ないといけないから」
「はい!」

 リヒトが壁のスイッチを押し、カチリと乾いた音を立てて部屋の明かりが消えた。
 
 玲瑠が布団の中に体を潜らせ、隣の布団でリヒトが布団をガサゴソと持ち上げて布団に入る音がした。

 暗がりの中、わずか数十センチ離れた距離で愛する人が眠っている。

 直接ふれ合ってないのに、リヒトの体温が空気を伝って玲瑠の布団の中に流れ込んでくる。冷え始めた秋の陽気が一瞬で熱帯夜に変わったかのようだ。

 規則正しいリヒトの呼吸とは対照的に、玲瑠の胸は激しく上下して、息が徐々に荒くなっていく。

 憧れ続け、人生を救ってくれ、この世界で一番愛した人が、すぐ隣で眠っている。体が反応してしまうのは仕方がない。

 あまりにも贅沢なシチュエーションに、玲瑠の体は眠れるはずもなかった。

「レイルちゃん」

 おもむろに低い声が響いた。

「はい!」

 肩が跳ね、声量を間違えた大声で応答しながらリヒトの方向に体を向けた。

 暗闇に慣れた目でリヒトを見つめる。リヒトは仰向けで目をつぶっていて、カッコいい横顔の輪郭がぼんやり浮き上がる。

 リヒトの口だけがそっと動き出す、

「レイルちゃん、明日から俺はいなくなって、これからはなにも助けてあげられなくなるけど、レイルちゃんはしっかり自分の足で立って、自分の人生を歩いていくんだぞ」

 深く心に染み渡るような力強い言葉だ。

 玲瑠は布団の中で小さく握りこぶしを握った。

「はい! リヒト先生に助けてもらったこの人生、絶対に無駄にはしません!」
「その意気だ。レイルちゃんみたいな優しい女の子は、絶対に自分の力で幸せになれる。俺の願いは、レイルちゃんが幸せになってくれることだから、俺の願いも叶えてくれ」
「わかりました! 私、絶対に幸せになります!」

 その言葉に、玲瑠の胸の中で一瞬、小さなワガママが渦巻いた。

(私の幸せを願ってるなら、リヒト先生つき合ってよ!)

 ツッコミめいた本音が喉のすぐ手前まで出かかったけど、それをグッと胸の奥へ押し戻した。

「リヒト先生も新生活大変だろうと思いますけど、心から応援しています!」
「ありがとな」
「遠く離れていても、リヒト先生の人生が上手くいくことを願っていますし、リヒト先生がこれからも上げるイラスト、ずっと楽しみにしています!」
「ああ、俺の一番のファンとして、いつまでも応援していてくれ」

「一番のファンとして」っという何気なく口にした言葉で、本当にただのファンになってしまったっと思い知らされる。もう、ファン以上、恋人の関係にはなれない。

(うん、これでいいんだ……)

 あきらめながら暗闇の中で言葉を交わすうちに、激しかった鼓動が少しずつ落ち着き始めた。
 リヒトの隣で寝ているという夢のような現実が、不思議なほど自然に馴染んでいく。

「リヒト先生は、これからどんな人生を歩みたいですか?」

 この愛おしい時間を一秒でも長引かせたい一心で思いついたことを口にしてみる。

 リヒトは静かに息を吐き出しながら、深く考えるように間を置いた。

「とりあえず、新しい仕事を辞めずに長く続けられたらいいなって思ってる。それで仕事に慣れたらイラストに復帰して、どこかでチャンスを掴めたらいいなって思ってる」
「リヒト先生なら、絶対に売れっ子の有名なイラストレーターになれますよ!」

 迷いのない確信を込めて即答した。

 リヒトはうつ病という現代社会の人災を経験し、一度は社会からはじき出されても、前を向いて泥臭く歩き続けようとしている。

 インターネットの冷めた意見ばかりを先取りして、知識ぶり、人生を悲観して最初から挑戦することすら逃げてきた玲瑠とは違う。

 その姿勢も見習わないといけない。

 そんな倒れても起き上がり、立派な夢と熱意を持っているリヒトの姿が、玲瑠には眩しくて、どこまでも誇らしかった。

「ありがとな、レイルちゃんに応援されたら、有名なイラストレーターになるしかないな……レイルちゃんはどんな人生を歩みたいって思ってるんだ?」

 今度はリヒトから優しい問いかけが返ってきた。

 玲瑠は暗闇の中で小さな瞳を泳がせ、うーんと小さく唸った。

 どんな人生を歩みたいか――

 今という時間を生きるのに精一杯だった上に、暗い未来しか見てこなかったから、まともに将来を考えたことがない。
 しかし、ボーっと過ごしていても、人生は向こうからやってくる。特に十七歳という大人と子供の境界線に立つ人は、その問いかけからは逃げられなかった。

 スマホ越しに見つめる、同年代の輝かしい道は絶対に歩めない。

 それならば今から勉強をガッツリしていい大学を出て、いい企業に就職して、まともな大人になる、世間が決めた王道のレールに戻る手もある。できなくても高卒で働くべきなのか。それか、リヒトみたいに好きなものを見つけて、その信念を貫くべきなのだろうか。

 答えを知りすぎてしまった十七歳にはあまりにも難しい問題で、リヒトという道しるべを失った今、本心がどこにあるのかわからなかった。

 だけど、約一カ月間、涼水文房具店で過ごしたかけがえのない日々が脳裏を駆け巡り、リヒトと明紀のアドバイスが蘇る。

 どの道を進もうと、進んだ道を正解にしないといけない。

 玲瑠が本当に求めているのは、誰かに誇れるような輝かしい大成功でも、世間から羨ましがられるような完璧なキャリアでもない。

 リヒトと一緒に過ごせないなら、呼吸をするのも苦しかったあの自宅を抜け出し、ただ穏やかに、ただ静かに寿命を消費して、世間から元々存在していなかったかのように消え去りたい。

 玲瑠は胸の底にある等身大の本音を手繰り寄せた。

「そうですね……まだあんまりわからないですけど、今の家を抜け出して、大きな荒波にもまれることもなく、平穏に生きたいですかねぇ」

 ささやかで控えめな願いを口にした。

(本当はリヒト先生と一緒に生きたい……)

 心の中で秘めた一番の本音を抱きしめるのは、この上なく辛かった。

「その荒波に揉まれないのが実は一番難しいんだけどな。まあでも、レイルちゃんにならきっとできると思うよ」
「はい! ありがとうございます!」

 こんなにショボい希望でも、リヒトは決して馬鹿にすることなく、いつもみたいに優しく肯定してくれる。

 もしこれが衣琉華だったら「向上心がない」「ぬるい考え」「甘えるんじゃない」っと容赦なく叩きのめされていただろう。

「あの、リヒト先生、嫌だったら答えなくていいんですけど」
「なんだ?」
「私の告白とは関係なく、結婚とかは考えてないですか?」

 尋ねながら、玲瑠の胸が再びドキドキと甘く跳ね上がった。

「まったく考えてないな。さっきも言ったけど、俺は結婚できるような器の男じゃない。俺と結婚したら、結婚した嫁さんがかわいそうだ。それに、共同生活なんてした日にはお絵描きも満足にできなくなるだろうからな。今は全然考えてない」

 さっぱりと言い切るリヒトに対し、玲瑠は心の中で強く叫んだ。

(私だったら絶対にそんなこと思わないし、絵の邪魔もしないのに!)

 届かない想いを噛みしめる。

「そうですよね。インターネットを見ていても、結婚生活後の愚痴とか、悲惨な話ばっかりですし」
「ああ、俺なんか絶対に甲斐性なしってボコボコに叩かれるタイプだ。レイルちゃんは、絶対に俺みたいなクズ男に引っかかるんじゃないぞ」
「はい!」

 そう答えながらも、SNSや掲示板で見かける、泥沼な結婚生活の話や、夫婦間の冷め切った愚痴のコメントの数々を思い出していた。

 でも、その悲惨に語られる結婚生活は、リヒトとなら絶対に過ごすことはないと確信できる。

 それでも、結婚という現システムを通してしまうと人は変わってしまうのだろうか。
 特に、玲瑠は托卵をするような人から生まれ、自己中心的で暴言を吐き続ける衣琉華の血が自分にも流れているという、避けようのない事実がある。

 玲瑠もいつか誰かを深く愛し、生活をともにしたとき、母親と同じように相手を傷つけてしまうんじゃないか。そんな不安が暗くかすめていた。

(ううん……絶対にお母さんと同じにはならない)

 リヒトからも明紀からも本物の愛を教わった。だからできるはずだと、布団をギューッと握りしめた。

(寝たら、明日がきちゃう……)

 興奮していた心身でも、暗がりの中で過ごしていると、抗えない睡魔が生まれて襲いかかってくる。

 もっとリヒトの声を聞いていたい。言葉を交わしていたい。夜が明けてほしくない。ずっとこのまま時間が続いてほしい。

 そう強く願っていたけど生理現象には抗えなかった。

(ん?)

 あくびを噛み殺していると、リヒトから規則正しい寝息が聞こえ始めた。目をつぶって気持ちよさそうに眠っている。

 もう、これ以上はしゃべれない。

 そして、明日は朝早いと言っていた。最後には笑顔で送ろうと思い、玲瑠も眠ることを決める。

(ちょっとなら、いいよね)

 玲瑠は胸の鼓動を押し殺しながら、そっと体を起こして布団から抜け出した。

 音を立てないようにのっそりと体を動かし、リヒトの布団に身を乗り出す。息を止め、リヒトの顔へとゆっくり顔を近づけた。

 暗がりでもわかる、やさしい寝顔。

 その頬に、玲瑠は自分の唇をそっと重ねた。

 チュッと甘い音が暗闇に溶ける。

 瞬間、顔全体に火がついたように熱くなり、玲瑠は慌てて布団に戻って深く頭までかぶり直した。

 心臓が破裂しそうなほど激しく動いている。

 唇に残る甘く温かな感触。 

 その熱を一生の宝物みたいに大切に抱きしめながら、玲瑠は溢れる幸せと切なさの余韻の中で、静かにまぶたを閉じた。