壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 翌日。玲瑠は一日中、どこか宙に浮いているような、生殺しの時間を過ごしていた。もちろん授業の内容もテキストの文字も頭に入ってこない。

(早く九時になってっ!)

 故障でもしているんじゃないかと疑う速さでしか進まない、スマートフォンの端にある時計を見つめ、永遠のような時間を耐えに耐え抜く。

 宿題を機械的に終わらせ、暇つぶしにショート動画を見ていたけど、居ても立ってもいられないくなって、いつもの夕方十七時前に家を飛び出した。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 明紀が亡くなった翌日よりも早い速度でアスファルトを蹴り上げる。走り慣れていないから、すぐに息が切れて脇腹が痛くなってくる。

 それでもあの人に会えるという一心で秋風を切り裂き、夕闇に染まる街を無我夢中で駆けた。

 引き延ばされた長い影と一緒にハイペースで走っていると、涼水文房具店が視界に飛び込んでくる。

 重々しく閉ざされていた灰色のシャッターが、今日は半分ほど上がっていた。その隙間から、温かな光が漏れている。

 その光景を見た瞬間、残っていたスタミナを燃やし尽くす。最後の直線で一気に加速。勢いをそのままにシャッターの隙間を潜り抜け、ガラス戸をガタガタと強く開けた。

「リヒト先生っ!」

 感情を爆発させるように叫ぶと、店舗とアトリエを仕切る暖簾の奥からそっと人影が現れる。

 ひさしぶりに目にするリヒトの顔は頬が少し痩け、目元に濃い影を落として疲れきっていた。

「いらっしゃいレイルちゃん。早いね」

 その声を、その姿を目にした瞬間、目頭が一気に熱くなった。

 生きた心地がしなかった二週間の緊張が決壊する。

 玲瑠は助走をつけ、踏み切ってジャンプ。リヒトの腰のあたりに飛びつき、強い力で抱き着いた。

「リヒト先生! 寂しかったです! もう会えないかって思って、すっごく寂しかったです!」

 カーディガンの布地をきつく掴む玲瑠に、リヒトは体が一瞬強張った。しかし、すぐにやわらかい息を吐き出すと、両手をそっと玲瑠の頭と背中に回し、慈しむようにやさしく撫でる。

「ゴメンな。なにも言わずにいなくなって……心配かけて、ホントに申しわけない」

 低い声で謝られる中、リヒトの胸にぐっと顔を埋めた。

 熱い胸板の奥から聞こえてくる、リヒトの規則正しい心臓の鼓動。微かに漂う、嗅ぎ慣れた柔軟剤の匂い。
 愛するリヒトという生命を全身で受け止めながら、玲瑠は荒れていた呼吸をゆっくりと整えていく。

 五分以上抱きしめられ、玲瑠は恥ずかしそうに顔を上げた。

「落ち着いたか?」
「はい、落ち着きました。リヒト先生とまた会えて、ホントによかったです」
「そうか、俺とまた会えてよかったか……」

 リヒトは鼻をすする玲瑠を優しく見つめながら、眉を八の字に下げた。

 その落ち込んでいるリヒトに、玲瑠から気になっていた話題を投げかける

「リヒト先生は大丈夫でしたか? おばあちゃんが亡くなって……実家に帰って……」
「おばあちゃんのことはまだショックが残ってるし、これからも引きずり続けるだろうけど……火葬されて骨になったとき、ああ、もうこの人はいないんだなって、一応一区切りはつけられたよ」

 一度も会ったことのない母方の祖父母は存命で、葬儀に参列した経験がない玲瑠には実感しづらい。だけど、インターネットにいるお坊さんの言う通り、葬式は一区切りつけるためにあることがわかった。

「それで実家に帰って、お父さんといろいろ話して……」

 リヒトの表情がふっと曇る。
 あの厳格な父親の話題に、玲瑠の体も強張った。

「俺、明日にはこの家を出ていって、実家に帰らないといけなくなったんだ」
「えっ、実家って……どこですか?」
「隣町だ」
「よかった。それなら、会おうと思えばいつでも会えますね」

 感情ジェットコースター。家を出ていくと言われたときは地の底に心が叩きつけられたが、すぐに立ち直れた。

「それで今日、引っ越しの準備をしてたんだ。っと言っても、店の後処理や片付けは親族が手配してくれるし、俺は画材以外なにも持ってない単身だから、半日で終わっちゃったけどね。こんなことならもっと早くレイルちゃんを呼べばよかった」

 よく見ると、商品棚の上の壁に飾られていたマステ絵たちがすべてなくなっている。

 そして、暖簾をくぐり、店の裏に入ると、ショッキングな光景が目に飛び込んできた。

 大きな作業机だけがぽつんと残され、所狭しと並んでいたマスキングテープも、トレース台も、ライトスタンドも、クラフトナイフやピンセットの道具も、パソコンも……すべて姿を消していた。

 あんなに温かく、色で満ちあふれていたふたりだけの秘密基地のようなアトリエが、殺風景な空洞に変わり果てている。

「おばあちゃんが亡くなったあと家族会議をして、この家は潰すことになったんだ。店の経営も立ち行かないし、老朽化が激しいし、誰もここに帰ってくることもないからね」

 約一カ月前、初めて涼水文房具を訪れた。

 息を殺し、震えるように怯えていたアパートの牢獄から抜け出し、本物の実家みたいに受け入れてくれた心休まるオアシスのような場所。

 そこには、憧れのリヒトと笑って絵を描いていたアトリエと、第二の母親の明紀と会話を交わした畳の居間がある。

 大切な思い出が詰まった文房具店が、跡形もなく取り壊され、瓦礫となって消えてしまう。

 もう、逃げる場所……違う、帰る場所がなくなってしまう虚しさに、胸がギューッと押しつぶされた。

(でも、仕方ないよね)

 限界集落の空き家でもない限り、老朽化した空き家が取り壊されてしまう世の中の摂理は、十七歳の玲瑠でも受け入れることができた。

 ここからは未来の話に切り替える。

「リヒト先生は実家に帰ったあと、どうするつもりなんですか?」

 途切れそうな声で思わず問いかけてしまっていた。

 うつ病を患って、社会から離れて苦しんでいる相手に対して「次はどうするのか」「将来はどうするのか」っと問いかけるのは、相手を追い詰めるだけなので絶対にやってはいけない行為だとインターネットの知識で学んでいた。

 でも、止めようのない不安のせいで口を滑らせてしまった。

 きっと、世の人々も悪気があって問い詰めているわけじゃない。ただ、尋ねる側が不安を埋めるために聞いてしまうのだと、玲瑠は己の愚かさを苦く噛みしめた。

「その話なんだけど聞いてくれよ!」

 しかし、リヒトの声は思いがけず明るい響きを帯びた。

「実家に帰ってるとき、お父さんに就職しなさいって強く詰められて、まあ自分もこのままじゃいけないなって思って、マステ絵のコンテストを主催してる会社の工場に思い切って履歴書を送ってみたんだ」

 はずんだ声でリヒトは続ける。

「面接まで進んで、そこで描いた絵を見せて、活動のことを話したら、契約社員として雇ってもらうことができたんだ! 芸は身を助くっていうけど、本当にその通りなんだな。マステ絵やっててよかったよ。今度は長く続けられるといいなぁ」
「えっ、ホントですか!? それはおめでとうございます!」

 長いトンネルをようやく抜け出すきっかけを掴むことができたリヒト。
 玲瑠はパチパチっと小さな拍手の祝福を送る。

 あれだけリヒトの苦しみを共有し、リヒトの茨の道を見てきたからこそ、玲瑠は自分のことみたいに嬉しかった。

 しかし、リヒトの笑顔が急激にしぼみ、うつむいて影が差している。

 いくら好きなものに携われる仕事とはいえ、うつ病を患った身が再び社会へ踏み出すのは怖いのだろう。

 玲瑠がどのような激励の言葉で背中を押そうか迷っていると、リヒトが先に口を開いた。

「それで、俺が突然いなくなって悲しませちゃったレイルちゃんをこれ以上悲しませるのは本当に心苦しいんだけど……」

 言葉を濁すリヒトの様子に、玲瑠の笑顔がスッと消える。

 リヒトからまだなにも言われていない。でも、その表情、その言葉遣いから、これ以上言葉を聞きたくないと、玲瑠の危険察知能力がサイレンを鳴らす。

「実家に帰ったあと、準備ができたら、会社がある岡山に引っ越さないといけないんだ」
「……」

 全身の血が一気に抜けて真っ白に燃え尽きる。
 膝がガクガクと震え、立ち眩みがして一歩後ろに引いて体を支えた。
 吹雪の中にいるように、リヒトの顔がホワイトアウトしていく。

 岡山県。
 そこは、玲瑠が住んでいる所から遠く離れた場所だ。

 玲瑠が住んでいる県には新幹線が通っていない。在来線を乗り継いで軽く三時間以上はかかる。気軽に行けるような距離じゃない。

 旅行など興味がない衣琉華に育てられ、修学旅行のとき不登校だった玲瑠にとって、膨大な交通費と時間を要して足を運ぶ他県は異世界に近い存在だ。

 これまでは、学校終わりにお遊びの感覚で立ち寄ることができた。
 リヒトは毎日出迎えてくれ、いつでもやさしく迎え入れてくれた。

 それが叶わなくなる。

 さらに深刻な問題は距離だけじゃない。
 正社員として働き始めるリヒトはプライベートな時間が削られるだろう。リモートでやりとりをしたとしても、ひとりのファンに時間を取らせてしまうのは迷惑だ。

 もう、玲瑠ひとりに構っていられる時間なんて、リヒトにはないに等しい。

 そしてなにより玲瑠が最も危機感を持っているのは……リヒトとは恋人関係じゃないことだ。

 先生と弟子という、ファンの中では一歩リードした師弟関係でも、玲瑠が望んでいる恋人という特別な関係じゃない。

 恋人じゃない曖昧な関係のまま、遠く離れた場所で一方的な片思いを続ける遠距離恋愛なんて耐えられない。遠距離恋愛の苦しみはインターネットで数多に見ている。

 最悪の場合、愛するリヒトを誰かに取られてしまうかもしれない。

 いや、取られてしまうだろう。こんなにも優しくて魅力的な男性だ。職場やイベントで出会う女性たちが放っておくはずがない。

 ――今しかない。

 本当は高校を卒業して、自他ともに認める成人女性になって、リヒトの隣に胸を張って立っていられる素敵な女性になってから愛の告白をしようと思っていた。

 でも、今この瞬間に思いを口にしないと、愛する男性のリヒトという存在を永遠に失ってしまうかもしれない。

(おばあちゃん! 私の背中を押して!)

 旅立ってしまった、明紀の笑顔と声が蘇る。
 どこからか「かわいいレイルちゃんなら大丈夫。本気で気持ちを伝えれば、リヒト君はその気持ちを受け取ってくれるよ」っと聞こえてくるような気がした。

 玲瑠は両こぶしを強く握りしめ、グッと息を入れて顔を上げた。

 真水みたいに透き通るリヒトの瞳と目線がバチッと合う。

「あの! リヒト先生!」
「なんだい?」
「私、リヒト先生の引っ越し先についていってもいいですか?」
「……え?」

 リヒトの呼吸がピタリと止まり、困惑の色が顔に浮かぶ。

「引っ越し先についてきたいって……そういえば、俺の家に住みたいって言ってたな。申しわけないけど、それは無理な話だな。レイルちゃんの家庭はいろいろ複雑そうで家出したいだろうけど、俺がいなくてもしっかりやるんだよ」
「違うんです! ただの家出じゃないんです!」

 玲瑠は一呼吸置き、胸の奥で渦巻く一番大切な感情を、ゆっくりと、ゆっくりと、間違えないように紡いでいく――

「私、リヒト先生のことが……リヒト先生のことが……大好きなんです!」

 人生で初めての愛の告白。

 言い放った瞬間、心臓がバクバクと脈打ち、緊張の汗がTシャツの中で蒸れる。

 言えた……言ってしまった。
 もう後戻りできない。どうにかなってくれ。

「……え、好きって……ファンとしてだよな?」
「違います! ひとりの女性として、ひとりの男性のリヒト先生のことが大好きなんです!」

 リヒトは目を丸くして玲瑠を見つめ、つたない声で疑問を口にする。

「なんで、こんな俺のことなんか好きになったんだ……十歳以上も年が離れてる、こんなおじさんのことを……」
「私のことを救ってくれたからです! ずっと生きてる意味がわからなくて、現実から逃げてきた私を肯定してくれて、マステ絵を通して生き方を教えてくれた恩人だからです! そんな素敵な人、好きにならないわけがないじゃないですか!」

 視界が滲むのも構わず、玲瑠は必死に叫んだ。

「それに、私、高校を卒業したらリヒト先生に告白するつもりでしたし、リヒト先生に胸を張って告白するために、また勉強する気が起きたんです! だからお願いです! リヒト先生! 私とつき合ってください! 私、リヒト先生のことが大好きなんです! 世界一愛してるんです!」

 リヒトは黙り込み、複雑な感情を交差させたまま固まっていた。
 その沈黙の重さに耐えかねて、玲瑠は畳みかける。

「リヒト先生におつき合いしている女性がいるんだったら……あきらめたくないですけど、あきらめます! でも、もし誰もいないんだったら、お試しでもいいので私とつき合ってください! お願いします!」

 ありったけの熱意と恋心をぶつける玲瑠に、リヒトは少し間を置いてから、いつものやわらかい、それでいて疲れている微笑みを浮かべた。

「レイルちゃん、そこまで俺のことを思っててくれてありがとな。今まで生きていて、ここまで愛されたことなんてなかったから、とても嬉しかったよ」

 誠意がこもった感謝の言葉。
 しかし、声のトーン、目の微かな揺らぎから、玲瑠は嫌な予感を察した。
 求めていた返事がもらえない直感が胸を刺す。

「でも、俺はレイルちゃんみたいな素敵な女性に似合う男じゃないから、この話はあきらめてくれると嬉しいな」

 断られたショックが胸を抉る。でも、傷心に伏してここで引き下がるわけにはいかない。玲瑠は袖で涙を拭い、喰らいついた。

「逆です! 私みたいな女性が、リヒト先生のような素敵な男性には似合わないんだと思います! でも、これからしっかりとした大人になって、ちゃんと働いて、リヒト先生に似合う女性になるって約束するので、リヒト先生! つき合ってください!」
「いや……俺が似合わない男なんだ。こんなおじさんは……」

 リヒトはうつむいて自嘲気味に首を横に振り、寂しそうに語り続ける。

「少し失礼なことを言うとね、レイルちゃんは通信制の高校生で、周りに同学年の男の子がいないから、俺以外の男の子を知らないだけだと思うんだ。レイルちゃんがつき合うべき男性は、そっちの同世代の男の子たちだ。こんなおじさん、普通なら惚れるべき相手じゃないんだよ」
「その普通ってなんですか!」

 玲瑠の声が裏返った。

「リヒト先生、言ってくれましたよね! 世間が言う普通から外れてもいいって! 確かに私は同学年と恋愛するべきなのかもしれません。ですが、世間が言う普通から外れてもいいなら、十歳離れたリヒト先生とつき合ってもいいじゃないですか! それとも……本当は好きな女性がいて、嘘をついてるんですか!?」
「いや、嘘はついてない。本当に意中の女性はいないんだ。それと、世間の普通から外れてもいいって言ったけど」

 リヒトは静かに玲瑠の目を見つめ返した。

「レイルちゃんはこんな俺と違って、世間が言う普通のレールに戻って、それ以上、もうひと段階上の道を歩めると思うんだ。一時の気の迷いで、レイルちゃんがこんな俺なんかとつき合ったら、それこそレイルちゃんは普通の道に戻れなくなる」

 痛みを堪えるような顔で粛々と話し続ける。

「大丈夫。レイルちゃんはすごく素敵な女の子だから、これから人生を歩んでいく中で、きっと俺の比にならないぐらい立派な男性と出会える。俺はレイルちゃんがその素敵な男性と出会って、レイルちゃんに幸せになってほしいって思ってるんだ。だから、俺なんかとつき合わないほうがいいよ」
「リヒト先生以上の素敵な男性が、この世界にいるわけないじゃないですか! 私にはリヒト先生しかいないんです!」
「それはレイルちゃんが、これから出会う素敵な男性のことを知らないだけだ」
「知りたいとも思いません!」
「知ったら素敵だって思うよ。だって俺は……社会から逃げ出して、うつ病になって、これから人生の上がり目もなくて、低収入で……レイルちゃんなら知ってると思うけど、俺は俗に言う弱者男性っていうヤツなんだ。こんな弱者男性とレイルちゃんをつき合わせることなんて、この俺が許さない」

 弱者男性。

 昨今、SNSで日常的にタイムラインに流れてくる、差別にも等しい冷ややかで残酷な意味を持つ言葉だ。
 
 いい大人になってもまともな職にも就けず、年収も低く、社会的地位もなく、異性からも選ばれないまま社会の隅っこで燻っている男性たち。

 心無いネットの住人たちによって負け組とラベリングされ、あざ笑われ、無価値な存在としてサンドバッグにされている。

 リヒトはまさにその条件に当てはまってしまうのかもしれない。

 でも、玲瑠はそんなラベルなんてどうでもよかった。玲瑠自身もネットの冷たい言葉「不登校」「失敗作」「社会不適合者」っと投げかけられてきたからだ。

 リヒトに貼られている弱者男性というレッテルなんてどうでもよかった。

「弱者男性って言われてるからってなんですか! リヒト先生にはその言葉を上書きするような、素敵なものをたくさん持っています! 私はそのリヒト先生の人間性に惹かれたんです! リヒト先生は人生をやり直して、まだまだ逆転できます! もっと自信を持ってください!」
「ありがとな、そこまで慰めてくれて。でも……レイルちゃんはまだ高校生で、社会の現実が見えてないんだ。マステ絵みたいに、売れ残った人間は、そう簡単に逆転なんてできないものなんだよ」

 売れ残り――その言葉が、玲瑠の感情を激しく爆発させた。

「リヒト先生は売れ残りなんかじゃありません!!」

 静かなアトリエに、玲瑠の破裂するような叫び声が反響した。

「なんでそんな悲しいこと言うんですか? 私にとってリヒト先生は、全部のマステ絵にも使いたいって思ってる、カッコいい柄のマスキングテープなんですよ!」

 溢れ出る大粒の涙が、頬を伝って床へとポタポタと落ちていく。

「リヒト先生は、誰からも必要とされなかったマスキングテープを救ってくれて……生きるのがつらいって思ってた私を慰めてくれて……人の痛みがよくわかる世界で一番優しい人なんです。その人は、私が一生を捧げてもいいって思った、愛する大切な人なんです! そんな私が大切に思ってる人のことを売れ残り なんて言うのはやめてくださいよ!」
「…………」

 リヒトは言葉を失い、黙り込んだ。目元には、薄っすらと涙が浮かんでいる。

 必死の叫びが届いたのか。その反応を見て、リヒトの心が動いて、主張を受け入れてくれたんじゃないかという期待が芽生えた。

 ワクワクした面持ちで、口を開くリヒトを見つめる。

「俺のこと、売れ残りじゃないって言ってくれてありがとな。本当はレイルちゃんの責任にしたくなくて全部俺の責任にしてたけど、レイルちゃんはあきらめてくれないみたいだから、少し残酷な現実を言うね。レイルちゃんは傷ついちゃうかもしれないけど」

 しかし次の瞬間、リヒトの口から漏れたのは、今まで一度も聞いたことのない冷ややかな声だった。

 玲瑠の全身の毛根が逆立つ。

「インターネットで知識を得てる賢いレイルちゃんなら知ってるかもしれないけど……家庭環境に問題がある女の子、特に父親がいない女の子は、学校の先生や俺みたいな他人の男性に父親的な役割を求めるんだ。たぶん、レイルちゃんは俺に父親の役割を求めて甘えてるだけで、愛するっていう意味で俺のことを好きじゃないと思うんだ」 

 リヒトの言葉が、氷の針となって耳から脳髄へと突き刺さった。

 読み漁った心理学コラムやまとめ記事の文言が、嫌なリアリティを持って脳裏に蘇った。

『機能不全家庭で育ち、愛情を知らずに育った少女は無意識のうちに無条件に愛してくれる安心感を求め、年上の男性を期待してしまう』
『愛着障害による弊害で、安心感を恋愛感情だと錯覚してしまう』
『愛情を確かめるために、相手を困らせて見捨てられないか試す行動に出ることがある』

(そうだ……私、リヒト先生に引っついてた)

 リヒトと出会って十日後ぐらいだったか。リヒトのカーディガンを掴んだり、隣同士座ったら腕に体を預けたり、リヒトを慰めたときは頭をやさしく抱きしめたりしてした。

 そして、リヒトの困った顔を見ていたとき、この上ない安心感と優越感を覚えていたのは確かだ。

 これは、困らせる行動を取って相手の気を引き、見捨てずに受け入れてくれるか、の愛情を試す行動だったのかもしれない。

 愛着障害に囚われた先人たちの言葉や、心理学者たちの分析が、冷酷な現実となって玲瑠に牙を剥く。

(違う違う違う違う違う違う違う違うっ!)

 玲瑠は心の中で激しく頭を振り、洗脳を振り払う。

 どこの馬の骨かも知らない人に、この乙女心を探られたくない。

 隣にいるだけで心臓が破裂しそうになる鼓動。ふれていたいと願う切なさ。他の誰にも渡したくないという激しい独占欲。これらが、父親に対して安心感を求める子供の感情なわけがない。

 リヒトをひとりの男性として愛していると、胸を張って言えるはずだ。

「違います! リヒト先生!」

 玲瑠は泣きじゃくりながら一歩前に踏み出し、リヒトへと詰め寄った。

「そんなのネットの戯言です! 私はリヒト先生に父親の役割なんて求めてません! ひとりの男性としてのリヒト先生が好きなんです! リヒト先生のやさしさが好きで、リヒト先生の描く絵が好きで、リヒト先生の笑顔が好きで……リヒト先生の全部が好きなんです! だから、そんな他人の分析で私の気持ちを偽物みたいに言わないでくださいっ!」

 涙と鼻水で顔をグチャグチャに濡らしながら必死に叫び、すがりつくようにリヒトの服の袖を掴もうとした。

 パンっ!

 甲高い音が響き、手がはじかれた。

 愛するリヒトから、暴力とも言えないような暴力を初めて振るわれた。

 リヒトは今までに見たことがない、鋭い視線で見下ろしている。衣琉華の感情をぶつけるようなムスッとした視線じゃない、怒っているという大人の仮面を被った視線だ。

 玲瑠の頭が真っ白になった。
 同時に、大好きな人に心底嫌われてしまったかもしれない恐怖が全身を支配した。

「わかった。俺のことをひとりの男性として見てるなら、俺もレイルちゃんのことをひとりの女性として接するよ。ただこれは大人として扱うって意味だから、すごく残酷なことだからな」

 空気が氷結した。
 真剣で、重く、逃げ場のない圧迫感を孕んだ声色だ。

「俺はひとりの男性としてレイルちゃんとつき合いたくないって言ってるんだ。俺のことが好きなら、大人として俺の気持ちを汲み取ってくれないか? 子供じみたワガママにはつき合ってられないんだ」

 ――俺の気持ちを汲み取ってくれないか――

 その言葉が、玲瑠の頭を強く殴りつけた。

 玲瑠は自己中心的で攻撃的な衣琉華に育てられ、気持ちを一度も汲み取ってもらえず、物心ついてから傷つきながら過ごしてきた。

 それなのに今、愛するリヒトに対して、相手の拒絶の気持ちを無視し、自分の感情だけを押しつけていた。

(ああ、結局私はあの人の血を引いた人間なんだ……)

 毒親と同じ束縛を、愛する人にしてしまった強烈な自責と後悔が容赦なく襲いかかってくる。

「これ以上俺に交際を迫るなら、俺の絵にアンチコメントをしてくるアンチと同等に扱うからな」

 アンチと同等に扱うという警告に、己の存在そのものを全否定されたかのような重い衝撃が走り、心が粉々に砕け散った。

「レイルちゃん、今まで散々甘やかしてたけど俺も大人だから言うよ、レイルちゃんのためにも。世の中はレイルちゃん中心に動いているわけじゃないんだ。俺にも俺の都合があって、みんな折り合いをつけながらこの世の中は動いてるんだ」

 リヒトは冷ややかだった目元をさらに鋭くし、言葉の刃を容赦なく玲瑠に突きつけた。

「これからの人生、自分の思い通りに動かない時間のほうが圧倒的に増える。その理不尽な時間を過ごす中でレイルちゃんが潰れないように、俺は今ここでレイルちゃんを突き放しておく。レイルちゃん、俺はレイルちゃんとつき合えない」

 これ以上思い通りに動かない理不尽な時間を過ごせと残酷なことを言うのか……っと反論したくなる。でも、言い返せるような雰囲気じゃなかった。

 いや、言い返す気は徐々に失せていった。

 衣琉華みたいに感情をまき散らすストレス発散の叫びじゃない、ひとりの大人としての順を追った論理的な説教。

 それは、ただ優しかったリヒトが、初めて玲瑠に見せた、いわゆる境界線というものだ。

 他人の主張に納得して、言葉が胸にスッと落ちていく。

「ゴメンなさいリヒト先生……リヒト先生の気持ちのこと、全然考えられなくて」

 うつむいてぽろぽろと涙を流しながら頭を下げる玲瑠。
 その玲瑠を見て、リヒトは小さく息を吐き出していつものやわらかい表情に戻った。

「謝れて偉いよ、レイルちゃん。俺も強く言って悪かった。そして俺もレイルちゃんに謝らないといけない。俺が甲斐性なしだから、レイルちゃんの気持ちに応えられなくて……ホントにすまない」
「いや、リヒト先生は悪くないです。リヒト先生が嫌がってるのに、迫った私が悪いです」

 互いに謝罪を終えたふたりの間に、重く妙な空気が漂う。
 どちらからも声をかけられない状態だ。

 この空気の中、玲瑠は考える。

 恋人にはなれなかった。振られてしまった。
 でも、このまま終わってしまえば、もう二度とリヒトの温もりにふれることはできない。
 玲瑠は濡れた目を固く閉じ、悔いが残らないよう、一息入れて最後のお願いを紡いだ。

「あの……リヒト先生」
「なんだ?」
「もし嫌だったら、断ってくれていいんですけど……」

 両手を胸の前で強く握りしめる。

「お別れの前に……今晩、お泊りしてもいいですか?」
「えっ……それは……」
「愛した人と一緒に寝ながらお話したいんです。それだけで十分なので、お願いします。明日からは大人になるので、最後の最後に子供の玲瑠のお願いを聞いてくれませんか?」

 リヒトはしばらく眉をひそめて迷っていたが、やがてあきらめたように微笑んだ。

「わかったよ。レイルちゃんにはいろいろお世話になったから……レイルちゃんがいなかったら、これからの俺はなかったと思うから……そのお礼に、最後にレイルちゃんのお願い事を叶えてあげるよ」
「はいっ! ありがとうございますっ!」
「ただし、一線を越えることは絶対にしないからな! もしそっちから迫ってきたら、その時点で追い出すからな」
「わかってますっ! ホントに、最後の最後にありがとうございます!」

 ささやかで小さな願い事だけど、初めて玲瑠自身の手で掴んだ願いかもしれない。

 未熟な片思いの果てに、初めて愛したリヒトとの最初で最後の夜をこれからようやく迎えられる。