リヒトがコンテストに応募する作品を描き始めてから、五日目の午後。
秋のやわらかな日差しが注ぐ店内で、今日も玲瑠は店番をしながら課題をこなしていた。
ふと、店内と事務所を仕切る長い暖簾がふわりと大きく揺れて、玲瑠は振り返る。
リヒトが店の奥から現れた。目元に薄いクマを作り、まぶたがとろーんととろけ、疲労困憊の顔をしていた。でも、その表情にはどこか晴れ晴れとした嬉しさが潜んでいるような気がした。
「レイルちゃん。コンテストに応募する絵が完成したよ」
「え……!? ホントですか!?」
玲瑠はシャープペンをノートに投げ捨て、軽い身のこなしでアトリエへと入っていった。
「わあっ! すごーいっ!」
作業机に鎮座していたのは、神聖な輝きを放つ国宝級の作品だった。
A2サイズの大きなキャンバスに描かれているのは、絢爛豪華な青色のプリンセスドレスを纏ったひとりの少女。
ドレスは何枚もの青色の柄を重ね、ボーダー柄に仕上げている。そのドレスの上に被せられているレースは、一種類の柄だけで表現されているとは思えないぐらい、布の動き、陰までも微細に表現されている。レース模様も、柄を活かせるギリギリの細かさまで綿密に切られていた。
全体的にシャープネスでカッコいいデザインだ。
そしてなにより圧巻なのは、少女の背中からバサッとダイナミックに広がっている翼だった。
燃えるような多様な赤色が幾重にも重なり、まるで竜の翼のような力強さを放っている。
静の青色と動の赤色。そのふたつの色がぶつかり合わず、見事に噛み合って一枚の美しい作品に仕上がっていた。
全体的な印象は、ファンタジーな世界で魔法を扱って戦う、翼が生えたお姫様のようなキャラクターだ。
「すっ、すごいです! 売れ残りのマステって言われないと、絶対にわからない最高の作品です!」
口から漏れ出たのは、心からの純粋な感動だった。
「ありがとな。玲瑠ちゃんが一生懸命配色を考えてくれたおかげで、俺史上最高の作品になったよ」
リヒトは頬を緩め、口角をふわりと上げる。
玲瑠もつられるように笑顔がこぼれた。
愛するリヒトの力になれたこと、リヒトが笑顔になってくれたこと。玲瑠にとって、この上ない一番の喜びだ。
「私が選んだ柄も使ってくれてありがとうございます。いい感じにお姫様を引き立てるフレームになってますね!」
玲瑠が絵の外枠を飾っているマスキングテープを指差すと、リヒトは満足そうにうなずいた。
「レイルちゃんが選んでくれた柄が最高のアクセントになったよ。選んでくれてありがとな」
打ち合わせの段階では「使いづらい」っと言っていた派手なデザインのマステ。でも、そんな不安を吹き飛ばすほど完璧に使われていた。
カラフルなビンが並べられたマスキングテープは、作品の主役を邪魔することなく、ファンタジーな世界観に見事に溶け込んでいる。
玲瑠はトートバッグからスマートフォンを取り出す。ふたりでアイデアを出し合って描き上げた最高の一枚を、二度と訪れない美しい青春の一ページとしてカシャカシャと何枚も写真に収めていく。また、自身の網膜というフィルムにもしっかりと作品を焼きつける。
リヒトも自身のカメラでSNSにアップロードする用の写真の撮影を終えると、完成した絵を慎重な手つきで大きなプチプチの緩衝材で包み、セロハンテープで留めていく。平たく頑丈な絵画専用のダンボールへ、生まれたての赤子を扱うかのように、指先まで心を込めて大切に納める。
ダンボールに包まれ、ガムテープでしっかりと封をされた力作に向かって、ふたりは祈るように手を合わせて声をそろえた。
「「最優秀賞を取れますように」」
ふたりの努力が凝縮された切なる祈り。
「おばあちゃん、ちょっと郵便局に行ってくる」
「おばあちゃん、行ってきまーす!」
奥の居間へ向かって明るく声をかけた。
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけてね」
明紀のいつもの穏やかな声が返ってくる。その優しい声に背中を押され、ふたりは秋晴れの街へと繰り出した。
ピクニックにでも行くような足取りで見慣れた街並みを進んでいき、近所の郵便局に到着。窓口で発送手続きを終え、リヒトが受領書を受け取った。
(どうか壊れずに、無事に審査員さんの元へ届きますように……)
レジ奥の配送用ボックスに入れられる作品を見届ける。
郵便局をあとにすると、まだ高い位置にある太陽がふたりを明るく祝福していた。
大きな仕事をやり遂げたという胸いっぱいの解放感と、心地よい疲労感が、玲瑠とリヒトの心を満たしている。
「よし! それじゃあ作品を無事に描き終えた記念に、ケーキでも買って帰るか」
「はいっ!」
魅力的な提案に心をはずませ、帰り道の途中にある小さな洋菓子店に立ち寄った。
店に入ると、甘いカスタードと甘酸っぱい苺の香りが鼻腔をくすぐる。
ガラスのショーケースに並ぶ色鮮やかなケーキを覗き込みながら楽しそうに悩む。
「おばあちゃんには、抹茶ケーキでいいよな」
「ですね! リヒト先生はどれにしますか?」
「俺はショコラケーキにしようかな。レイルちゃんは?」
「私はミルクレープにします!」
リヒトが会計を済ませ、玲瑠は三つのケーキが収まった小さな紙箱を受け取る。ふたりは次になんの絵を描こうか会話をはずませて涼水文房具店へと戻った。
「ただいま~」
「ただいまー! おばあちゃん、ケーキ買ってきましたよー!」
元気よく店に入る。
「……?」
「……?」
違和感があった。
いつもならすぐに返ってくる「おかえりなさい」っという、明紀の声が返ってこない。
「鍵もかけずにどこかに出かけたのか?」
リヒトが少し首をかしげながらカウンターの脇を抜けて、暖簾をくぐる。
玲瑠もリヒトのあとに続き、暖簾をくぐって店の裏へと足を踏み入れた。
前を歩いていたリヒトの足がピタリと止まる。
玲瑠はリヒトの背中に顔をぶつけそうになり、慌ててブレーキをかけて立ち止まった。
「……え?」
聞いたこともない、リヒトの引きつった戸惑いの声。
胸騒ぎを覚えながら、リヒトの固まった視線の先、二階へと続く階段の下を恐る恐る覗き込んだ――
「ひっ――」
急こう配の階段の下に、明紀が力なく崩れ落ちるようにして横たわっていた。
玲瑠の手から力が抜け、ケーキの箱が床へ落ちる。
「おばあちゃん! しっかりしろ!」
リヒトは即座に駆け寄ると、床に倒れた明紀の前で膝をついた。
「おばあちゃん! 俺の声が聞こえるか!? おばあちゃん! 返事をしてくれ!」
何度も必死に声を張り上げ、激しく震える手で明紀の肩をゆさぶっている。
しかし、明紀のまぶたは固く閉じられたままで、呼びかけに応じる気配は一切なかった。
「嘘……そんな……っ、おばあちゃん……!」
玲瑠はその場に氷づいたように立ちすくんだ。
視界がグラグラと大きく歪み、頭の中が真っ白に染まっていく。
ほんの数十分前まで「いってらっしゃい。気をつけてね」っと、ほんわかとした声で送ってくれた明紀の意識がない。
昨日、傷だらけの人生を丸ごと抱きしめてくれた、太陽のようなおばあちゃんが、なんでこんな所で冷たくなっているのか、理解が追いつかない。
リヒトはポケットからスマートフォンを取り出し、激しく指先を震わせながら画面を操作し、耳元に当てる。
「すみません、救急です! 人が倒れて意識がありません! 場所は……」
焦燥と絶望に満ちたリヒトの叫び声が、古い家屋に虚しく跳ね返る。
(どうして……なんで……? さっきまであんなに元気だったのに……っ)
玲瑠の視界が、ポロポロと溢れ出す大粒の涙で大きく滲んだ。
コンテストの作品が完成したという最高の秋の夕暮れは、一瞬にして真っ黒なペンキをぶちまけられた絶望へと塗り替えられてしまった。
*** 4 ***
ウーウーという耳をつんざくサイレンが閑静な住宅地の空気を切り裂き、回転する赤のランプが店内を不気味に染め上げていた。
駆けつけた救急隊員たちが店内になだれ込み、身動きひとつしない明紀を視認した瞬間、プロフェッショナルたちの顔色がサッと青ざめた。
救急隊員たちの雰囲気が固まっただけで、医学的な知識がない玲瑠のでも、事態がどれほど絶望的なのか理解できた。
動かない明紀は手際よくストレッチャーに移され、救急車に乗せられる。
リヒトは顔面蒼白のまま、救急隊員に促されるようにして救急車に乗り込んだ。
「……レイルちゃんもついてくるか?」
「……はい」
玲瑠も震える足でリヒトのあとに続いて救急車に初めて乗った。
ガタガタと激しく揺れる救急車の中。
明紀の口に酸素マスクがつけられ、電気ショックが与えられ、心臓マッサージも行われる。だけど、心臓マッサージが中断されるたびに、モニターの心拍数は「0」が表示され、心電図の波形は横一線に戻ってしまう。
ピーーーーっという無機質で残酷な音が流れ続けていた。
その時点でも絶望的な状況であることぐらい、頭では嫌というほどわかっていた。でも、玲瑠は動かない明紀のしわが刻まれた手をすがるようにギュっと握りしめた。
「おばあちゃん! お願い、目を開けて! おばあちゃん!」
喉がちぎれそうなほど必死に呼びかけても、握りしめている手は雪みたいに冷たく、固く閉じられたまぶたはピクリとも動かなかった。
「おばあちゃん……おばあちゃん……」
リヒトはただ「おばあちゃん」っと、壊れた機械のように繰り返し、座駅の上で体が二つ折りになるぐらいに大きくうつむいて、完全に生気を失っていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
到着した総合病院の待合室。白い壁に囲まれた静かな空間には、ツンと鼻を突く消毒液の匂いが満ちている。
明紀が集中治療室に入ってから、玲瑠とリヒトは一言も言葉を交わせないまま時間が過ぎていった。
数十分後、医者が治療室から出てきた。玲瑠とリヒトはバッと瞬時に立ち上がり、医者へ詰め寄った。
そして、医師の口から告げられたのは……残酷なまでに淡々とした「死亡確認」の言葉だった。
死因は、階段からの転落による頭部強打、および外傷性くも膜下出血。つまり、頭を強く打ちつけて脳の血管が破裂して死亡したそうだ。
横を見ると、リヒトはフラフラと後退し、長椅子にドサッと崩れ落ちた。
虚ろな瞳で天井の蛍光灯を見つめている。
そのリヒトの顔は、かつて父親に怒られたときの顔でもなければ、うつ病になった過去を語ったときの顔でもなかった。
魂が無辺世界へと飛んでいってしまったかのような、玲瑠が一度も見たことがない無の表情になっている。
玲瑠はそっとリヒトに歩み寄り、かすれた声をかけた。
「リヒト先生……大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
うわの空の返事。玲瑠を心配させないように絞り出した言葉とは裏腹に、声の温度は完全に冷え切っていた。
これ以上、どんな言葉をかけても届かないっと察せられるほど、漆黒の濃い霧がリヒトを包み込んでいる。
玲瑠はリヒトの隣に座り、翁な手を握ることぐらいしかできなかった。
しばらくすると、病院の廊下に慌ただしい足音が響き渡る。連絡を受けたリヒトの親族たちが駆けつけてきた。
「リヒト! お母さんは……お母さんは本当な!?」
「そんな……嘘でしょう……っ! この前はあんなに元気だったのに!」
親族たちが激しい涙を流し、抱き合って慟哭している。
その悲しみの輪の外で、玲瑠はポツンと立ち尽くすことしかできなかった。
明紀から人生のためになる無数の言葉をもらったけど、血のつながりもなければ、苗字も違う玲瑠は、この場所では部外者でしかなかった。
強烈な疎外感に耐えかね、玲瑠はリヒトに「もう帰ります」っと声をかけ、リヒトの返事を待つこともなく素早くその場を去り、病院の自動ドアを抜けた。
外はすでに夜になっている。月は厚い雲に隠れていた。
スマートフォンに表示する地図アプリを頼りに、見知らぬ夜の街路を歩き、病院の寄り駅にたどり着く。
利用者が多い駅なのか、ホームで電車を待つたくさんの乗客の視線が気になり、ここで泣き出すわけにはいかなかった。
なにか別のことを考えていなければ、今すぐ大粒の涙がこぼれてしまいそうだ。
気分転換と言えばスマートフォン。電源をつけ、無心でSNSアプリを開いた。
「……」
タイムラインに流れる情報をぼんやりと目で追っていると、暗いニュースばかりしか現れない。
だけど、大きなショックを受けている今の玲瑠は、悲しみから意識を逸らせるならどんな情報でもよかった。
やってきた電車に乗り、ガタゴトと揺られながらもSNSの海を泳ぎ続ける。
(あっ……これは)
何者かに運命の糸を引かれているのか、タイムリーな話題が連続で流れてきた。
(介護疲れ……暴れる認知症……胃ろうの苦しみ)
明紀は確か八十五歳だった。
日頃からSNSを見ていると、介護疲れによる悲痛な事件や、認知症を患った高齢者の家族のリアルな悲鳴、チューブにつながれてただ生き長らえさせられる老人の尊厳についての議論などが、幾度となく流れてくる。
同時に「ピンピンコロリで死ぬのが一番の幸せ」「周りに迷惑をかけずに逝くのが最高の大往生」っという価値観も無数に目にしてきた。
客観的な数多の意見にふれ、玲瑠も「自分が将来死ぬときは、誰にも迷惑をかけず、苦しまずに死にたいな」っという価値観を持っていた。
そして、明紀はベッドで寝たきりの生活を送ることもなく、介護する人たちの手を煩わせることもなく、つい数時間前まで元気に会話をして逝くことができたのだから、玲瑠の価値観からしてみれば理想の死に方だったかもしれない。
もし、明紀がまったく関係のない見知らぬお年寄りだったなら、「苦しまずに逝けて幸せな最期だったのかもしれませんね」っと、物知り顔で思っていたのかもしれない。
でも、第二の母親と言っても過言ではない、大切な人の死を前にして、ネットの合理的な人生観や励ましは、一滴たりとも慰めにならなかった。
そんなキレイ事の理屈で、この穴が空いたような心が割り切れるはずがない。
世間が決めた幸せな死に方の正解なんてどうでもよかった。
ただ今は、ありのままの玲瑠を受け入れてくれた、かけがえのない尊い人がこの世界から永遠にいなくなってしまった悲しみが、胸を痛くしめつけるだけだった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
操り人形のようにだらりとした足取りで自宅へ帰り着くと、案の定、酔っぱらった衣琉華がまたなにか叫んでいた。
「こんな時間までどこほっつき歩いていたの! あんたいい加減にしなさいよ! 次遅れたらもうご飯作らないからね!」っとピーピー雑音をわめいているが、心に傷を負っている玲瑠の耳にはまったく届かない。
無意識の言葉で衣琉華を適当にいなし、自室に入る。
崩れるようにベッドに倒れ込み、枕を強く抱きかかえて顔を埋めた。
その瞬間、こらえていた感情の堤防が一気に決壊した。
「うっ……うああああんっ! おばあちゃんっ! おばあちゃんっ!」
溢れ出す涙が止まらない。
涙と鼻水で枕を濡らしながら、声を上げてひたすら泣きじゃくった。
物心ついてから玲瑠の人生には、本当の愛情もなく、安心して息ができる場所もなかった。
幼い頃に両親は離婚し、頼れる味方でなければならない親の衣琉華は、常に攻撃的で自己中心的な敵だった。
愛される喜びも知らず、自分自身を愛する術も知らなかった玲瑠にとって、明紀は無条件に存在価値を与えてくれる、産みの親の代わりだった。
昨日、居間で明紀と交わしたやさしい声と言葉が、耳の奥で鮮明に何度も何度も蘇る。
あの温もりがもう二度と戻ってこない。
その絶望に胸を押し潰されながら、喉が潰れ、息ができなくなるまで、暗闇の中で一晩中泣き続けた。
秋のやわらかな日差しが注ぐ店内で、今日も玲瑠は店番をしながら課題をこなしていた。
ふと、店内と事務所を仕切る長い暖簾がふわりと大きく揺れて、玲瑠は振り返る。
リヒトが店の奥から現れた。目元に薄いクマを作り、まぶたがとろーんととろけ、疲労困憊の顔をしていた。でも、その表情にはどこか晴れ晴れとした嬉しさが潜んでいるような気がした。
「レイルちゃん。コンテストに応募する絵が完成したよ」
「え……!? ホントですか!?」
玲瑠はシャープペンをノートに投げ捨て、軽い身のこなしでアトリエへと入っていった。
「わあっ! すごーいっ!」
作業机に鎮座していたのは、神聖な輝きを放つ国宝級の作品だった。
A2サイズの大きなキャンバスに描かれているのは、絢爛豪華な青色のプリンセスドレスを纏ったひとりの少女。
ドレスは何枚もの青色の柄を重ね、ボーダー柄に仕上げている。そのドレスの上に被せられているレースは、一種類の柄だけで表現されているとは思えないぐらい、布の動き、陰までも微細に表現されている。レース模様も、柄を活かせるギリギリの細かさまで綿密に切られていた。
全体的にシャープネスでカッコいいデザインだ。
そしてなにより圧巻なのは、少女の背中からバサッとダイナミックに広がっている翼だった。
燃えるような多様な赤色が幾重にも重なり、まるで竜の翼のような力強さを放っている。
静の青色と動の赤色。そのふたつの色がぶつかり合わず、見事に噛み合って一枚の美しい作品に仕上がっていた。
全体的な印象は、ファンタジーな世界で魔法を扱って戦う、翼が生えたお姫様のようなキャラクターだ。
「すっ、すごいです! 売れ残りのマステって言われないと、絶対にわからない最高の作品です!」
口から漏れ出たのは、心からの純粋な感動だった。
「ありがとな。玲瑠ちゃんが一生懸命配色を考えてくれたおかげで、俺史上最高の作品になったよ」
リヒトは頬を緩め、口角をふわりと上げる。
玲瑠もつられるように笑顔がこぼれた。
愛するリヒトの力になれたこと、リヒトが笑顔になってくれたこと。玲瑠にとって、この上ない一番の喜びだ。
「私が選んだ柄も使ってくれてありがとうございます。いい感じにお姫様を引き立てるフレームになってますね!」
玲瑠が絵の外枠を飾っているマスキングテープを指差すと、リヒトは満足そうにうなずいた。
「レイルちゃんが選んでくれた柄が最高のアクセントになったよ。選んでくれてありがとな」
打ち合わせの段階では「使いづらい」っと言っていた派手なデザインのマステ。でも、そんな不安を吹き飛ばすほど完璧に使われていた。
カラフルなビンが並べられたマスキングテープは、作品の主役を邪魔することなく、ファンタジーな世界観に見事に溶け込んでいる。
玲瑠はトートバッグからスマートフォンを取り出す。ふたりでアイデアを出し合って描き上げた最高の一枚を、二度と訪れない美しい青春の一ページとしてカシャカシャと何枚も写真に収めていく。また、自身の網膜というフィルムにもしっかりと作品を焼きつける。
リヒトも自身のカメラでSNSにアップロードする用の写真の撮影を終えると、完成した絵を慎重な手つきで大きなプチプチの緩衝材で包み、セロハンテープで留めていく。平たく頑丈な絵画専用のダンボールへ、生まれたての赤子を扱うかのように、指先まで心を込めて大切に納める。
ダンボールに包まれ、ガムテープでしっかりと封をされた力作に向かって、ふたりは祈るように手を合わせて声をそろえた。
「「最優秀賞を取れますように」」
ふたりの努力が凝縮された切なる祈り。
「おばあちゃん、ちょっと郵便局に行ってくる」
「おばあちゃん、行ってきまーす!」
奥の居間へ向かって明るく声をかけた。
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけてね」
明紀のいつもの穏やかな声が返ってくる。その優しい声に背中を押され、ふたりは秋晴れの街へと繰り出した。
ピクニックにでも行くような足取りで見慣れた街並みを進んでいき、近所の郵便局に到着。窓口で発送手続きを終え、リヒトが受領書を受け取った。
(どうか壊れずに、無事に審査員さんの元へ届きますように……)
レジ奥の配送用ボックスに入れられる作品を見届ける。
郵便局をあとにすると、まだ高い位置にある太陽がふたりを明るく祝福していた。
大きな仕事をやり遂げたという胸いっぱいの解放感と、心地よい疲労感が、玲瑠とリヒトの心を満たしている。
「よし! それじゃあ作品を無事に描き終えた記念に、ケーキでも買って帰るか」
「はいっ!」
魅力的な提案に心をはずませ、帰り道の途中にある小さな洋菓子店に立ち寄った。
店に入ると、甘いカスタードと甘酸っぱい苺の香りが鼻腔をくすぐる。
ガラスのショーケースに並ぶ色鮮やかなケーキを覗き込みながら楽しそうに悩む。
「おばあちゃんには、抹茶ケーキでいいよな」
「ですね! リヒト先生はどれにしますか?」
「俺はショコラケーキにしようかな。レイルちゃんは?」
「私はミルクレープにします!」
リヒトが会計を済ませ、玲瑠は三つのケーキが収まった小さな紙箱を受け取る。ふたりは次になんの絵を描こうか会話をはずませて涼水文房具店へと戻った。
「ただいま~」
「ただいまー! おばあちゃん、ケーキ買ってきましたよー!」
元気よく店に入る。
「……?」
「……?」
違和感があった。
いつもならすぐに返ってくる「おかえりなさい」っという、明紀の声が返ってこない。
「鍵もかけずにどこかに出かけたのか?」
リヒトが少し首をかしげながらカウンターの脇を抜けて、暖簾をくぐる。
玲瑠もリヒトのあとに続き、暖簾をくぐって店の裏へと足を踏み入れた。
前を歩いていたリヒトの足がピタリと止まる。
玲瑠はリヒトの背中に顔をぶつけそうになり、慌ててブレーキをかけて立ち止まった。
「……え?」
聞いたこともない、リヒトの引きつった戸惑いの声。
胸騒ぎを覚えながら、リヒトの固まった視線の先、二階へと続く階段の下を恐る恐る覗き込んだ――
「ひっ――」
急こう配の階段の下に、明紀が力なく崩れ落ちるようにして横たわっていた。
玲瑠の手から力が抜け、ケーキの箱が床へ落ちる。
「おばあちゃん! しっかりしろ!」
リヒトは即座に駆け寄ると、床に倒れた明紀の前で膝をついた。
「おばあちゃん! 俺の声が聞こえるか!? おばあちゃん! 返事をしてくれ!」
何度も必死に声を張り上げ、激しく震える手で明紀の肩をゆさぶっている。
しかし、明紀のまぶたは固く閉じられたままで、呼びかけに応じる気配は一切なかった。
「嘘……そんな……っ、おばあちゃん……!」
玲瑠はその場に氷づいたように立ちすくんだ。
視界がグラグラと大きく歪み、頭の中が真っ白に染まっていく。
ほんの数十分前まで「いってらっしゃい。気をつけてね」っと、ほんわかとした声で送ってくれた明紀の意識がない。
昨日、傷だらけの人生を丸ごと抱きしめてくれた、太陽のようなおばあちゃんが、なんでこんな所で冷たくなっているのか、理解が追いつかない。
リヒトはポケットからスマートフォンを取り出し、激しく指先を震わせながら画面を操作し、耳元に当てる。
「すみません、救急です! 人が倒れて意識がありません! 場所は……」
焦燥と絶望に満ちたリヒトの叫び声が、古い家屋に虚しく跳ね返る。
(どうして……なんで……? さっきまであんなに元気だったのに……っ)
玲瑠の視界が、ポロポロと溢れ出す大粒の涙で大きく滲んだ。
コンテストの作品が完成したという最高の秋の夕暮れは、一瞬にして真っ黒なペンキをぶちまけられた絶望へと塗り替えられてしまった。
*** 4 ***
ウーウーという耳をつんざくサイレンが閑静な住宅地の空気を切り裂き、回転する赤のランプが店内を不気味に染め上げていた。
駆けつけた救急隊員たちが店内になだれ込み、身動きひとつしない明紀を視認した瞬間、プロフェッショナルたちの顔色がサッと青ざめた。
救急隊員たちの雰囲気が固まっただけで、医学的な知識がない玲瑠のでも、事態がどれほど絶望的なのか理解できた。
動かない明紀は手際よくストレッチャーに移され、救急車に乗せられる。
リヒトは顔面蒼白のまま、救急隊員に促されるようにして救急車に乗り込んだ。
「……レイルちゃんもついてくるか?」
「……はい」
玲瑠も震える足でリヒトのあとに続いて救急車に初めて乗った。
ガタガタと激しく揺れる救急車の中。
明紀の口に酸素マスクがつけられ、電気ショックが与えられ、心臓マッサージも行われる。だけど、心臓マッサージが中断されるたびに、モニターの心拍数は「0」が表示され、心電図の波形は横一線に戻ってしまう。
ピーーーーっという無機質で残酷な音が流れ続けていた。
その時点でも絶望的な状況であることぐらい、頭では嫌というほどわかっていた。でも、玲瑠は動かない明紀のしわが刻まれた手をすがるようにギュっと握りしめた。
「おばあちゃん! お願い、目を開けて! おばあちゃん!」
喉がちぎれそうなほど必死に呼びかけても、握りしめている手は雪みたいに冷たく、固く閉じられたまぶたはピクリとも動かなかった。
「おばあちゃん……おばあちゃん……」
リヒトはただ「おばあちゃん」っと、壊れた機械のように繰り返し、座駅の上で体が二つ折りになるぐらいに大きくうつむいて、完全に生気を失っていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
到着した総合病院の待合室。白い壁に囲まれた静かな空間には、ツンと鼻を突く消毒液の匂いが満ちている。
明紀が集中治療室に入ってから、玲瑠とリヒトは一言も言葉を交わせないまま時間が過ぎていった。
数十分後、医者が治療室から出てきた。玲瑠とリヒトはバッと瞬時に立ち上がり、医者へ詰め寄った。
そして、医師の口から告げられたのは……残酷なまでに淡々とした「死亡確認」の言葉だった。
死因は、階段からの転落による頭部強打、および外傷性くも膜下出血。つまり、頭を強く打ちつけて脳の血管が破裂して死亡したそうだ。
横を見ると、リヒトはフラフラと後退し、長椅子にドサッと崩れ落ちた。
虚ろな瞳で天井の蛍光灯を見つめている。
そのリヒトの顔は、かつて父親に怒られたときの顔でもなければ、うつ病になった過去を語ったときの顔でもなかった。
魂が無辺世界へと飛んでいってしまったかのような、玲瑠が一度も見たことがない無の表情になっている。
玲瑠はそっとリヒトに歩み寄り、かすれた声をかけた。
「リヒト先生……大丈夫ですか?」
「……ああ、大丈夫だ」
うわの空の返事。玲瑠を心配させないように絞り出した言葉とは裏腹に、声の温度は完全に冷え切っていた。
これ以上、どんな言葉をかけても届かないっと察せられるほど、漆黒の濃い霧がリヒトを包み込んでいる。
玲瑠はリヒトの隣に座り、翁な手を握ることぐらいしかできなかった。
しばらくすると、病院の廊下に慌ただしい足音が響き渡る。連絡を受けたリヒトの親族たちが駆けつけてきた。
「リヒト! お母さんは……お母さんは本当な!?」
「そんな……嘘でしょう……っ! この前はあんなに元気だったのに!」
親族たちが激しい涙を流し、抱き合って慟哭している。
その悲しみの輪の外で、玲瑠はポツンと立ち尽くすことしかできなかった。
明紀から人生のためになる無数の言葉をもらったけど、血のつながりもなければ、苗字も違う玲瑠は、この場所では部外者でしかなかった。
強烈な疎外感に耐えかね、玲瑠はリヒトに「もう帰ります」っと声をかけ、リヒトの返事を待つこともなく素早くその場を去り、病院の自動ドアを抜けた。
外はすでに夜になっている。月は厚い雲に隠れていた。
スマートフォンに表示する地図アプリを頼りに、見知らぬ夜の街路を歩き、病院の寄り駅にたどり着く。
利用者が多い駅なのか、ホームで電車を待つたくさんの乗客の視線が気になり、ここで泣き出すわけにはいかなかった。
なにか別のことを考えていなければ、今すぐ大粒の涙がこぼれてしまいそうだ。
気分転換と言えばスマートフォン。電源をつけ、無心でSNSアプリを開いた。
「……」
タイムラインに流れる情報をぼんやりと目で追っていると、暗いニュースばかりしか現れない。
だけど、大きなショックを受けている今の玲瑠は、悲しみから意識を逸らせるならどんな情報でもよかった。
やってきた電車に乗り、ガタゴトと揺られながらもSNSの海を泳ぎ続ける。
(あっ……これは)
何者かに運命の糸を引かれているのか、タイムリーな話題が連続で流れてきた。
(介護疲れ……暴れる認知症……胃ろうの苦しみ)
明紀は確か八十五歳だった。
日頃からSNSを見ていると、介護疲れによる悲痛な事件や、認知症を患った高齢者の家族のリアルな悲鳴、チューブにつながれてただ生き長らえさせられる老人の尊厳についての議論などが、幾度となく流れてくる。
同時に「ピンピンコロリで死ぬのが一番の幸せ」「周りに迷惑をかけずに逝くのが最高の大往生」っという価値観も無数に目にしてきた。
客観的な数多の意見にふれ、玲瑠も「自分が将来死ぬときは、誰にも迷惑をかけず、苦しまずに死にたいな」っという価値観を持っていた。
そして、明紀はベッドで寝たきりの生活を送ることもなく、介護する人たちの手を煩わせることもなく、つい数時間前まで元気に会話をして逝くことができたのだから、玲瑠の価値観からしてみれば理想の死に方だったかもしれない。
もし、明紀がまったく関係のない見知らぬお年寄りだったなら、「苦しまずに逝けて幸せな最期だったのかもしれませんね」っと、物知り顔で思っていたのかもしれない。
でも、第二の母親と言っても過言ではない、大切な人の死を前にして、ネットの合理的な人生観や励ましは、一滴たりとも慰めにならなかった。
そんなキレイ事の理屈で、この穴が空いたような心が割り切れるはずがない。
世間が決めた幸せな死に方の正解なんてどうでもよかった。
ただ今は、ありのままの玲瑠を受け入れてくれた、かけがえのない尊い人がこの世界から永遠にいなくなってしまった悲しみが、胸を痛くしめつけるだけだった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
操り人形のようにだらりとした足取りで自宅へ帰り着くと、案の定、酔っぱらった衣琉華がまたなにか叫んでいた。
「こんな時間までどこほっつき歩いていたの! あんたいい加減にしなさいよ! 次遅れたらもうご飯作らないからね!」っとピーピー雑音をわめいているが、心に傷を負っている玲瑠の耳にはまったく届かない。
無意識の言葉で衣琉華を適当にいなし、自室に入る。
崩れるようにベッドに倒れ込み、枕を強く抱きかかえて顔を埋めた。
その瞬間、こらえていた感情の堤防が一気に決壊した。
「うっ……うああああんっ! おばあちゃんっ! おばあちゃんっ!」
溢れ出す涙が止まらない。
涙と鼻水で枕を濡らしながら、声を上げてひたすら泣きじゃくった。
物心ついてから玲瑠の人生には、本当の愛情もなく、安心して息ができる場所もなかった。
幼い頃に両親は離婚し、頼れる味方でなければならない親の衣琉華は、常に攻撃的で自己中心的な敵だった。
愛される喜びも知らず、自分自身を愛する術も知らなかった玲瑠にとって、明紀は無条件に存在価値を与えてくれる、産みの親の代わりだった。
昨日、居間で明紀と交わしたやさしい声と言葉が、耳の奥で鮮明に何度も何度も蘇る。
あの温もりがもう二度と戻ってこない。
その絶望に胸を押し潰されながら、喉が潰れ、息ができなくなるまで、暗闇の中で一晩中泣き続けた。
