壊れてしまった私たちはマスキングテープで愛を描く

 人生の解答用紙をあらかじめ覗き込んでしまうことは、本当に正しいことなのだろうか。
 勉強なら解き方を知るために答えをチラ見するのもありかもしれない。だけど、人生の歩み方となると話は別だ。

 情報が過剰に溢れる現代社会。手のひらにすっぽり収まるスマートフォンを指先でなぞれば、誰もが羨むような人生の答えがいくつも転がっている。

(私には絶対無理だ……)

 無個性な十七歳の少女がその完璧な解答例を目にするたび、自分には絶対に手が届かない答えだと思って底なしの無気力感に溺れていく。

「はぁ……」

 そして恐ろしいことに、正解の裏にある絶望まみれの未来も無限に流れてくる。

 正解のモデルケースを見てはあきらめ、暗い未来を見ては落ち込む毎日。

 誰かの解答にふれるたび、なにが正しいのかわからなくなっていく。

(もう、面倒だな……生まれてこなければよかった……)

 そんな不毛なインターネットの世界に飲み込まれてしまった高校二年生の女子生徒、埠頭玲瑠(ふとう れいる)は、通信制高校のオンライン授業と課題を終えたところだった。

 もっとも、スマホのスピーカーから流れる授業内容なんて、一言も頭には残っていない。机に向かってペンを握り、真面目な生徒を演じ続けていたのは、母親からの小言を回避するためだ。
 
 意味のない時間を終えると……ここから玲瑠の本当の一日がスタートする。

 着古してヨレヨレになったグレーのスウェットを脱ぎ捨て、無地の白いTシャツと黒のミニスカートへと変身する。手持ちの数少ない服の中で、これが今できる最大限のオシャレだ。

 腰まで伸びる長い黒髪は、鏡の前に立ってコームを何度も通し、できる限りサラサラな状態へ整えていく。
 本当は人気インフルエンサーがSNSで紹介しているようなトレンドのコスメを使ってみたい。でも、スズメの涙程度のおこづかいではそんな余裕なんてない。

 パート勤めの母親が帰宅する前の夕暮れ時。玲瑠なりに身だしなみを万全にすると、トートバッグを肩にかけ、逃げるように息苦しいアパートを飛び出した。

 重厚な扉を開けて一歩外へと踏み出すと、夏の暑さをほのかに抱えた生ぬるい秋風が華奢な体を包み込む。

 築四十年を超える古びた木造アパートの外階段をタタッと降り、小学生の頃何回も歩いた通学路をひたすらに進んでいく。

 その道は、顔も名前も知らない土方のおじさんたちが遥か昔に敷いてくれたアスファルトの道だ。あちこちに裂け目のようなひび割れが走っている。
 時折、下水管が通っているマンホールのフタを踏んづける。
 赤錆が浮き出たガードレール。車道を横切る、白い塗装がハゲかけた横断歩道。夕暮れの街をぼんやりと照らし始める街路灯。茜色の空を細かく切り刻む、黒い電線。どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。

 当たり前にそこにある、ありふれた田舎の光景。
 最低限インフラが整ったこの日常風景も、一体いつまで見えるだろうか。

「東京に生まれたかったなぁ……」

 ぽつりと呟きながら、トートバッグからスマートフォンを引っ張り出した。

 中学生のとき、友達つき合いのために買ってもらい、通信制高校の授業を受けるために欠かせない、使い続けて四年経つ格安のスマートフォンだ。

 画面をオンにし、パスワードを解除すると……体に染みついた悪癖で、SNSアプリをタップしてしまう。

「はぁ~……」

 スクロールする指先の下で、見知らぬ誰かのきらめく人生が流れていく。

 生まれ持った才能を発揮し、華やかなスポットライトを浴びる芸能人やスポーツ選手の成功体験談。
「ただ好きなことを突き詰めただけだよ?」なんて無邪気に微笑む、可愛らしいインフルエンサーやゲーム配信者。
 玲瑠でも知っているような有名大学に入り、学歴アピールをする学生
 社会的なステータスを手に入れ、年収マウントを取るサラリーマン。
 子供たちと楽しそうに遊ぶ動画を上げる、ママさんの日常。
 嘘か本当かわからないけど、投資で莫大な富を得て早期リタイアを果たした人たち。

 そんな無数の人生の模範解答を見せられるたび、玲瑠は自分がいかに持たざる者であるかを思い知らされ、現実に打ちのめされていく。

 さらに、追撃をかけるように、SNSのタイムラインには負け組の現実も流れてくる。

『才能こそが全てであり、努力でその差は埋められない』っと断言する匿名のコラム。
『親の経済力で人生の九割が決まる』っと訴える、恵まれない環境で育った人たちの嘆き。
 田舎に住んでいる人は負け組だと見下し、住んでいる場所だけで勝ち誇っている都会育ちの若者。
『真面目に働くなんてバカがすること。生活保護をもらって生きるのが正解』っと、札束をちらつかせて、大炎上しているアカウント。

 さらに玲瑠の心を冷やしていくのは、他人の生き様だけじゃない。

 日本の人口減少や少子高齢化のグラフ。破綻寸前の年金や社会保障制度。ブラック企業が蔓延し、若者の間でメンタルを病む人が増え続ける現代社会。犯罪が増え、治安の悪化に泣いている人々。

 暗いニュースの数々だ。

 他にも、過激化したフェミニストによる男叩きのトレンドと、それに耐えかねて攻撃的な言葉を投げ返す男たちの泥沼な戦い。

 AIの急速な普及やデジタル教育の過渡期に振り回され、実験させられた不運な世代と冷笑する上の世代の心ない声。

 ほんの数分タイムラインをスクロールしただけで、こんなにも人生のネタバレを見せられてしまう

 見せられるたび、玲瑠の中で、この先に待っている未来には絶望しかない確信が深まっていく。

 どれだけ必死に汗を流して走ったところで、最後に行き着くのは先細りしていく不透明で不安定な将来だけ。

 これからさらなる過酷さを極めていく現代社会の中で、本物の幸せや愛を掴み取れるのは、最初から持つものを持って生まれてきた、ごく一部の強者だけ。

(あがくだけ無駄なんだよね……)

 中途半端に努力をしたところで、どうせ最後には社会に裏切られ、苦しんで死んでいく。ならば、最初から努力なんてしなくてもいい。無気力に生きて野垂死ねばいいと玲瑠は思っている。

 生きる意味はとっくに消え去っていた。

 そんな複雑に絡み合う悩みに打ちひしがれている玲瑠だが、中学生の途中までは人生を上手くやり過ごしてきた。

 酷いいじめに遭うこともなく、クラスでの立ち位置も悪くなかった。だけど、放課後におしゃべりするような深い絆を結べる友達もできなかった。

 定期テストの順位はいつも平均点より少し下。救いようがないぐらいに頭が悪いわけでもない。
 ただ、平均より少し下というポジションが、地頭の限界なのだと察した。

 そして中学一年生のある日。友達との交流のために買ってもらった一台のスマートフォンで世界を見渡した瞬間、玲瑠という無個性な存在がハッキリと負け組の位置に立っている現実を突きつけられた。

 ここから玲瑠の人生の歯車は狂い始めた……いや、最初から狂っていた歯車に気づいた。
 
 人生の不都合な真実を知ってからも、さらなる世界の真理を求めて、夜な夜な布団の中でネットの海を泳ぎ回る毎日。本心では見たくもないのに、見ると妙に気分が高揚してしまい、貴重な時間を削ってまで没頭してしまう。

 学校の勉強はさっぱりなのに、こうした世の中の暗黙のルールや裏のからくりだけはすんなりと理解できてしまう。

 そんな偏った賢さを、玲瑠はどこか苦々しく思っていた。

 そうして歩みを止めた玲瑠は、中学二年生の後半からぽつりぽつりと学校を休みがちになり、三年生に至っては一日も登校しなかった。

 これが不登校になった経緯だ。

 インターネットを見ていればわかる。不登校にも様々な事情がある中で、玲瑠の部類は学校へ通うのが面倒になっただけという、甘え切った部類だということを。
 同時に、学生の義務から逃げ出した人間の末路がどれほど惨めなものになるかも、掲示板やまとめ記事で学習済みだ。

 しかし、当時の玲瑠は「学校なんて行かなくてもいい」「自分らしく生きればいい」っというインフルエンサーの優しい言葉を都合よく真に受けて、現実逃避の道を選んでしまった。

 でも、この道を選んでよかったと今でも本気で思っている。

 中途半端に努力して裏切られるぐらいなら、最初から努力なんか一切しないで、報われない道を選んだ方が幸せになれなかった時に納得がつくし、精神的なダメージも最小限で済む。

 また今の時代、探せばセーフティネットなんていくらでもある。ひとりで細々と食いつないでいくだけなら、正社員になんかならずフリーターで適当にやり過ごせばいい。

 最悪……いざとなったら、女という立場を利用して、夜の街で性を売って稼ぐ選択肢だって存在する。その情報がインターネットにはゴロゴロ転がっている。

 逃げ道なんていくらでも用意されている。

 なら無駄な努力に時間とパワーを浪費するより、アニメに没頭したり、動画を巡ったり、SNSを眺めたりしている時間の方がずっと有意義だと、玲瑠は思っている。

 特に小さな画面の中で繰り広げられる短い動画をスクロールしている時間は、暗い現実から目を逸らし、なにも考えずに今を消費できる最高の娯楽だった。

 そんな色彩を失った毎日を送っていたある日のこと。

 玲瑠の止まっていた時間に、かすかな彩りを添えてくれる特別な出会いがあった。

 その場所に足を踏み入れてからというもの、玲瑠は十日間、毎日そこへ通い詰めている。

 目的地が近づき、スマートフォンをトートバッグに入れた。ルンルンっと足取りが軽くなっていく。

 自宅を脱出して数十分、玲瑠は目的の場所に到着し、足がピタッと止まった。

 昭和に建てられた、錆びついたトタンの壁に、瓦屋根の二階建ての家屋。

 一階部分の壁一面はガラス張りになっている。出入口の壁の上部には『涼水文房具』っと明朝体でデカデカと書かれた看板が掲げられている。

 十日前、シャープペンの芯が切れてしまい、コンビニへ行くことすら億劫に感じ、ここなら近いと思って立ち寄った文房具店。

 小学生の頃でさえ、一度も入ったことがなかった店だ。

 玲瑠は日焼けしていない細い手を伸ばし、ガラス戸を横に滑らせた。キュルキュルっと油が切れた車輪の音が夕暮れの空に響く。

 やさしい色が待っている場所へと、玲瑠は今日も逃げ込むように足を踏み入れた。