君のリスカの痛みを僕は知らない。

 別れ話をした日から、メッセージはまったく届かなくなった。当然のことだし、自分で望んだ結果なのに、何かが欠けたような気がする。でも、これも時間とともに薄れていく感情だと信じている。
 それにしても「住む世界が違う」は、思ってはいても、決して口にしてはいけない言葉だった。どんなに言い訳をしても、後悔の念が消えない。もっと別の言い方があったはずだ。絶対に反論できず、本人には否定できない原因だ。これを理由にされてしまっては、誰であろうが沈黙することしかできない。
「ったく、住む世界って、何だよ」
 無意識に口を衝く言葉に自嘲する。

 大人達に逆らわず、問題を起こさず、ほどほどに勉強をしてきた。口先で舐められないようにと悪ぶって、同級生の中でマウントを取ろうと頑張った。そんな良い子の僕と、留年した薫が一緒にいられるはずがない。これでも実力テストは学年でも30位以内に入っている。そこそこ優秀な生徒だと思う。だから、それなりの大学に進学し、地元の大企業か上場企業に就職する。高収入が約束され、それなりの立地の、そこそこの住宅を購入し、堅実な資産運用で老後資金を確保する。穏やかな老後を送り、安らかに生涯を終える。
 生活科学科ですら留年し、輩系の男と駅前のロータリーでつるんでたむろし、完全に校則を無視した茶色い頭髪で登校する。同じ学校でなければ、絶対に交わることもない別世界の人間だ。どこからどう見ても住む世界が違う。そんなことは、最初から分かっていたことだ。

 ―――――って、そんなはずがないだろ。
 こんなことは、ただの環境だ。人間性を考えれば、逆の意味で住む世界が違う。他人に対しては「俺」とか言っているけれど、1人のときの一人称は「僕」だ。中学校のときの国語教師が、僕はしもべ(・・・)という意味だから、誰かの奴隷でもない限りは俺か私を使えと言っていた。その言葉が頭に残っていて、それ以来ずっと外では俺を使っている。でも、本質は今でも僕だ。周囲の顔色を窺いながらも虚勢を張り、嘘を吐いているうちに、どこまでが本当なのか分からなくなった。自分勝手に告白し、自分のために別れ話を切り出した。そこで口にした言葉は、絶対に反論できないと分かっていた理由だった。本当に、僕は卑怯者だ。真っ直ぐに生きてきた薫とは、住む世界が違う。

 薫を傷付けてしまったことは間違いない。
 それでも、傷は浅かったと思っている。


 教室のいつもの席にから旧校舎を眺めていると、廊下を歩く薫がいた。クラスメイトになった派手な女子生徒に囲まれ、2年9組の教室に向かって歩いている。その集団を見詰めていると、不意に薫の顔がこちらに向いた。顔を背ける理由もないため、そのまま視線が交錯する。あれだけ強引に別れ話を切り出したのに、その表情から嫌悪感は見受けられなかった。
 でも、手を振ってくれることはない。当たり前のことだけれど、笑顔を見せてくれることもない。もう二度と、あの笑顔が向けられることがないと思うと、逃げ出したくせに胸が苦しくなる。


 薫から連絡がなくなって1週間余りが過ぎた頃、部活が終わって校門を出ようとしたところで派手な外見の女子生徒に囲まれた。人数は5人。見覚えがないことから、2年生だと推測する。2年9組だと分かれば、ここで待ち伏せされた理由も想像できた。だから、簡単に振り切ることもできたものの、おとなしく校舎の陰に連行されることにした。
 そこに薫の姿はない。おそらく、義憤というヤツだろう。
 中心人物らしき金髪の女子生徒が、腕組みをした状態で睨み付けてくる。

「オマエさあ、薫に自分から告ったんじゃねえのかよ。1週間で捨てやがって、どういうつもりなんだよ」
 分かれたことを追求されるよりも、付き合っていたことが知れ渡っていたことに焦る。短い期間とはいえ、毎日腕を組んで下校していれば噂になって当然ではある。
「ウチらを舐めてんのか?オマエがどういうつもりだったのか知らねえけど、薫はさガチだったんだよ」
 金髪の隣にいるシルバーメッシュの女子生徒が一歩前に出る。
「薫を泣かしやがって。1週間で別れるとか、何かのゲームじゃないだろうな?もしそうだったら、絶対に赦さねえぞ」
 ピンクのパーカーを羽織った女子生徒が、僕に指を突き付けて告げる。
「確かに薫は惚れっぽいけど、いつでもガチなんだ。いい加減な気持ちで近寄らないでくれるかな」
「ウチらは、もう、薫に泣いて欲しくないんだ。せっかく笑うようになっていたのに!!」
「―――――だからだ」

 周囲を取り囲まれ、四方から尋問される形になっている状態で口を開く。薫のクラスメイトで、少しでも仲が良い人であれが、仮に覚えのない罵詈雑言であっても気が済むまで言われ続けようと思っていた。きっちり自分が悪者になって、周囲も本人も溜飲が下がって前に進めるのであれば、それでいいと思っていた。実際、それだけのことをした自覚もある。
 それでも、あれから1週間以上が経ち冷静に考えられるようになると、気持ちの整理も、自分の感情も理解できるようになっている。だから、言わずにはいられなかった。

「何も考えずに付き合い始めたのは間違いない。だけど、一緒にいて薫の気持ちはよく分かった。簡単に受け入れたようでも、どれだけ本気なのか、どれだけ深い愛情を注ぎ込むのかも、ものすごく理解した。だからこそ、早く別れた方がいいと思ったんだよ」
 身動きできなくなるような濃密な思いから自由になろうとして、リスカの責任から逃れようとして別れ話をした。だけど、今は本当に、あれで良かったと思っている。
「俺には薫の思いが受け止められない。それなら、傷が浅いうちに別れた方がいいに決っている。それに、俺よりもっといい男がいるだろ。ソイツに任せた方が安心だし、大切にしてもらえるんじゃないのか?」
 人を好きになるという感覚が、本当の意味で理解できない。これから先、ずっと1人の女性と一緒にいるという覚悟ができない。自分の中での恋愛は、自分勝手で自己中心的なゲームでしかないのかも知れない。だから、一途にすべてを捧げる薫と僕は住む世界が違う。環境だはなく、容姿や学力ではなく、人間として吸っている空気が違う。僕は他人のことを考える術を知らない。

 取り囲んでいた女子生徒達が言葉に詰まる。
 僕が言っていることを理解したのだろう。それでも、このまま引き下がることもできないらしい。
「ツマんねえ男。オマエみたいな男が、薫の彼氏じゃなくて良かったよ」
「ホントはアンタがフラれたんじゃないの。薫は優しいから、フラれたことにしたんじゃない?」
「あーあ、こんな男のために待ってたなんて、バカみたいじゃん」
「もう、帰ろうよ。こんなヤツと話しをしても意味ないしさ」
「これから先、もう30メートル以内に近寄らないでよね、クズ男」
 まるで儀礼のように、1人ずつ捨てゼリフを吐いて女子生徒達は去って行った。

 深々とため息を吐く。
 こういうことも可能性として考えていた。最悪、あの男友達に呼び出されることも想定していた。そうなると、毎日逃げ回らなければならなくなる。そいう意味では、一番軽い復讐だったと言える。


 その翌日から、廊下を歩いている薫と目が合わなくなった。
 酷い別れ方をしたのだから、これが普通の状態ではある。その自覚があるだけに、それほど気にとめることもなかった。

 僕が本当の理由を知るのは少し先になる。