君のリスカの痛みを僕は知らない。

 一度住む世界が違うことを自覚してしまうと、もう後戻りはできなかった。ずっと、別れる理由を探してしまう。どんなに愛情を注がれようと、重圧にしかならない。自分の時間がとれないことに苛立ちを感じてしまう。それでも、薫が納得して、穏便に別れることができるストーリーが思い付かない限りは切り出すこともできない。表面上は穏やかな時間が流れている。距離を詰めようとする薫をいなし、一定の距離を保つ。それでも、中央玄関での待ち合わせは継続し、少しだけ返信を遅くしながらもメッセージのやり取りを続けている。お互いの身に何も起こさないように、着地点を模索する。

 でも、そんな都合が良い終わり方なんて存在しない。
 時間の経過とともに重くなる感情。追い詰められていることを理解していても、一緒の時間が積み上がっていく。校内に2人が付き合っているという噂が広がりつつある。
 一瞬だ。
 痛みも、罪悪感も、涙も。
 薫の感情をソフトランディングさせれば、そこで解放される。先に延ばせば、その時間だけ心の穴が大きくなる。だから、この選択は間違っていない。きっと、間違っていない。これでいいんだ。


 隣にいる薫は、いつもより少しだけおとなしい。
 いつものように流れる時間の中に異物が紛れ込む。
 穏やかな雰囲気を侵食するような言葉を挟み込む。
「―――――薫、ちょっと話があるんだ」
 他人の感情に敏感な薫は、ここ数日の微妙な変化に気付いていたのかも知れない。
「でね、そのときにさ、先生が―――――」
「薫、ちよっと話があるんだ」
「今日ね、3時間目の授業のときにね―――――」
「聞いて欲しい。話があるんだ」
 息を飲むのが分かった。
 数秒の沈黙のあと、薫が震える声で応えた。
「なに?」
 せっかく薫が話を聞く態勢になったのに、今度は僕の方が言葉に詰まる。
 短い間だったけど、お互いの感情が擦れ違っていたけれど、理解し合えていたいたとも言い難いけど、それでも、初めて話をしたときのことや、初めて一緒に下校したときのことや、一緒に行ったショッピングモールのことが目の前に浮かんで唇が震える。それでも、言わなければならない。今、このときに口にしなければ、どうにもならなくなってしまう。

 大きく息を吸い込み、ずっと考えていた別れの言葉を告げる。
「俺達さ、友達から始め直そう」
 卑怯なセリフ。
 都合の良い言葉。
 受け入れやすい選択肢。
 もしかしたら、共通の未来があるかも知れないと錯覚する。
「急ぎ過ぎた気がするんだ。お互いのことをよく知らないし、友達からやり直した方がいいと思うんだ」
 何だそれ。友達からやり直すって、普通に別れ話じゃないか。
「別に、これから一切関わらないようにしようとか、そんなことを言っているんじゃないんだ。何も変わらない」
 何も変わらないはずがない。これまでのような友達関係なんて、あるはずがないじゃないか。
「だから―――――」
「アタシと一緒にいるのが恥ずかしいの?」
 薫の声が震えている。
「アタシが留年しているから、一緒にいるのが恥ずかしいの?」
「そうじゃない」
「アタシが可愛くないから?」
「十分可愛いだろ」
「アタシがバカだから?」
「違う」
「アタシがリスカ女だから!?」
 息を飲み込んだ。すぐには言葉が見付からなくて、静寂が2人の間を埋める。何か言わなければならない。焦ってもフォローする言葉は簡単には見付からない。
「重い女だって、思ってるんだ。だから、だから―――――」
「違う」
「何が違うの!!」
 初めて耳にする薫の絶叫。
 悪いのは薫ではないのに、目に涙を溜めて自分を責める。
 そうじゃない。そんな表情をさせたい訳ではない。
 一瞬だ。痛みも、罪悪感も、涙も。そんな言い訳をしていた自分を殴りたい。
 薫は自分を追い詰める。他人を責める前に自分を責める。これだけは間違いない。そんなに薫のことを知らないけど、これだけは間違いない。薫は他人を責めない。詰らない。他人に対する怒りも、恨みもすべて自分を責める材料にする。それだけは、絶対にさせてはいけない。
 悪いのは、逃げ出す自分なのだから。
 だから、本当のことを口にして、本物の悪人が当たり前に罪を背負う。
「薫と俺は住む世界が違う」
 すべての関係が崩れる言葉。どんなに自分を責めようとしても、僕を怨む以外の選択肢を与えない。「住む世界が違う」とか、どんなに酷い理由なのかは、口にした自分が一番よく分かる。もし、自分が告げられたら、相手を殴り飛ばすかも知れない。
「一緒にはいられない。駅前にたむろしているヤツラの仲間にはなれない」
「で、でも、悪い人達じゃないから」
「無理だ。薫はヤツラと縁を切るなんてことはできない。それに、そんなことはして欲しくない。だから、一緒にはいられない」
 折れることはない。
 絶対に、今日、この場所で別れると決めてきた。
 最初から悪者だけど、今日の僕はラスボスだ。

 数秒、僕の目を見詰めた後、薫はいつもの指定席から立ち去った。
 最後まで、涙を溢すことはなかった。