君のリスカの痛みを僕は知らない。

 翌日も体育館が使えなかったため、学校の外周の1キロ余りを3週して終了した。外にはハンドボールのコートしかなく、ボールを使った練習ができないのだ、そもそも、屋外で使用するボールがない。
 今日も昨日と同様、部長はさっさと逃亡したため部室の戸締りして施錠して帰宅する。すると、今日も校門のすぐ傍にある中央玄関で薫が待っていた。薫は僕の姿を見付けると、柔らかい笑みを浮かべて駆け寄ってきた。そして、今日は雨が降っていないのに、左腕に絡み付いてくる。

「今日は雨が降っていないけど」
 自転車と一緒ではない薫を不思議に思って訊ねる。薫の自宅は学校から自転車で10分、徒歩だと25分ほどの場所だと聞いた。だから、いつもは黒いママチャリで通学をしているのだ。
「だって、自転車を押していたら、こうやって一緒に歩けないじゃん」
 こちらを見上げてはにかむ薫を直視できず、前を向いて歩き始めた。堂々と腕を組んで歩いている2人に視線が集中するが、今はそれを気にする余裕もない。いつもと違う雰囲気に何か気が付いたのか、それとも2人でいることに満足しているのか、いや、きっと後者に違いない。一緒にいることに安心して、頭を摺り寄せて満足そうに笑みを浮かべている。
 左腕が重い。
 どんどん重くなる。
 もう、左側から地面に埋まりそうだ。

 15分ほど会話もなく歩いていると、駅から続くバス通りに出た。この道を通るバスで通学しているが、さすがに「帰る」とは言い出せない。薫の足は昨日と同様、当然のようにショッピングモールに向かっている。2時間、いや、1時間は付き合おう。

「お、薫じゃん」
 不意に野太い声が聞こえた。声の主を確認すると、髪を真っ赤に染めた男が立っていた。一応着ている服は制服に見えないこともないが、原型を留めていない。普通に街で遭遇した場合、できる限り目を合わせたくない人種だ。
「おっす、最近見掛けなったけど、元気かよ」
 2人でいるときとは違う声音と口調で、薫が危険度が高い男にタメ口で返す。
「オメエが駅前に来ないんだろうが」
 男の視線が薫から逸れ、こちらに向けられる。
「誰、そいつ」
「アタシの彼氏」
 上から下まで舐めるように眺めたあと、男が口を開く。
「普通のヤツじゃん。まあ、良かったな」
 そう言われた薫は、空いている手の親指を立てた。
「じゃあ、彼氏も一緒でいいからよ、少しは駅前にも顔出せよ」
 男はそう言い残すと、手を挙げて駅方面に歩いて行った。

 完全に自分とは別世界のだった。
 思春期だからか、ケンカをしたこともないのに力を誇示したり、悪さ自慢をしたりもするが、それはあくまでも誇張だったり、嘘だったりする。ぶっちゃけ、子犬同士の可愛らしい威嚇で、お互いに甘噛みをしているだけだ。だけど、今の男は本物の悪(ワル)だった。だから、無駄に力を誇示する必要もない。薫が傍にいなくて今のように目が合っていたら、無造作に胸倉を掴まれていたに違いない。
 ふと横を向くと、薫が小首を傾げてこちらを見詰めていた。
「どうしたの?行こ」
「お、おう」
 つい数分前とは別人のような甘えた口調で、クイクイと腕を引っ張る。昨日までと何も変わらないのに、その笑顔が遠くなった気がした。


 もう、このときから、別れる理由を探し始めていた。
 無理だと思った。
 交友関係についていけないし、あんな界隈の人達に混ざることなんてできない。確かに、容姿だけを考えれば何の不満もない。何も考えず、何も考える必要がなく、ただ一緒にいるだけならば大丈夫だ。だけど、そんなに簡単ではない。我が校の普通科は、一応進学校としてこの周辺では名が通っている。実際、有名国立、私立大学の合格者を毎年何人も輩出している。県内の大学に限れば、大半の生徒が偏差値が上位の大学に進学する。そこそこの大学に進学して、それなりの大手企業に入社する、あるいは公務員になる。地元に残り、零細企業に就職したり、肉体労働をする者はほぼいない。職業に貴賎はない。本当にそう思っている。だけど、役割が違うとは思う。高校まで好き勝手に生活し、そのしわ寄せが大人になって降り掛かる。高校まで抑制的な生活を送り、それなりの大学に進学し、それなりに高収入の仕事に就く。どちらが正解で、どちらが不正解だとは言えないし、幸福とういう視点からすれば、どちらも正解かも知れない。

 でも、価値観が違う。
 見えているものが違う。
 住む世界が違う。
 そして、愛情が重い。
 生命を捧げるほどに、重い。
 保身のために逃げ道を探す。
 深入りされる前に。
 愛情が軽いうちに。
 早く、早く、と左腕に熱を感じながら考える。
 あらゆる意味での焦燥感。
 もう、作り笑いしかできない。
 聞き覚えのある曲を口ずさみながら、強く腕に巻き付いた薫が真っ直ぐに前を向いて歩く。
 薫の鼻歌は「 A Man I'll Never Be」。
 曲名が分かっても、聴いたことがあっても、歌詞は知らない。