君のリスカの痛みを僕は知らない。

 手首の傷跡を目にした瞬間、同時に2つのことが脳裏を過ぎった。

 誰のために、何のためにリストカットをしたのか。
 何があって、誰に何をされて死のうと思ったのか。
 単純に好きだっただけでは、死のうなんて思わないだろう。
 猛烈な嫉妬。
 何もかも委ねて、すべてを信じ切って、未来を夢見たからこそ、それを失って絶望したのだ。こんなことは、恋愛経験の乏しい自分にだって容易に想像ができる。そして、これが間違いではないと確信できる。誰かが、自分以外の誰かが、薫のすべてを手に入れ、これから先の未来を約束させた。
 その事実が苦しい。
 薫は信頼の証として自分の秘密を打ち明けたのだろう。でもそれは、自分にとって、男にとって、本当に残酷なことだ。薫が説明した通り、すべてに絶望し、少しずつ手首を血に染め、痛みに耐え、感覚が麻痺し、真っ暗な未来と一緒に自分の生命を切り捨てた。その思いを知って、そんな相手がいたことを知って、平気でいられるはずがない。裏切られた訳ではない。それでも、裏切られた気がする。

 そして、その思いが重過ぎる。
 たかが恋愛に生命を捧げる。
 それが分かった今、そんなに重い愛情を注ぐことが分かった今、周囲の酸素が薄くなって呼吸が苦しくなってくる。息ができない。苦しい。何気なく海に飛び込んだ瞬間、足が痙攣して水底に沈んでいくような感覚。天秤にお互いの愛情を乗せると、一瞬たりともバランスが取れず、勢い良く薫の方に引っ繰り返るに違いない。
 重い。
 殺人犯になってしまうかも知れない。
 これから先の人生を捧げるのであれば、これほど幸せなことはないだろう。だけど、自分にそんな覚悟はないし、何もかも捨ててもいいと思えるほどに好きになっている訳でもない。もっと軽く、「好きだよ」「私も好き」程度の関係で十分なんだ。一緒に登下校して、就寝前に少し話しができる。そんな感じの関係でいい。別れ話が出ても、何事もなく、リストカットなんかしないで、次の相手を探すくらいの彼氏彼女で満足なんだ。
 背負えない愛情を渡されても、その場で潰れてしまう。


 左腕に回された手に力がこもり、我に返った。
 左側に視線を向けると、薫が僕の顔を覗き込んで瞳を震わせていた。何か言わなければならない。本当のことを口にしてはいけない。できる限り柔らかい表現で、穏やかな口調で、優しい笑みを浮かべて、言葉を紡がなければならない。何度も頭の中で繰り返し、薫の左手を握り締めて言葉にする。失敗は許されない。

「大丈夫・・・もう二度と、こんなことはさせないから」

 僕は嘘吐きだ。

「大丈夫」
 そう言って、薫の頭を抱き締めた。


 価値観が違う。
 過ごしてきた環境が違う。
 想像と違う。
 違う人間なのだから、違うことは当たり前のことだ。でも、それが擦れ違い程度ではなく、明らかに見えている世界が違うのではないかと疑問を抱いてしまうと、それを嫉妬が視界を黒く染め、自分の無力さが交わらないことを自覚させる。一瞬で火は消える。違和感を覚えると、何もかもが違う気がしてくる。そんなことある訳がないというかも知れないけれど、あるんだよ。さっきまで抱き締めていた最愛の彼女が浮気をしていたことを知れは、優しく抱き締めていた腕で首を絞めることになるだろう。
 薫の頭を撫でながら、急速に興味を失っていく。
 つまらない男だと罵られても、自分を制御することなんかできない。だって、死を望ませた相手を超えることはできないじゃないか。腕の中に温もりを感じながら、急激に冷めていく気持ちを止めることができない。

 1つの歯車が狂ってしまうと、すべての感じ方が変わってしまう。
 今までは大量に届くメッセージを嬉しいと思っていたのに、数が多すぎる、鬱陶しいと感じ始める。少し遅れただけで、5つ以上のメッセージが届く。ずっと、着信を知らせる音が響く。煩しくで無音にしても、いちいちスマホの画面が点灯する。宿題をする時間がない。友達と連絡をする余裕がない。明日の部活はどうなるのか。体育館はいつまで使えないのか。朝の練習はどうなるのか。何も分からない。延々と届くメッセージが愛情表現だと思っていたし、今でもそうだと思うけれど、それを重圧だと感じ始める。息が詰まる。まだ3日目だからこうなのか、それとも、これかもずっとこうなのか。腕の傷跡を考えると、これからもずっと、これが続くのだろう。

 大きく息を吸い込み、一気に吐き出す。

 勝手だな、と思う。
 自分から告白しておきながら、自己紹介段階で顔を背けている。
 最低だな、と思う。
 他人に足を踏み入れる覚悟が足りない。支えるつもりもない。

>最近寝不足だから今日は早く寝るよ。薫も今日は早く寝ろよ。
>分かった。寂しいけど仕方ないね。おやすみ。
>うん、おやすみ。

 23時15分。今日最後のメッセージを送って脱力した。
 それから、ここ2日間チェックできなかった動画サイトを徘徊し、ソシャゲを周回して布団に潜り込んだ。スマホの時刻表示は1時を少し過ぎていた。