君のリスカの痛みを僕は知らない。

 翌日の部活は体育館が保守点検のため使用が禁止されたため、屋外でのランニングを始めとする体力作りになった。しかし、午後からまとまった雨になってしまい、最終的に「たまには休もう」ということに決った。部長である友達が真っ先に帰ったところを見ると、ここぞとばかりに彼女と過ごすのだろう。ジト目でヤツを眺めてはいるが、自分も部活がなくなったことは薫に連絡済みだ。リュックを背負い透明なビニール傘を手にすると中央玄関に急いだ。

 中央玄関は旧校舎にあり、ちょうど2年9組の真下になる。校舎の東側の階段を1階まで下りると、そこが中央玄関だ。屋根付きの渡り廊下を進み、1階の廊下を歩いて行くと待ち合わせの場所に到着する。まだ17時になっていないこともあり、何年生かは分からないが、周囲にはチラホラと生徒の姿もある。

「今日は早いから、いっぱい一緒にいられるね」
 不意に現れた薫が横に並び、顔を覗き込んで笑顔を見せる。思わず声を上げそうになるほど驚いたけれど、どうにか我慢して余裕たっぷりの笑顔を作って応える。
「―――だな。じゃあ、帰ろうか」
 自分の傘を右手に持ち、屋根があるギリギリの位置で傘を開く。すると、フワリと甘い香りが鼻腔をくすぐった。空いている左腕に、薫が自分の腕を巻き付けていたからだ。

 一瞬にして頭の中が真っ白になる。薫が閉じたままの傘を持っているということは、忘れてきたということはない。これはつまり、この状態のまま、1つの傘に2人で入って歩こうという意思表示だ。
 強く腕に絡んでいる薫を見下ろして考える。これまで、彼女がいた経験がない身からすれば、これが普通なのかどうか分からない。この状況で、腕を振り解くという行為がダメだということは、さすがに分かる。だからといって、この状態を周囲の生徒に見せ付ける訳にもいかない。自分がそれなりに目立つ存在であるという自覚があるため、明日には校内の噂になっていることが予想できる。次を考えている訳ではないけれど、せっかくある程度モテているのに、彼女ができたアピールをするのはもったいない気がする。フラれたときのことを考えると、フッたときのことを計算すると、彼女ができたアピールはマイナスでしかない。

「俺の傘65センチのヤツだからさ、一緒に入ったら濡れるぞ」
「いいよ、別に。どうせ、どんな傘に入っていたって、それなりに濡れるし」
 遠回しに離れるように促すが、薫は分かっているのかいないのか、腕に絡み付いて離れようとしない。
「いや、俺が気にするんだよ。薫が濡れたらイヤだし、それに」
「それに?」
「俺が濡れたくない」
「何それ!!」
 薫は眉を顰めた後、珍しく声を上げて笑った。
「いいよ、分かった」
 薫は僕の腕を放すと、自分が持っていた縁に白いレースが付いた黒い傘を開く。
「悠真は、シャイ・ガイだね」
 自分の傘を開いた薫に並ぶと、こちらに視線を向けて歩き始める。
「シャイ・ガイっていう有名な曲があるの。その歌詞を思い出して、その気持ちが分かったっていうか、ね。それで、アタシの相合傘を拒否したことを赦す気になったの」
 薫の言っていることは意味不明だったものの、何となく問題が解消されたため並んで歩く。互いの傘がぶつけながら、水溜りができた道をくだらない会話を続けながら進む。今日はバス停を越え、その向こう側にあるちょっとしたショッピングモールを目指した。


 ショッピングモールに到着すると、そこら中に同じ学校の生徒や帰宅途中の学生で溢れていた。雨を凌げる場所となると、どうしてもここになってしまう。他に施設がないこの辺りででは、仕方がないことだと言える。入口で細長いビニール袋に傘を突っ込み、再び腕に絡み付いてきた薫と一緒に中に入った。

「こっち」
 薫は定番のフードコートやゲームセンターには向かわず、グイグイと腕を引っ張って進んで行く。その先には2階へと続く階段があった。「何でこんな所に?」と思ったものの、階段の下にあたる目立たないスペースにクッション付きのベンチが見えた。
「この辺りには何もないから、誰も来ないんだよね」
 ベンチに座って周囲を見渡すと、コインロッカーも無ければ自動販売機すら設置されていない。わざわざ階段を使用しなくても、何箇所かにエスカレーターが設置されている。確かに、誰も用事がない場所だと思えた。どうしてこの場所を知っているのか、それを訊ねる勇気はなかった。

 薫が腕に絡み付いて体重を預けてくる。
 中央玄関よりも濃い香りが制服に染み込む。
 柔らかい感触と熱が左側から感じてくる。
 2人でいるということは表現できない安心感がある。
 このまま時間が止まればいいのに、と思う。
 無意識に右手で薫の左手を握った。
 温かさが増し、思わず抱き締めそうになる。
 大きく息を吸い込んだ。
 深呼吸、深呼吸。
 ふと、左手首に太いベルトの時計を着けていることが気になった。
 それは、どう見ても男物の腕時計だからだ。

 視線に気が付いたのか、薫が顔を上げて僕の目を覗き込んだ。
「いいよ、悠真になら見せてあげる」
 そう言って、薫は腕時計を外した。

 腕時計が外された場所を目にして言葉を失う。
 そこには無数の細い切り傷と、1つの深く長い傷跡があった。

「テレビドラマのように、1回では切れないんだよ。何度も切って、痛いからやめて、それでもまた切って、何度もトライして、自分で自分を追い詰めて、やっと最後に切れる。この細い傷跡はね、ためらい傷って言うんだって。そして、これが本気で切ったところ。でもね、リストカットなんて初めてなんだから、やり方なんて知らないじゃん。だから、簡単に助かっちゃった」

 自分の腕を見下ろして笑う薫に、僕は何も言えなかった。