秘密の関係、という訳でもないけれど、まだ周囲の人達に彼女ができたことは知らせていない。
教室の席に座り、旧校舎を眺めていると廊下を歩いている薫を見付けた。いつもなら真っ直ぐ向いてブレることのない視線が、3年3組がある校舎に向けられる。そして、少しだけ表情を崩し、こちらに向かって軽く手を振った
直ぐに振り返そうと思ったものの、ちょっと恥ずかしくて躊躇してしまう。やはり、振り返そうか。いや、そうは言っても、かなり恥ずかしい。今の薫と同じように、向こうからすれば僕に対してだけ手を振っているのかも知れないけれど、手を振った薫を目にしている者は1人ではないのだ。
「珍しい。薫が私に手を振ってくれるなんて」
頭上から声が聞こえたことに驚き、斜め上に視線を向けると、旧校舎を視界に捉えている佐藤の姿があった。佐藤は視線を落とし、こちらを見下ろしてニヤリと笑う。
「それとも、他の人に対して手を振ったのかなあ」
「うざ」
通り過ぎて行く後ろ姿を見送りながら、ウザ絡みをしていくる佐藤を一瞥する。よほどその態度が気に入らなかったのか、人差し指を立てると、指先で肩を突いてきた。指先にダイヤモンドでも付いているのか、やたらと痛い。
「わ・た・し・が、連絡先を教えたんだからね。スポドリくらいは奢ってもらわないよね」
佐藤の要求を聞き流し、背を向けて再び外を眺める。既に薫の姿は無く、始業直前の教室に駆け込む2年生のが見えるだけだった。
それからは、特に代わり映えもない時間が過ぎていった。
3年生の4月ともなれば受験の話題が増えてくるし、最後の大会に向けての目標なんてものも話し合う。学力はこれまでの積み重ねだから、少々頑張ったくらいで簡単に上がらない。当然、自分以外の高校3年生も勉強時間を降らしているのだ。それ以上の時間、机に向かわなければ差は埋まらない。それは、部活についても同じことが言える。大会直前になって練習時間を増やしたところで、強豪校との差が縮まることはない。逆に時間とともに離れていく一方だ。練習の量も質も、全く別次元なのだから。
こうしてみると、自分はなんて中途半端な存在なのだろうか、と思ってしまう。いや、自覚してしまうといったところだろうか。一応、地区の進学校ではあるが、本物進学校とは偏差値が10ほど低い。だからといって、県大会でベスト4が狙えるほどスポーツ強豪校でもない。ここは、結局のところ、上を目指す向上心が無く、努力する才能も持ち合わせてない、ある程度はできる者達の吹き溜まりなのかも知れない。
昼休憩、午後の授業と順調に消化していき、あっという間に放課後になった。あれ以降、薫とのコンタクトはなく、余りにもいつも通りであったため、彼女ができたことは妄想だったのではないかと思い始めていた。
最後の大会まであと2ヶ月を切った。さすがに、最後の大会だけあって練習にも熱が入った。毎大会1勝できるかどうかといったところであるが、最後くらいは2つ勝ちたいと思っている。それは、どこの学校も考えていることであるため、毎年6月に開催される大会のレベルが1年で最も高くなる。
学校に申請しても体育館の使用時間は18時30分までが最長だ。夜間は地区の住民に貸し出されているため、そこまでが限界なのだ。18時30分ちょうどに練習を終え、グランドを挟んだ反対側にあるクラブハウスに向かう。この学校の運動部の中で練習が厳しいと言われている部活のため、入部届けを提出した20人のうち、3年生まで在籍しているのは6人しかいない。3年生が部室を使い、1、2年生は更衣室を使う。不条理と言われようが、これが伝統になっている。だから、2年生は3年生に早く負けて欲しいと呪いをかけているのだ。
「明日の朝も早く来るだろ。これ、部室のカギ頼むわ。じゃあ、先に帰るわ」
同じ中学出身の部長が、素早く着替えて部室のカギを押し付けてくる。これから、2週間ほど前にできた彼女と帰るらしい。本来であれば部長管理のカギを渡され、いつものように嘆息する。
「了解。また明日な。さっさとフラれればいいのにな」
「残念。別れるとか、オマエが10連続でスリーポイント決めるくらい有り得ねえから」
金属製の扉がガシャンと音を立てて閉まり、広い部室の中で一人きりになった。
気にしたこともない静寂に空気が重くなった気がする。急に耳鳴りのような静けさに包まれ、何となく心が沈んでくる。手を動かすスピードを上げ、制服のズボンに足を突っ込んだ。そして、何が入っているのか自分でもよく分からない通学用のリュックを背負い、重い鉄の扉を開けて外に出た。
つい最近まで19時ともなれば暗いと感じていたが、春分の日が過ぎた頃から太陽が地平線で根性を見せるようになった。校門までの道のりを歩いている途中でも、まだ少しだけ明るさが残っている。
いつものように校門に辿り着いたとき、そこにいるはずのない人物が顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「いっしょに帰ろ」
どう返していいのか分からず、黙ったまま頷いた。
教室の席に座り、旧校舎を眺めていると廊下を歩いている薫を見付けた。いつもなら真っ直ぐ向いてブレることのない視線が、3年3組がある校舎に向けられる。そして、少しだけ表情を崩し、こちらに向かって軽く手を振った
直ぐに振り返そうと思ったものの、ちょっと恥ずかしくて躊躇してしまう。やはり、振り返そうか。いや、そうは言っても、かなり恥ずかしい。今の薫と同じように、向こうからすれば僕に対してだけ手を振っているのかも知れないけれど、手を振った薫を目にしている者は1人ではないのだ。
「珍しい。薫が私に手を振ってくれるなんて」
頭上から声が聞こえたことに驚き、斜め上に視線を向けると、旧校舎を視界に捉えている佐藤の姿があった。佐藤は視線を落とし、こちらを見下ろしてニヤリと笑う。
「それとも、他の人に対して手を振ったのかなあ」
「うざ」
通り過ぎて行く後ろ姿を見送りながら、ウザ絡みをしていくる佐藤を一瞥する。よほどその態度が気に入らなかったのか、人差し指を立てると、指先で肩を突いてきた。指先にダイヤモンドでも付いているのか、やたらと痛い。
「わ・た・し・が、連絡先を教えたんだからね。スポドリくらいは奢ってもらわないよね」
佐藤の要求を聞き流し、背を向けて再び外を眺める。既に薫の姿は無く、始業直前の教室に駆け込む2年生のが見えるだけだった。
それからは、特に代わり映えもない時間が過ぎていった。
3年生の4月ともなれば受験の話題が増えてくるし、最後の大会に向けての目標なんてものも話し合う。学力はこれまでの積み重ねだから、少々頑張ったくらいで簡単に上がらない。当然、自分以外の高校3年生も勉強時間を降らしているのだ。それ以上の時間、机に向かわなければ差は埋まらない。それは、部活についても同じことが言える。大会直前になって練習時間を増やしたところで、強豪校との差が縮まることはない。逆に時間とともに離れていく一方だ。練習の量も質も、全く別次元なのだから。
こうしてみると、自分はなんて中途半端な存在なのだろうか、と思ってしまう。いや、自覚してしまうといったところだろうか。一応、地区の進学校ではあるが、本物進学校とは偏差値が10ほど低い。だからといって、県大会でベスト4が狙えるほどスポーツ強豪校でもない。ここは、結局のところ、上を目指す向上心が無く、努力する才能も持ち合わせてない、ある程度はできる者達の吹き溜まりなのかも知れない。
昼休憩、午後の授業と順調に消化していき、あっという間に放課後になった。あれ以降、薫とのコンタクトはなく、余りにもいつも通りであったため、彼女ができたことは妄想だったのではないかと思い始めていた。
最後の大会まであと2ヶ月を切った。さすがに、最後の大会だけあって練習にも熱が入った。毎大会1勝できるかどうかといったところであるが、最後くらいは2つ勝ちたいと思っている。それは、どこの学校も考えていることであるため、毎年6月に開催される大会のレベルが1年で最も高くなる。
学校に申請しても体育館の使用時間は18時30分までが最長だ。夜間は地区の住民に貸し出されているため、そこまでが限界なのだ。18時30分ちょうどに練習を終え、グランドを挟んだ反対側にあるクラブハウスに向かう。この学校の運動部の中で練習が厳しいと言われている部活のため、入部届けを提出した20人のうち、3年生まで在籍しているのは6人しかいない。3年生が部室を使い、1、2年生は更衣室を使う。不条理と言われようが、これが伝統になっている。だから、2年生は3年生に早く負けて欲しいと呪いをかけているのだ。
「明日の朝も早く来るだろ。これ、部室のカギ頼むわ。じゃあ、先に帰るわ」
同じ中学出身の部長が、素早く着替えて部室のカギを押し付けてくる。これから、2週間ほど前にできた彼女と帰るらしい。本来であれば部長管理のカギを渡され、いつものように嘆息する。
「了解。また明日な。さっさとフラれればいいのにな」
「残念。別れるとか、オマエが10連続でスリーポイント決めるくらい有り得ねえから」
金属製の扉がガシャンと音を立てて閉まり、広い部室の中で一人きりになった。
気にしたこともない静寂に空気が重くなった気がする。急に耳鳴りのような静けさに包まれ、何となく心が沈んでくる。手を動かすスピードを上げ、制服のズボンに足を突っ込んだ。そして、何が入っているのか自分でもよく分からない通学用のリュックを背負い、重い鉄の扉を開けて外に出た。
つい最近まで19時ともなれば暗いと感じていたが、春分の日が過ぎた頃から太陽が地平線で根性を見せるようになった。校門までの道のりを歩いている途中でも、まだ少しだけ明るさが残っている。
いつものように校門に辿り着いたとき、そこにいるはずのない人物が顔を上げて満面の笑みを浮かべた。
「いっしょに帰ろ」
どう返していいのか分からず、黙ったまま頷いた。



