君のリスカの痛みを僕は知らない。

 確かに、ボールを追い掛けている間は何も考えずに済んだ。だけど、いつものように部室のカギを渡され、戸締りをして正面玄関を通り過ぎる頃にはため息が漏れた。バス通りまでの道を歩き始めると、20メートルほど先に同じ制服を着た男女が見えた。あの2人が恋人同士なのか、それとも、ただの同級生、あるいは先輩、後輩なのかは分からない。
 ああ、でも、距離感を考えると特別な関係にしか思えない。

 方向が同じなのか、前方を歩く2人は横道に逸れることもなく、ずっと同じ間隔で進んいる。少し歩くスピードは遅いが、距離を詰めるのも悪い気がして歩調を合わせてきた。バス通りに出ると2人が駅の方向に曲がり、ようやく解放されて反対方向のバス停に早足で向かう。バス停には同じような部活帰りの同級生や後輩が、順番待ちでならんでいる。全員が顔見知りであるが、特に会話をすることもなく最後尾に立った。
 時刻表通りにバスが到着するのであれば、もう道路の向こう側に姿が見えてもいい頃であるが、遅れているのか今日はまだ見えない。バスの代わりに、黒いママチャリで2人乗りをする薫と平田が通り過ぎた。「2人乗りは違反だぞ」とか、そんなことしか頭に浮かばない。それ以外のことを考えることを脳が、いや、心が拒否している。プリンではなくなった平田の髪が、2人で美容院に行ったことの証拠だ。

 2人が通り過ぎたあと、その向こう側にバスの四角い車体が見えた。


 車窓から薄暗くなり始めた景色を眺めているうちに、いつの間にか浮かんだ疑問を考えていた。
 教室にもバスケ部にも、学校にもショッピングモールにも、付き合っている男女がいる。それを見ていると思うんだ。誰かと恋人同士になるということは、お互いに相手が1番ということなのだろうか?自分が1番好きな相手が、自分を1番好きだというミラクルが、世界中で起きているということなのか。何度か告白をされたこともあるけれど、その度に断ってきた。相手のことが1番好きではなかったからだ。たとえ、自分が相手の1番であっても、相手が自分の1番でなければ恋人同士にはなれない。
 薫と平田も、お互いの1番なのだろうか。
 少なくとも、平田にとって薫が1番だとは思えない。
 薫にとっては、どうなのだろうか。

 あのとき、自分にとって薫は1番だった。入学当時から気にはなっていたけれど、気になる程度の存在でしかなかった。だけど、留年して2年生をもう一度しなければならなくなっても、1つ年下の同級生に囲まれても、周囲から心無い噂話を流されても、いつか見たままの姿勢で廊下を歩いていた。何かに怯えるでもなく、誰かに媚びるでもなく、自分が自分であることが当然のように振舞っていた。それが本当に眩しくて、僕の1番になった。

 器用貧乏という表現があるが、これほど自分にピッタリはまる言葉もない。
 幼い頃から、すぐに何でもできるようになった。そこそこ足が速かったから、運動会の徒競走はいつも1着だった。野球もサッカーも、少しやっただけで、ある程度できるようになった。だけど、圧倒的に上手くなる訳でもなく、何でもできるけれど、それなりにしかならなかった。徒競走も中学生になった頃には3着前後になった。勉強も特に猛勉強をしなくても、真ん中より上に入った。だけど、難関校に合格できるだけの学力には及ばなかった。
 できないことは何もないけれど、突出したものが何もない。だから、周囲の人達の顔色を窺うようになった。自慢できるものが何もない。それなりに、しかできない。何もかもが中途半端で、それだから、虚勢を張るようになった。嘘だらけだ。だから、内心ではいつも怯えている。学校にいるときの自分は、本当の自分ではないから。自分を守るためには、そうすることしかできなかった。けれど、ふと1人になって自分を振り返ったとき、自己嫌悪に陥った。これは、違う。自分ではない。
 だから、堂々と廊下を歩く薫を目にして、思わず泣きそうになった。
 今の自分では彼女のようにはなれないけれど、いつか、自分らしく、自分のままでいたいと。
 薫が僕の中で1番になった瞬間だった。


「純愛かよ」
 久し振りに会った親友が苦笑しながら言い放った。
 バスの中からメッセージを飛ばし、途中で下車して会いに行った。もう、1人で考えていても分からないため、信用できる親友に意見を聞きたかったのだ。何をどう考えればそう思うのか、大半の同級生や知り合いは、僕が自分で何でも解決できる人間だと思っている。そもそも、悩み事などないと思われている。しかし、彼は違う。進学した高校は違うが、もう付き合いは10年くらいになる。唯一、本当の部分を知っている人間と言える。だから、彼の言葉には何の遠慮もない。

「何だよ、その1番同士じゃないと付き合っちゃいけないとか。さすがに、ファンタジーだろ。そりゃ、そうである方が良いし、できればそうあって欲しいとも思う。けどさ、そんなこと言ってたら、1億人に1組くらいしか恋人同士なんてできないぞ。
 そもそも、相手のことをよく知りもしないで、1番とか2番とか順番がある方がおかしいんだよ。一緒にいて、同じ時間を過ごして、やっと相手の価値観や性格が分かってくるんじゃないか。死ぬまで一緒にいる約束をする訳じゃない。いや、その約束をするために、お互いのことを理解するために付き合うんじゃないのか。当然、誰とでもそうしろって意味じゃない。相手のことをもっと知りたいと思うなら、一緒にいるべきだと言っているんだぞ」

 周囲は農地が点在する住宅地で、喫茶店やファーストフードといった施設は何もない。小汚い自動販売機の横に座り、缶ジュースを飲みながら話しをしている。周囲には誰もいないし、一番近い民家までも50メートル以上離れている。多少大きい声で話しても、他の誰かに聞かれる心配はない。ときどき、早起きの虫が、自動販売機の灯を目掛けて飛んでくるくらいだ。
 
「よく考えてみろよ。
 一緒にいて、彼女のことがよく分かったから、オマエは逃げ出したんじゃないか。
 一緒にいないと相手のことは分からない。
 そして、人は心変わりをする生き物だ。
 仮にオマエの1番が元彼女で、元彼女の1番がオマエだったとして、2人の思いは釣り合っていたのか?分かっているんだろ。一緒にいる時間が長くなれば、別れ話をしたときにどうなるのか。オマエはしばらく落ち込むくらいで済むかも知れないが、彼女は違う、って分かったんだろ。自分が想像していたものと違って、慌てて別れ話を切り出して、逃げ出したんだ」

 彼は缶ジュースを飲み干し、立ち上がって空き缶をゴミ箱に投げ込んだ。

「まあ、あんまり、理屈っぽく考えない方がいいぞ。
 人を好きになる方程式とか、数学の教科書に載ってないだろ。どっかの学者が解き明かして、ノーベル賞もらったとか聞いたことがないだろ。恋心の『心』は変数だ。だから、1が10にも100にもなるし、また逆に100が10にも1にもなる。とにかく、お互いを認識しないと何も始まらない。一緒にいることが罰ゲームにならなけりゃ、一緒にいてお互いを確認するのもありだと思わないか?そこが始まりで、今日の初めましてが、明日は好きに変わっていて、明後日は大好きかも知れないだろ。
 先入観とか、思い込みとか横に置いといて、自分の心に従えよ。ただ、どうしようもないこと、ってのもあると思うけどな」


 残りのジュースを一気飲みし、立ち上がって仁王立ちする親友の隣に並ぶ。空き缶をゴミ箱に向かって投げると、枠に当たって跳ね返ってきた。それを慌てて拾うと、今度は確実にゴミ箱に投げ入れる。それを見て笑っている親友に向き直ると、一言だけ告げてその場を去った。

「ありがと、な」