君のリスカの痛みを僕は知らない。

 中間テストも最終日を迎えた。
 今日の放課後から、各部活動が再開される。2週間近く運動をしていなかったため、身体が慣れるまでの間は体力的に厳しい。試験期間中に体育館の点検作業も完了したようで、思い切りバスケットボールができる環境になった。地区予選が突破できるかどうかという弱小高校であるが、我が校の運動部の中では一番練習が厳しいと言われている。蒸し風呂のような体育館で休むヒマなく走り続け、ジャンプし、シュートをする。5キロ程度の距離は、部活が始まる前に準備運動として普通に走る。朝の練習は当然、土日も午前か午後は練習がある。こんな環境だから、毎年20人以上入部する新入生は、1ヶ月もすると5、6人になっている。平田も、1週間ほど部活に顔を出しただけの2年生だ。

「ちっス」
 部室に向かうために1階に下りたところで、不意に声を掛けられた。声がした方に視線を向けると、そこには髪をプリン色にした男子生徒が立っていた。
「おっす。そのアタマ、染めに行った方がいいんじゃないのか?」

 男子生徒の中では小柄な部類に入る平田は、初心者ということもあってバスケ部をすぐにやめた。さすがに、身長が165センチほどで、経験者しかいない中での高校デビューは厳しいものがある。しかし、違う意味での高校デビューの方は継続中だ。
 入学当初は特に特徴もない、お調子者キャラクターだった。それが、部活を辞めて少しずつ変わっていった。制服はネクタイ着用が義務付けられているが、ネクタイをしなくなった。シャツのボタンを開け、インナーに派手な色のTシャツを着るようになった。校内でも問題がある生徒と一緒にいることが増え、髪の色が金色に変わった。他校の悪そうな生徒と一緒にいるとか、女グセが悪いとか、悪い噂しか耳にしない。そんなヤツだが、なぜか1週間の先輩でしかなかったにも関わらず、今でも顔を合わせれば挨拶をしてくる。

「これっスか。今日、今から美容院に行く予定なんスよ」
 自分の頭髪を掴みながら、ヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべる。
「今のオンナが使ってるっていう店に、連れて行ってくれるんスよ」
「へえ」
 美容室とか行ったことがないため、どう反応したらいいのか分からずに曖昧な相槌をする。
「ああ、先輩も付き合ってたんスよね、薫。今は俺のオンナなんスよ」
 性質が悪い後輩との会話の中で、「薫」の名前を聞き心臓が跳ねた。
「アイツ、そこそこ可愛いし、ちょっと優しくしてやると何でも言うこと聞くじゃないスか。連れて歩くなら問題もないですし、簡単にヤレるし、飽きるまで付き合おうと思ってるんスよ。先輩とは兄弟になっちゃいましたけど、仕方ないスよね」
 薫を軽視し、都合の良いオンナ発言をする平田。
 それを聞いているうちに心拍数が急激に上昇し、頭がクラクラしてくる。思考がまとまらなくなり、無意識のうちに拳を握り締めていた。

 それでも、目の前に立つ最悪な後輩を殴り飛ばすことも、もっと大切にしろと叫ぶこともできない。
「先輩は1週間で捨てたんスよね。さすがに、俺でもそんなことできないスよ。いやマジで尊敬スわ」
 その一言で全身の力が抜けた。
 言い訳を赦さない過去が、平田に対する数多の怒りと非難する感情を封鎖する。オマエは薫に何をしたのかと、逆に責めてくる。相手のことを何も知らないまま、知ろうとさえせず、自分の体裁のために別れを切り出した。たった1週間で。どう考えても、平田を詰る資格がない。
「じゃあ、アイツが待ってるんで行きますね」
 どうにか右手を上げて応え、ポケットに手を突っ込んで歩いて行く平田を見送る。
 必ずしも悲劇が待っている訳ではない。注意をする関係性でもないし、もう薫に関わる資格も手放した。

 後悔?
 罪悪感?
 未練?
 何だこれ。
 意味が分からない焦燥感に支配されていく。
 ただ、これが何であろうが、自分が第三者である現実は変わらない。もし、近い将来に薫がまたカッターナイフを手にしようが、それを止めることはできない。知らないときであれば、七瀬から何も聞いていないときであれば、そんなに気にすることもなかったと思う。知らない人は他人だ。どこで、どんなことに巻き込まれようが、自分には無関係だ。理由が分からないから。気持ちの予想ができないから。でも、不用意に薫の過去とバックグラウンドを知ってしまった今は、何かが起きたときの結果が予測できてしまう。
 心配なのか?
 薫の信じる未来が真っ黒だと知っているから。
 守りたいのか?
 いや、それはない。だって、自分で手を放したのだから。

 校舎の隙間から、平田の腕に絡み付く薫の姿が見えた。
 いつか経験した光景に呼吸が止まる。笑みを浮かべ平田を見詰める薫。自分の安易な決断が正解だったのか、間違いだったのか、もう何も分からない。最初は絶対に正しい選択だと思っていたが、もう分からない。薫に幸せになって欲しいと思う。幸せにならなければならないと思う。近い未来、泣くことは目に見えている。だけど、止められない。知らなければ良かった。何も知らないまま、薫の友達やクラスメイトに罵られ、クズだと詰られていれば何も感じることもなかったのに。

「はあ・・・平田かあ」
 2人が去った方向を見ていると、不意に左側から声が聞こえた。驚いて声の主を確認すると、あの日以来の再開となる七瀬だった。
「男運が悪いというか、不幸が向こうから寄って来るというか」
 七瀬が溢した言葉に表情を歪める。しかし、七瀬はシラケたような表情で、小さく息を吐き出した。
「何が気に入らないの?下心しかない平田と付き合ったのは、あの子が決めたこと。誰かさんにフラれて泣いているときに声を掛けられたから簡単に落ちたとしても、連続でツマラナイ男に捕まったとしても、最終的にはあの子が決めたことよ。アンタが責任を感じる必要はないし、アンタには何もできないでしょ。あ、別に責めている訳じゃないの。ただ、あの子には普通の、楽しい恋愛をして欲しかっただけ。アンタとなら、それができただろうな、って、ちょっとだけ思ってる」
 言葉に詰まっていると、七瀬は背を向けてヒラヒラと手を振った。
「じゃあ、ね」

 無責任に去って行く七瀬に苦笑する。
「何が、責めてない、だよ」
 知らなくて良かったことを話し、気持ちが掻き乱されていたときに現れて遠回しに詰る。未練があるのかと問われれば、それは違うと答えるだろう。恋愛対象として見ているのかと確認されれば、やはり首を横に振る。それでも、無視することはできない。庇護しなければならないとは思っていない。でも、幸せになって欲しいと思う。
 ああ、もう、よく分からない。
 分からない。


 遠くから聞こえるチャイムの音で我に返る。部室に行き、昼食を済ませてから体育館に向かうつもりでいたのだ。校舎に設置されている時計を見ると、予定していた時間からすでに30分以上遅くなっている。急いで売店でパンを購入し、部室に向かわなければ間に合わない。
 売店に向かって小走りで移動する。
 こうして何かしていれば、余計なことを考えなくて済む。バスケの練習をしているときは、他のことを考える余裕もない。最後の大会に向けて、今まで以上に練習すれば何もかも忘れてしまえるに違いない。それとも、もっと前向きに考えるべきなのか。薫がそうであるように、自分も別の誰かを彼女にすれば、過去のことだと気にならなくなるのかも知れない。