3年3組の教室からは、中庭の向こう側にある旧校舎がよく見える。
ちょうど正面になる3階には2年7組と8組。そして、生活科学科という普通科とは少し違う雰囲気の2年9組がある。共学であるが、そのクラスの40名は全員が女子生徒だ。そして、普通科と違い、少し、いや、かなり毛色が違う。校則に添った髪の色は見当たらないし、スカートの丈も膝上20センチよりも短い。同じ制服を着ているとは思えないほど装飾されていたり、派手なアクセサリーがぶら下がっていたりする。睫毛もシャーペンが乗るほど反り返っているし、口元は30メートル以上離れていてもテカっている。
いや、別に嫌いだとか、別枠だと思っている訳ではない。実際に、3年9組には中学の同級生もいるし、他にも個人的に親しい女子生徒もいる。だけど、どこか別世界の人達だとは感じる。ときどき放課後の校門に、派手な自動車が爆音を鳴らして停車していることがある。学校の最寄り駅に行くと、ロータリーにギャング系の男達とたむろしている9組の子を見掛ける。
「バカだなあ」と思いながら通り過ぎるけれど、ちょっとだけ羨ましかったりする。近い将来のことを考えれば、勉強して、部活を頑張って、品行方正な生活をしていた方が良いに決っている。それでも、憧れもある。周囲に注目されて、誰からも罵られることもなく、機嫌が悪ければ誰彼構わずケンカを売る。気持ち良いだろうな、と思う。ストレスなんか何も無いのだろうなと、羨ましくもなる。だけど、仲間にんる訳にはいかないし、飛び込む方法も知らない。
そんな特殊な立ち位置に思える2年9組に、1人だけ異質な生徒が紛れている。
彼女の名前を知っている。
一緒に入学したからだ。
初めて見たときに、単純にすごく可愛い子だなと思った。
一目惚れとかではないけれど、かなり目立つ子だなと思った。
偶然、入学式の日に校門で一緒になった。当時も現在と同じショートボブだったけれど、まだ髪の色は黒かった。9組だということは、入学式のときの席順で分かった。名前は、どうやって入手したのかはあまり記憶にないけれど、1週間もしないうちに知っていたと思う。だけど、教室の位置が絶望的に違っていたため、偶然に任せていては擦れ違うことさえなかった。たまに渡り廊下を歩いている姿を遠くから見掛けるくらいだった。駅のロータリーに集まる集団の中に、たまに見付けるくらいだった。
意外にも、高校生活は部活や勉強、友達との交流が忙しくて、特定の彼女を作るヒマが無かった、そもそも、あまり必要も感じなかった。彼女という存在に奪われる時間が惜しくて、片手では足りないほど告白されたけれど全て断った。いや、彼女が欲しくなかったという訳ではない。だけど、目立つ方であったため、アクセサリー代わりの彼氏にされることが嫌だった。それに、彼女というポジションには妥協はしたくなかった。そもそも。告白は自分がするものだと思っていたし、相手はずっと決っていた。
ただ、進展はない。
言葉を交わしたこともない。
たぶん、あの子は僕の存在すら知らないだろう。
でも、まあ、いいかなって。
時々見掛けて、「ほっこり」するくらいで、それでいいかなって思った。
まだ、先は長い。そう思っていた。
でも、2年生になった頃、あの子を見掛けることがなくなった。
理由は分からない。
誰にも訊けないし、誰も教えてはくれない。
でも、直接関係のない人がいなくなっても特にこれといって影響はないし、初めだけ気になったけれど学校生活に変化はない。それまでも、1週間に1度見掛ける程度の関係だったから。最後の大会前で部活は練習が厳しいし、3年生にもなれば勉強も頑張らなければならない。当然、休日には友達と交流をしなければならない。だからなのか、相変わらず彼女はいない。3年生になっても、環境は何も変わらない。毎日が何となく流れていき、微かに見えるレールの上を進んでいくのだと、近い将来には疑問すら抱かなくなるのだろう。漠然と、そう思っていた。あの日、窓から旧校舎の廊下を眺めるまでは。
一方的な再会は、3年生になったときだった。
見掛けなくなって1年ほど。すっかり自分の生活に、存在しないことが当たり前になっていた頃。3年生になり、文系・理系の選択でクラスを分けられることになり、圧倒的に理数系が弱点だった僕は当然のように文系を選択することにした。3年2組から5組が文系クラスで、6組から8組が理系クラスになった。自分のクラスは3年3組だった。男子10人に対し、女子が30人というクラスに決った。どうしても、文系クラスは女子生徒の割合が高くなる傾向にあるため、当然の割合と思える。
窓際の最後尾という主人公席に陣取り、姦しい教室に辟易しながら窓の外を眺めた。中庭を挟んで30メートルほどの距離に旧校舎がある。文字にすると近いように感じるが、実際の30メートルはかなり遠い。廊下を歩いている生徒の顔は、目を凝らさないと見えない。部活の後輩に聞いたところによると、同じ階にある教室は2年7組と8組。そして、空き教室を2つ挟み、2年9組だということだった。
その廊下を、無表情で歩いている女子生徒がいた。
髪はスッカリ茶色になっていたけれど、歩く姿勢ですぐに分かった。
もう1年以上見ていない気がするけれど、心臓がトクンと跳ねた。
30メートル先を通り過ぎて行く姿を、必死で目で追い掛ける。
その先にある教室は2年9組しかない。
どうして?
もしかして、何か理由があって留年したのだろうか。
1年前と同じように、ここからだと何も分からない。
「何を見ているの?」
不意に背後から声を掛けられ、全身がビクリと反応する。そんな僕の姿を目にして、2年生のときも同じクラスだった佐藤が大きな声で笑った。ムッとした僕が文句を言おうとして振り返ると、佐藤が耳に掛かった髪を直しながら口を開いた。その視線の先には、廊下を歩いているあの子の姿がある。
「薫ね、ずっと入院していて留年したんだって」
「マジで?」
即座に反応した僕を見て、再び大笑いする佐藤。何がそんなに可笑しいのかと不機嫌になっていると、佐藤は当然のことのように理由を説明する。
「だってさあ、新田君が『薫』で誰のことか分かるから。何の接点も無いのに、苗字ではなく、名前で誰のことか分かるなんて、ねえ」
指摘の通りだと気付き、思わず口ごもる。非常にバツが悪いが、そんなことよりも、今はもっと気になることがあった。
「佐藤って、どうして高梨のことを知っているんだ?俺と同じくらい、アカの他人のような気がするんだけど」
「ああ、それはね」
佐藤が腕を組んで、上から目線で偉そうな態度に変わる。
「私と薫は同中なんだ。しかも、3年生のときは同じクラスだったし、今でもSNSで繋がってるよ」
「マジで?」
灯台の下は漆黒の闇だった。佐藤とは2年生のときに同じクラスだったというだけではなく、男女の違いはあれ、同じバスケ部としてずっと交流があった。あの子と繋がりを持つ手段がずっと傍にあるなんて、全く思いもしなかった。
「ちょっと、紹介してくれない?」
自然と零れていた言葉に、佐藤は少し困ったような表情を見せた。
「どうかなあ。ちょっと、本人に確認してみる。私が知っているだけでも、いろいろある子だから。今夜連絡してみるから、明日ね」
翌日の朝、佐藤がニヤケた顔で近付いてきた。
その表情を目にした瞬間、2年間求めていた連絡方法を手に入れることができたと、嫌でも理解した。



