誰そ彼エスケープ

 秋雨は、しつこく降り続く。
 ここ数日、夕焼けはおろか、昼間の太陽すら厚い雲に隠れてしまって見ていない。どんよりとした空から、霧のような雨が舞い落ちている。
 今日も、有明茜理は屋上を訪れなかった。雨の降る屋上を開け放した扉から眺め、おれは薄暗い校舎で飯を食う。
「……大人になりたい」
 ひとり呟いた声は、誰に届くこともなくだだっ広い校舎に溶けていった。
 
 おれ自身がそう思わずとも、客観的に見れば、おれは不幸な身の上である。人と深く関わるうちに、自分が施設で育つ子どもだということは、遅かれ早かれ露呈する。
 そうしたら、お決まりのあの文句を言われる。

 ――可哀想に。

 おれのことなんてなにも知らないくせに、おれを決めつける言葉。大人が、おれを子どもたらしめ続ける、呪いの言葉。
 同じことを、茜理にも言われた。あの時、茜理の目は間違いなく憐みに満ちていた。つい反射的にカッとなってしまったけど、冷静になればわかる。同じ言葉でも、あの言葉が持つ意味は違っていたと。
(おれのこと知って、『可哀想』って言ったんだよな。アイツ)
 茜理はアホだけど、人の感情には聡いところがあって、素直で、臆しなくて……おれが、いかに小さいことで悩んでいるかを突きつけてくることがある。だから、大人げない反発の言葉と、子どもっぽい抵抗をすることしかできなかった。そんな喧嘩の代償は……普通に痛かった。

 そのあと、教室でも施設でも、周りの大人は大わらわだった。頬は痛み以上に腫れて見えるらしくて、無駄に大きな氷のうとガーゼを押しつけられた。
 事情を尋ねられて、素直に「ケンカ」と言うと面倒なことになる。そう思って、咄嗟に「階段で転んだ」とうそをついた。大人たちは顔を真っ青にして、念のために病院へ連れて行こうとしたりしていた……逆に面倒なことになったのは、言うまでもない。
(だけど、あんなに焦った施設の先生は……初めて見たな)
 怪我も反抗もしない、真面目な青年。施設でも協力的で社交的だったおれの怪我は、先生にとっては青天の霹靂だったに違いない。そんな先生の焦った表情を見て、うそをついたことすらちょっとだけ後ろめたく思った。
「まぁ、もう治ったからいいんだけどね」
 大した怪我ではないのは、事実だった。1週間もせずに、アザの痕はすっかり消えてしまった。
 食べ終わったおにぎりのフィルムを、鞄に無造作に押し込む。屋上の扉を閉じると同時に、6時のチャイムが鳴った。
 

 少ない足音と、喧騒が遠くに聞こえる。薄暗い校舎を、真っ白な電灯がぼんやりと照らしていた。
 教室までの慣れた道のりで、保険医――比留間先生が、向こうから歩いてくる。
「……こんばんは」
 控えめな挨拶だったのに、比留間先生は嬉しそうに口の端を上げた。
「こんばんは。これから授業か?」
 はい。そう頷くと、比留間先生は気だるげに、でも満足そうに笑顔を見せた。もう夕方だというのに、どうしてそんなに快活なのだろう。そんなことを考えながら通り過ぎようとした。
「? なぁ」
 通り過ぎざま、白衣のポケットに突っ込まれていた比留間先生の手が、おれの頬に伸びた。
「っ!」
「ん~? おまえ、怪我したのか?」
 油断していた。茜理に殴られた頬に貼っていたガーゼは、うっとうしくてバイト前に剥がしてしまったのだった。すっかり治ったと思い込んでいたが、比留間先生はおれの怪我に目ざとく気づいたらしい。
(虐待じゃありません、可哀想じゃありません!)
 勘違いされたら、たまったものじゃない。たばこの匂いがついた指から逃れようと身を離すと、比留間はちょっとだけ目を丸くしてから、ふっと力を抜いた。
「……ガキだなぁ、オマエたちって」
 そう言って、なにも言わずに立ち去ってしまった。拍子抜けしたおれは、その背中を呆然と見送る。
「茜理と同じこと、言われた……」

 過度な干渉をしない大人もいるんだ。なにもかもお見通しみたいな態度は、ちょっとだけムカついたけど……教室までの足取りは、幾分か軽くなっていた。