誰そ彼エスケープ

 行くのをためらっていた部活にも、少しずつ顔を出すようになった。
 部長の座を狙っていた時は、皆勤賞だったっけ。9月には行ってからあっさりとその記録を破ったが、おそらく部内のだれもそれに気づいていない。気にしているのは、オレひとりだけだったのだ。誰が活動しようがしまいが、関せず。それが科学部に蔓延する空気だった。
 部室の扉よりも、屋上の扉を開く回数の方が多いな。そんなことを考えながら夕景の世界に一歩を踏み出すと、やっぱり碧唯はいつも通りそこにいた。今日も座りながら、割引のおにぎりを食べている。
 
「てかよー、毎日バイトなわけ?」
 挨拶もそこそこに声をかけると、碧唯は顔を上げて答える。
「毎日ってわけじゃない。労基に引っかからない程度」
「ローキ……」
 碧唯は、高校生にはなじみのない言葉を時たま使う。ローキ、ってなんだろう。
 オカルトネタを詰めこんだノートを開く意欲も湧かなくて、オレは屋上の床に大の字に寝転ぶ。
「……学費と、将来のためにお金が必要なんだ」
 フェンスによっかかる碧唯が、ためらいののち口を開いた。尋ねないようにしていた身の上話を、碧唯は内緒話でもするみたいに教えてくれる。
「え、学費? 自分で払ってるのか」
「施設の人が立て替えてくれてる」
 目を丸くするオレに、碧唯はこともなげに言う。結構、衝撃的な事実だ。
 高校生でバイト、なんて……てっきり「原付が欲しい」だの「遊ぶ金が欲しい」だの、その程度の動機だと思っていた。というか……。
「施設の人、って」
「おれ、施設で生活してるんだ。親いないから」
 おそるおそる尋ね返しても、碧唯は慣れたように淡々としている。そんな大切なこと、オレなんかに言っていいのだろうか。そう思いかけて、思考を留めた。違う、大切なことだからこそ、むやみに踏み込まれたくないのだろう。碧唯の表情は一見して涼やかで冷静だけど、きっとそれは防波堤なのだ。まるで、過度な干渉や同情を許さないかのような、事実の列挙。
 
「……高卒くらいは、ほしくて」
 なにも言えなくなったオレに耐えかねたらしい。今度は言い慣れていなさそうに、たどたどしく教えてくれる。
「ほしい、ってなにが?」
「経歴。就職するにも、中卒じゃあ足りない」
「てことは、大学には行かないのか?」
 オレは、人生で当然みたく与えられている進路の選択肢を、無邪気に、残酷に尋ねたことを後悔した。碧唯は、冷たい流し目でオレを睨んで、まさか、と突き放す。
「一刻も早く、社会に出ないといけない。大学なんて、ぜいたくだ」
「そうか? 大学だって、施設が立て替えてくれるだろ。大卒の方が、いい仕事に就けるんじゃねえ?」
「……おまえもオトナと同じことを言うんだな」
 空気がピリつく。オレはオレの意見を言っているだけだというのに、なんでか碧唯は勝手に神経を逆立てる。気を遣った言葉を並べてほしいなら、オレ以外のヤツに求めてほしい。
 不快感をあらわにする碧唯を重たく思いながら、オレの声も低くなる。
「は? なにが言いたいんだよ」
「おれが屋上で飯を食べるのは、オトナの目から逃げるためなんだ」
 おまえもそうだと思ってた。勝手に期待して、勝手に失望した碧唯のため息が、夕空へ溶けた。
 
 ゼイタクだ。オマエの方こそ、ゼイタクだ! むしゃくしゃした気持ちが全身を巡って、熱い。
「目が届くなら……いいだろ」
 声を荒げないように、努めて冷静にオレは不満を口にする。言われっぱなしは、どうしてもムカつくから。
「逃げるほどの目があるなら、いいよな」
「は? 逃げるほど嫌だって言ってるんだけど」
 挑発めいた言葉に、碧唯がまんまとまなじりを吊り上げる。食べきったおにぎりのフィルムを握った拳が、わなわなと震えていた。
「あ、そっか。おまえは、見てほしいんだったな? オトナに甘やかされて、大学まで行かせてもらって、ずーっと子どものままで」
 きっと皮肉を織り交ぜようとしたのだろう。碧唯の言葉が、神経を昂らせていく――と思いきや、オレは率直に憐れみを感じてしまった。
(オトナに甘やかされない、大学に行かせてもらえない、子どもでいられない……そういう人生だったのか)
 牽制のつもりで吐き出した言葉の対に、碧唯が立っているのだとしたら。そう考えると、ひどく心が震えてしまう。
 剝きだしていた牙が、心のうちに収まっていく。ふっと力を抜いて、オレは寄りかかっていたフェンスから身を起こした。
「……オマエ、可哀想だな」
 
 それは一瞬のことだった。耳をつんざいたのは、碧唯の金切り声。そう理解すると同時に、背中に強い衝撃を受けていた。
 びっくりして目をぱちくりさせると、目の前には必死な表情でオレを睨む碧唯がいた。その手は、俺のシャツの襟を不器用に握っている。
「おれは……おれは、可哀想じゃない……っ!」
 真っ赤に燃える夕陽が、碧唯の顔を赤く染める。でも至近距離で見た黒い目は、どこまでも深く、冷たい色をしていた。
「なにすんだよ……っ」
 もがいて逃れようとしても、碧唯はバカみたいに体重をかける。痛い、苦しい、悔しい――!
「ムカつくんだ。オマエみたいに、のうのうと子どもでいられるヤツが……!」
「『のうのうと』、だと……?」
「違うのか!? 言い返してみろよ」
 一度は収めた牙が、また輪郭を帯びてくる。痛くて情けなくてこぼれそうになる涙は、強い言葉でかき消すほかなかった。
「じゃあ言わせてもらうけどな、オマエみたいにオトナぶって被害者ぶってるヤツの方がよっぽどムカつくんだよ!」
 噛みつく言葉は、必要以上に鋭い軌跡を描いて碧唯を襲う。でも、冷静さを欠いた脳内では嘘をつけるはずもなかった。
「ゼイタクなのはオマエだ! 逃げたいと思うほど見られてるんだ、可哀想な子どもでいられるんだ!」
「おれは可哀想じゃない! 子どもじゃない!」
「どう見たって子どもだろ!」
 自分の方が正当だと証明したいのは、オレも碧唯も同じらしい。
 中途半端な「思春期」とかいうモノトリアムは、とかく息が苦しかった。まるで、空気の存在しない宇宙空間みたいだ。足元に広がるのはオレンジ色の、無重力の空間。突っぱねようにも、駆け出そうにも、そこにはなにも足がかりがない。オレたちは同じ空間にいるのに違いないだろうが、空気がないおかげで、声すら届かなかった。

「離せよ!」
「っ……!」
 とにかく逃れようともがいているうちに、オレの手が不器用に碧唯の頬をかすめる。白い肌が、ぶわっと赤らんだ。
「あっ、悪い……」
 当てようと思ったわけじゃなかった。だけど、状況がそんな言い訳を許してくれるわけもない。少しだけ目を潤ませた碧唯が、きっと睨む。
「おまえ……殴ったな?」
「な、殴ったっていうか」
「うるさい!」
 不器用な平手が、今度はオレの頬にぶつかる。一瞬だけ視界が揺らいで、ツンとした衝撃が走る。あぁ、殴られたのか。
「オマエだって殴ったじゃねーか!」
 つかまれた胸ぐらを突き放せば、碧唯の足は簡単にもつれる。倒れ込んだ拍子に、高くて素っ頓狂な声がもれた。
 
 立ち尽くすオレと、尻もちをついた碧唯。距離が離れると、碧唯の顔がよく見える。意気込んで突っかかってきたくせに、見下ろしたその目はどこか怯えていた。
 白い頬が、赤く腫れている。夕陽のせいじゃない。誰でもないオレが、そうさせた。
「……わがまま」
 オレは息を上げたまま、唾を飲み込む。どこかが切れているのだろう、口のなかに広がる血の味が気色悪い。血って、こんなにマズイのか。
「おまえ、こそ」
 碧唯は身を起こして、傍らのリュックを引っつかむ。タイミングよく鳴った6時のチャイムが、去っていく碧唯の足音に重なった。