誰そ彼エスケープ

「星見くん、あのねっ!」
 6時10分の本礼が鳴る少し前、はつらつとした女子の声がおれの思考を妨げた。いや、思考というほど何かを考えていたわけじゃない。ただ、ホワイトノイズみたいに、疲れた脳みそを落ち着かせていたのだ。
 眠りから覚めたみたいに顔を上げると、同級生の女子はホッとしたように頬を緩めた。
「文化祭なんだけど……星見くんは今年も忙しいのかなって」
 文化祭。毎年この時期には文化祭が開催される……らしい。定時制のクラスは1学年に1クラスしかないので、3学年合同で出し物をしている。
 女子の質問の意図は、なんとなくわかる。おれは昨年も、バイトと理由をつけて文化祭を休んだから。
「あーうん、たぶんバイト。それまでの準備は手伝うから」
 用意していた答えを、ちょっとだけ眉を下げて伝える。
 女子は「残念だけど、わかった!」と、頬を真っ赤に染めて、やけに嬉しそうに去っていく。教科書を取り出す音にまぎれて、黄色い笑い声が飛び交っていた。
 
 たかだか文化祭に全力を注ぐなんて、馬鹿げている。高校は、全日だろうが定時だろうが通信だろうが、勉強をするための場。そう割り切って入学したし、それ以上のことをするつもりはなかった。
 だけど、定時制であってもクラス分けされてしまうのは予想外だった。想像していたのはもっと、希薄なコミュニティだったから。こうなってしまえば、少しだけ目的を変えなけれなならない。
(輪を、乱さないように)
 おさがりの制服、古びた筆箱。規律正しい、配慮された自由を謳歌する施設での生活で、空気を読むのは得意なんだ。
(別に参加したくないけど、突っぱねる方が面倒なことになる……それに)
 ちらっと、先ほどの女子に目を向ける。目が合うと、明るい悲鳴とさざめくようなささやきが耳をつんざく。
 煩わしいな。だけど、悪い印象を持たれていないのなら、利用するほかないよな。

 
 窓枠にはめられた空は、オレンジ色からみるみるうちに黒色へ染まっていく。
(アイツ……今日も屋上にいるのかな)
 小テストは、制限時間を残して早く終わってしまった。暇な時間に考えてしまうのは、どうしてもつい最近出会った男のことだった。

 バイトが終わって、授業がはじまる前。わずかな時間を屋上で潰すルーティンは、ひとりきりになれる貴重な時間だ。バイト先で買った割引の軽食を食べながら、ホワイトノイズみたいなとりとめもない思考に身を委ねる。1日のなかで、唯一おれがおれでいられる時間だった。
 そんなルーティンに突然侵入者が訪れて、もう一週間になる。怒ったような、泣いてしまいそうな表情でやってきた男――有明茜理。彼は部活に悩み、不満を口にする、普通の男子高生。帰る家があって、所属するコミュニティのある、普通の……。
 小テストの余白に、とりとめもなくシャーペンの先を走らせる。なぞるたび濃くなる黒い丸が、白い電灯に照らされた。
 
 しかし有明茜理は、むやみに領域を荒らす男ではなかった。
(なんでバイトしてるの、って……必ず聞かれるのに)
 茜理は、ぐっとこらえて聞かなかった。「気になる」って顔に書いてあったけど。茜理の百面相を思い出して、おれの口角が少しだけ上がる。
 不器用なりに、距離感を保とうとしてくれるんだ。そんな彼に多少なりと好感を持ったので、侵入を認めている。まぁ、もともと屋上はおれのものじゃないんだけど。

 先生のかけ声で小テストが終わる。星見碧唯という署名の隣に、黒い丸を消した痕が残っていた。後ろの席から回ってきたテストに、おれの答案をそのまま紛れ込ませる。
 アイツ、文化祭の展示に悩んでたけど……その後どうなったのだろう。自分には関係ないと思いつつ、アホみたいに真っすぐに向き合う茜理の姿が思い返される。
 見せてもらった内容は、知っている知識をひけらかすだけのくだらないものだった。ムキになって取り組んで、なんて子どもっぽいんだ……と思いながらも、おれは一蹴できないでいた。
(伝えたいことがあるって……強いな)
 ポジティブだろうがネガティブだろうが、伝えたいことを持ち合わせてるのは、茜理のすごいところだと思う。あまつさえ、形にして世に出そうとしている。
(普通の高校生だったら、普通なのかな)
 普通じゃないおれには、その姿が眩しくて、遠くに見える。
 
 有明茜理は、明日も屋上を訪れるだろうか。待ち合わせをしているわけでもないから、別に期待もしないけれど。
 はじまった授業に耳を傾けて、おれはホワイトノイズを断ち切る。おれは、おれのペースを保てるのなら、なんでもいいのだ。