誰そ彼エスケープ

 3月。桜の開花時期がニュースになる頃。

 碧唯が高校を卒業した。他の学生に比べて、受験勉強のスタートダッシュは遅かったが、碧唯は志望校に難なく合格した。普段の勤勉さが、こういう時に物を言うのだろう。
 間もなくはじまる新生活。施設を出ることに決めた碧唯は、新居へ荷物を運び入れる。
「荷物それだけ?」
 手の空いた茜理が尋ねると、碧唯はこくりと頷く。座り込んで段ボールを開く碧唯の手元には、衣類が詰まっている。施設の共同生活のなかで、碧唯の所有できるものは限られていたこともあって、碧唯の荷物はかなり少ない。運び込んだ段ボールふたつ分の荷物の仕分けは、あっという間に終わってしまった。
「ベタだけど、引っ越しそばでも食おうぜ」
 買ったばかりのケトルに水を入れ、お湯を沸かす。用意しておいたインスタントのそばに、値引きのシールは貼られていない。
「家電類は搬入してもらったし、荷物は少ないし……思ったより引っ越しってあっさりしてるんだね」
 そばのふたを開けて、粉末のスープを入れながら碧唯が言った。
「そうだけど……最難関が残ってる」
 ごちゃついたキッチンから見つけ出した割り箸で、茜理が寝室を指す。そこには、未だ箱に入ったままのベッドフレームが鎮座していた。
「……」
「おい黙るな」
 げんなりした表情を突き合わせる。
「今日中にやらなきゃ、だよね」
「オマエ、寝るとこなくなるぞ」
 お湯を入れて3分。たったその数分さえ待ち遠しくて、碧唯は大の字に寝転ぶ。
「めんどくせー……もう疲れちゃった」
 わかるぜ。そう言おうとする直前に、茜理は名案を思いつく。いたずらっぽく口角を上げ、横たわる碧唯を覗き込む。
「逃避行、しようぜ」
 3分を告げるタイマーが鳴った。

◇

 子どもたちのはしゃぐ声が、ふたりを迎える。
 なるほど、碧唯は頼れる真面目なお兄ちゃんとして、施設で生活しているらしい。帰ってきた碧唯の顔を見るなり、子どもたちが駆け寄って来る。
「碧唯くん、りなちゃんがお昼寝したいって」
「眠いの? ふとん引いてあげようか」
「ねぇねぇ碧唯くん、ぬいぐるみの手が取れたよ」
「あー、痛そうだね。先生につくろってもらおうね」
 まだ建物にも入っていないというのに、碧唯は子どもたちに囲まれている。
 (これが碧唯の日常なのか)
 碧唯にとって、当たり前の光景。ここが、碧唯の帰る場所なのだ。子どもたちの邪魔にならないように端へ移動した茜理は、なんだか感慨深い気持ちでそれを眺めていた。

 就職して1年弱。職業柄、いろんな家庭環境の子どもと接する。担任を持っていない新人教諭であろうと、いろんな家庭の形があることを肌身に感じていた。
(この環境が、今の碧唯を作ったわけだ)
 早く大人になりたい。この環境が生み出した、碧唯の強い願望。出会ったころの憂いを知っているから、簡単に「いい環境だった」とは言えないが、でも……。
「いい表情してんじゃん」
 子どもたちに囲まれた碧唯は、お兄ちゃんらしく自然体で笑っているように見えた。

「おにーちゃん、だれ」
 輪を外れた子どもが、茜理のそばに寄って来る。鼻が垂れている……あーあー、ティッシュあったかな。
「オレは碧唯兄ちゃんの……ダチ」
 ポケットをまさぐれば、運よくティッシュが入っていた。しゃがみこんで男の子を拭いてあげると、どこか安心したように表情がほぐれる。
「碧唯くんのダチ、ありがと」
「いーえ」
「茜理、悪い。ありがとう」
 子どもの扱いに慣れていないことを心配したのか、碧唯が輪を抜け出して駆け寄って来る。
「おう、ちょうどティッシュ持ってたから大丈夫」
「この人、碧唯くんの、ダチ」
 子どもが茜理を指差す。碧唯がジトっと見つめてくるので、茜理は咄嗟に「便宜上な」と言い訳をした。
 
 そんな問答をしていると、建物から女性が出てくる。碧唯の姿を見るなり、ほっとしたように微笑んだ。
「あら、おかえりなさい」
 碧唯の住む施設では、来客を迎える時はそう言うらしい。茜理はちょっとだけ面食らいながらも、控えめにあいさつを返した。
 慣れたように「ただいま」と言った碧唯が、茜理の前に歩み出て言う。
「田沼先生、今いいですか」
 田沼先生も、慣れたように頷いたのだった。

 施設内のほとんどは居住スペースだが、来客を迎えるための部屋も用意されている。幼稚園をリノベーションした建物らしく、わずかにくすんだピンク色の壁が可愛らしい。物珍しそうに、茜理はきょろきょろと観察しながら、ふたりについていく。
 「相談室」と札のついた部屋の引き戸を、田沼先生が開けた。かつては教室だったのだろう、ソファとついたての置かれた、あたたかい空間が広がっている。殺風景でないのは、花の形に切りぬいた紙が壁に貼られていたり、いくつものぬいぐるみがこちらの様子を見守っていたりするからだろう。子どもの緊張を和らげるための工夫が、あちらこちらに転がっていた。
 
「どうぞ、座って」
 田沼先生が、ふっくらとした手でソファを指す。慣れた様子の碧唯に倣って、茜理も隣に腰かけた。
「あ、有明茜理です」
 話しがはじまる前に、と茜理が口を開く。田沼先生は嬉しそうに笑って、茜理くん、と復唱した。
「それで、どうしたの」
 耳を傾ける田沼先生に、無駄な質問はない。子どもの話をしっかり聞こうとするその態度に、ふたりはほっと安心する。
(碧唯のやつ、緊張してないかな……)
 親代わりの先生に、これから伝えることを思えば碧唯のプレッシャーは計り知れない。ちら、と茜理が隣を見れば、しかし碧唯は悠然と真っすぐ前を向いていた。
「あの」
 碧唯が口を開く。
「おれ、コイツと付き合ってます」

◇
 
 田沼先生と茜理が度肝を抜かれたのは、言うまでもない。凍りついた空気と、ふさがらない口を思い出した茜理は、無意味にあごを撫でた。
「まさかあんなにあっさりカミングアウトしちまうとはな……」
 逃避行と称した休憩時間。そばをすすりながら、碧唯は相変わらず涼しい顔をしている。
 あの日、碧唯はあまりにも潔く茜理との仲を暴露した。悪いことをしているわけではないから、本来構わないのだが。カミングアウトする心づもりを、茜理はしていなかった。
「施設を出る理由だって、言わないといけないだろ」
「にしても、話す順番とか、言い方とかさぁ……」
「茜理ってたまにロマンチストだよね」
 確かに、施設を出るには理由を説明しないといけない。どうやって自立するのか、どうやって生計を立てるのか。その理由を説明できないかぎり、施設としてはむやみに許可する判断を下すことはできないだろう。
 碧唯が施設を出る理由は、大学進学。それと……恋人である茜理も一因だ。一から十までしっかり説明しようとする碧唯は、誠実とも言えるのだが。
「田沼先生の寿命、縮んだだろうな……」
 いきなり連れてきたはじめましての男。6歳も年上の同性と付き合ってるなんて、親代わりの田沼先生からしたら心配が勝つだろう。
 当然、田沼先生からは質問、追及の嵐だった。出会いのきっかけを聞かれたが、「学校で」と濁すしかできない。
 信じていないわけではないが、腑に落ちない様子だった先生が条件をひとつ提示してくれる。
 
『有明くんのお宅に、ご挨拶に行ってもいいかしら』
 
「寿命が縮んだのは、茜理もでしょ」
「逆に、なんで碧唯は動じてないんだよ!」
 そばの上のかき揚げはスープを吸い込んでいる。茜理がツッコんだ拍子に水面が揺れて、くたくたに崩れていった。

◇
 
 紹介したい人がいる。メッセージで父親に送ると、すぐに快諾のリアクションが返ってきた。
 その日のうちに有休を申請したらしく、あれよあれよと全員の都合のいい日に、有明家に集合することとなった。
(なんつーか……こんなにあっさり休んでくれるんだな)
 学生時代は、行事のたびに寂しい思いをしていた。仕事があるからごめんね、と幾度となく言われるうちに、茜理は行事があることすら報告しなくなった。
 伝えるだけ伝えてみてもよかったのかな。戻らない日々を思う茜理の周りを、両親がせわしなく動き回る。
「……あのさ、別にそんなかしこまらなくていいんだけど」
 あまりにも落ち着きがなくて、茜理は思わず声をかける。しかし両親は「えーだって」と眉を下げた。
「お茶、あたたかい方がいいのかしら。というか、コーヒーの方がよかった?」
「駅まで迎えに行こうか。ここまで歩くのは大変だ」
「あ、お父さん、車出すなら駅前のコーヒー屋さんでお豆買ってきて」
「あ~~~茶はあったかいのでいいし、もうこっち向かってるから迎えはいいの! 座って待ってて」
 てんてこまいの両親を無理やりソファに座らせる。やれやれと息を吐く茜理を見て、両親は感慨深そうに息を吐いた。
「茜理の特別な人かぁ……」
「こういう日が来てしまったのねぇ」
 まだ恋人とも伝えていないのに、両親は勝手に夢を膨らませている。やれやれ。茜理が頭をかかえていると、インターフォンが鳴った。

 挨拶と自己紹介を終えると、いよいよ本題を切り出すタイミングだ。冷静だった碧唯とは対照的に、茜理は冷や汗をだらだら流すほど緊張していた。
(むしろ、なんであんなに肝がすわってたんだか……)
 緊張のなか、呆れるような、頼もしいような……相反する気持ちが茜理を苛む。しかし、碧唯があれだけ堂々としていたのは、茜理との関係に後ろめたさがまったくなかったからだろう。それは、茜理も同じだ。なにも臆することはない。そう思いなおして、茜理は口を開く。
「あー、まぁ想像のとおりなんだけど、碧唯とはお付き合いしてて」
 カミングアウトするなり、茜理の両親は、胸に手を当てたり、目を潤ませたり、かと思ったら顎に手を当ててなにかを考えこんだり……表情をめまぐるしく変える。だけど、最後にはほっとしたように微笑んだ。
「紹介してくれてありがとう、茜理」
「お前の方が年上なんだ、しっかりするんだぞ」
 頷き合う大人組。しかし、もうひとつの報告が残っている。ほっこりした雰囲気に、茜理が申し訳なさそうに水を差す。
「しっかり……ってことでさ、もうひとつ報告があるんだけど」
「うん、なに?」
「どうした?」
「……オレ、家を出ようと思うんだ」
 予感していたとおり、両親の表情がピシッと固まった。

 教師の仕事は、想像していたとおり……いや、それ以上に、なかなかハードだ。定時はあるものの、その時間通りには行動できない。毎朝早く出勤し、残業をして帰る。季節の行事も挟まれば、変則的なスケジュールになることも少なくはなかった。
 とはいえ茜理は、この1年弱でおおよそのルーティンを把握した。これなら十分に自立できる、茜理はそう感じていた。
「で、碧唯とふたりで、暮らそうかなって」
 固まっていた両親が、ハッと意識を取り戻して、身を乗り出す。
「きゅ、急だな……!」
「大丈夫なの……?」
 不安そうな茜理の両親へ、今度は碧唯が口を開く。
「茜理くんの学校と、おれの大学……最寄り駅が一緒なんです」
「そう。だから、その辺りの家から通えば、今より楽なんだよ」
 両親は顔を見合わせて、それから脱力した。ふっと頬を緩めて、茜理と碧唯をじっと見つめる。
「……その口ぶりだと、もう物件は見つけてるんでしょう」
 ぎくり。その通りだった。報告してから……と思いつつ、直前で焦って決めたくなくて、ふたりは事前に物件を探していた。
「うん。しっかりふたりで決めたってことだな」
 聞いていた田沼先生も、同調するようにうなずく。あれだけ心配をかけた子どもたちが、少しだけ大人に近づいたと示した瞬間だった。
「でもね、茜理。最初からすべてがんばらなくていいの」
「碧唯くんも、困ったことがあれば、すぐに言うんだぞ。駆けつけるからな」
「施設にも、いつでも帰ってきてね」
 甘やかすような言葉は、「親にとって子どもはいつまでも子どもだ」と言っているようなものかもしれない。だけど、子どもが大人になるのに明確なきっかけはないのだと、ふたりはもう知っている。
「……うん、ありがとう」
 迷いながらも足を踏み出した我が子の背中を見守りたい。そんな祈りを込めた家族の眼差しが、茜理と碧唯に向けられていた。

◇

「茜理の百面相は、遺伝なんだね」
「なんのことだ?」
 食べ終わったそばのカップに、折れた割りばしが横たわる。話しているうちに逃避行は終わって、ふたりはベッドフレームを組み立てはじめていた。ねじの多さに辟易しながら、弾む会話の楽しさをご褒美に組み立てる。

 思い出話は尽きないけれど、やらなければならないことは山積みだ。
「新学期までもうすぐだなー」
 4月になれば、碧唯は大学生に、茜理は社会人2年目になる。
「大学、緊張する?」
 1年目に学んだことの復習みたいな1年になる茜理に比べて、新しい環境に飛び込む碧唯の不安は計り知れない。慮った発言は、しかしあっさりと否定された。
「おれが緊張すると思う?」
 相変わらず飄々とした態度だが……茜理は、不安がないはずはないと直感していた。軽口で拗ねたふりをしつつも、ぽつりとつけ足す。
「一緒に悩ませてほしいんだよ。約束しただろ」
 碧唯は、やりづらそうに頬を染める。
「……友だち、できるか、ちょっと気になる」
 ほらね。浅からぬ付き合いで、そのくらいはわかってしまうのだ。小さくて、でも素直な心配。碧唯が吐露してくれるほど近くにいられるこの関係性が、くすぐったいくせにうれしかった。
「大丈夫だって。碧唯が楽しそうにしてたら、向こうから寄って来る」
 茜理がそう言うと、碧唯は呆れつつも口もとを緩ませる。
「茜理って、本当に能天気だね」
「それがオレの長所だから」
 時刻は0時を回る。明るい声が、ランプのように部屋を灯していた。
 
 
「できた……!」
 ようやく組み立て終えた大きなベッドフレームが、寝室に鎮座する。梱包を外したばかりのマットレスにシーツをかぶせれば、真新しい新鮮な香りが部屋を包んだ。
「つかれた……」
 思わず倒れ込んだマットレスの心地いい弾力が、優しく茜理を受け止める。隣の部屋からブランケットを持ってきた碧唯が、寝転ぶ茜理を見て口を尖らせた。
「一番に寝転ぶなよ」
 ごめん、ごめん。そう言いながら体を起こした茜理は、碧唯の手を引く。
「うわ、あぶな……っ」
「オマエも寝転ぼうな~」
 ばふん、と広がったブランケットが、ふたりを世界から隔離する。華奢な碧唯を抱き留めて、抱きしめて。茜理は、その温もりを肌で感じた。
「……嗅ぐな」
「バレた?」
 軽口が面白くて、ふたりは声をあげて笑う。
 夜は穏やかに更けていって、静かな朝を連れてくる。薄明に隣り合う茜理と碧唯は、互いの姿を夢に見るのだ。