誰そ彼エスケープ

 屋上までの階段が、いつもより長く感じる。オレはといえば、碧唯と会うのがなんとなく気まずくて、昨日は屋上へ行けなかった。待ち合わせしていないのだから、別にいいのだけど。幾度となく思いなおすが、ちょっとだけ後ろめたい気持ちが残っている。ひょっとしたら、今の碧唯は待っててくれたのかな、なんて想像できちゃうから。
 一昨日の約束。たとえ幼い口約束だとしても、効力はべらぼうに強い。オレは、オレの短い人生で、こんな約束をしたのははじめてだった。
 校舎の暗がりに立ちすくんで、自分の小指を見下ろす。
(嬉しいもんだな……)
 屋上の扉は、眼前に迫る。いよいよ意を決して、扉をガシャンと開け放った。

 碧唯が、弾かれたように顔を上げる。
「お、おー……」
 普段通りを装って声をかけるが……どこか声が上ずってしまう。しかし、その声に笑うでもなく、碧唯は、ふいと顔を逸らしてしまった。
「は? ムシ?」
 気まずさを一旦隅へ追いやって、オレは碧唯の顔色を覗く。
「……別に」
 返ってきたのは、ひどくぶっきらぼうな言葉だ。
 なにか……怒らせてしまったのだろうか。一昨日約束した時は、明るい雰囲気だったと記憶している。それから言葉を交わしていないのだから、怒らせるもなにも……。
 明らかに不機嫌な頭頂部を眺めながら、オレもフェンスにもたれる。拒絶はされないから、そこは一安心。
 
「てかバイト辞めることにしたんでしょ?」
「辞めたけど。それがなに」
「いや、屋上に来る必要もないんじゃね……って」
 会話を繋げようとしたが、この話題は墓穴だったのだと悟る。碧唯はオレの言葉を遮るように、キッと睨みつけた。
「なにそれ。ここには来るなってこと?」
「そ、そんなこと言ってねぇだろ」
 呆気にとられるオレから顔を逸らして、碧唯はまたうずくまった。

 なんだ、なんだ。今日の碧唯は、かなりご機嫌ナナメだ。体育座りのまま覗き込めば、ちらりとこちらを伺う視線とぶつかる。すぐに逸らされたけど……。
 だけど、つまり。そっぽを向いてしまった碧唯を見て、オレは考察する。
(なんか……拗ねてる?)
 なにに拗ねているのかは、わからないけど。不機嫌なくせに、話しかけても応えたり、こっちを見たりするのは、きっとそういうことなのだろう。
(かわいいところ、あんじゃん)
 オレの口角が、ついにんまりと引きあがる。あれだけ大人に憧れていた碧唯も、オレには子どもっぽい一面を見せてくれる。そう思うと途端にかわいく思えてきて、それと同時にいたずら心も湧いた。
「……なぁ、碧唯。授業って何時から?」
「……6時のチャイムが予鈴」
 今は、5時54分。いつものタイムリミットまで、あと6分。
(だけど、タイムリミットなんて捨てちまえばいい!)
 オレはふいに立ち上がって、碧唯の手を強引に取る。
「行こうぜ!」
 手を引いて立ち上がらせると、その手を引いて走り出す。荷物は後で取りに戻ればいい。
「は!?」
 突然のことに、碧唯は目を丸くした。驚く声が楽しくて、オレはますます悦に入る。
「おい! どこに行くんだよっ」
「あ~……それは、走りながら決めよう!」
 ためらってもたつく碧唯を引っ張りながら、向かうは屋上の扉。いつもは見送る背中が、今日はオレの真後ろにある。
「走りながらって……!」
「サボるんだよ! んで、仲直りしようぜ」
 オレンジ色の世界。妙に眩しい斜陽は、真正面からオレたちを照らす。
 きっと、戸惑いながら、呆気に取られているのだろう。だけど、碧唯の表情はすっぱりと影に覆われていて見えない。

 
 瞬間。目にうつる景色は、スローモーションだった。
 オレの手が、屋上の扉に伸びる。黒い影。
 ドアノブを握り、捻る。ひんやりとした触感。
 体重をかけて、押し開ける。つま先へ移動する、重心。一歩、踏み出す。
 

 どこか不機嫌で、拗ねてしまったオマエを、笑顔にしてやりたかった。
 ただ、それだけ。
 なのに――繋いでいた手は、空を切った。

「……碧唯?」

 チャイムの音が、静寂を破る。明かりのつかない校舎は、仄暗くて不気味な影をまとっている。
 
 
 6時を迎えた世界で、星見碧唯は――唐突に姿を消した。