「田沼先生……今、いいですか」
施設のみんなで机を囲む夕飯が終わってから、おれ施設の先生――田沼先生に声をかける。リラックスした表情をちょっとだけ引き締めて、田沼先生はうなずく。
「相談室で待っていて」
他の子たちの世話をする先生を置いて、相談室の扉を開く。閉ざされた空間なんてない施設で、この部屋だけは唯一プライバシーが確立されていた。
おれがここに引き取られたのは、小学3年生くらいの時……だったらしい。その時のことは、正直あんまりよく覚えてない。だけど両親を一気に失って、子どもなりに不安を感じていたのは覚えている。
その当時から、田沼先生にはお世話になってきていた。基本優しく、時に厳しく。本物の母親みたいに接してくれる田沼先生から、身に余るほどの安心をもらって生活をしている。
そんな先生に面倒をかけたのは、この高校2年生にしてはじめてのことだった……と思う。他に手のかかる子が大勢いるんだ。せめて、おれだけは迷惑かけまいと行動していた。こうなったのは、すべてはあの有明茜理のせいだった。
突拍子もない悪だくみを思い出して、おれの唇がとがってしまう。
あまりに強引な手段で、茜理は大人たちに反旗を翻した。都合よく扱われるだけじゃないぞという、強い主張。おれひとりだったなら、そんなことしなかったはずだ。だけど……不覚にも面白そうだと思ってしまった。
そのおかげで、田沼先生は夜通しおれを探すはめになるし、学校の先生も寿命を縮めるほど驚いたと言うし。おれが今まで築き上げてきた「いい子の星見碧唯」の印象が、一夜にしてガラガラと崩れ落ちた。
さらに、おれは今から田沼先生を困らせることを言うことになる。言い出しっぺの茜理には、責任を取ってもらわなければならない。
そんなことを考えているうちに、がらり、と古びた引き戸を開けて、田沼先生が入って来る。糸のように細い目で微笑んで、おれの向かいに座った。
「どうしたの、碧唯くん」
気を遣わせないように配慮された空気、距離感。安心する自分もいれば、息が詰まる心地がしていたのも確かだった。まだ「いい子の星見碧唯」が完全に消え去ったわけではない。緊張で声が震えないように、おれは口を開く。
「あの……おれ、やってみたいことがあるんです」
「うん、いいね。どんなこと?」
田沼先生は、頭ごなしに否定をする人ではない。わざと遠回りな言い方をしたのは、その言葉に安心したいと無意識に思ったからだろうか。カラカラの喉をこじ開けて、核心に迫る希望を言葉にする。
「進学したいんです」
田沼先生の糸目が、わずかに見開かれる。そしてゆっくりと瞬きをして、うっとりと目を閉じた。
「理由を教えてくれるかしら」
ずっと、早く大人になりたいと思っていた。
施設の生活は窮屈で、お小遣いをもらうことすら心の負担だ。子どもが子どもでいられる場所――それは、運営された組織のなかには存在できない、理想郷でしかない。
大人は、躍起になって子どもを子どもたらしめようとする。いい子でいれば、飴を与える。悪いことをすれば、寄り添う。
「ひとりじゃないよ」
「キミは子どもなんだから」
「可哀想に」
大人からの言葉は、いつしか重たくのしかかってくるようになった。上手に寄りかかれたらよかったのだけど……おれは、他の人より、情と呼ばれるものが希薄らしかった。
自分が大人なら、このお金はかからない。自分が大人なら、大人たちの手を煩わせない。いつの日か、そうなのだと気づいたのだ。そのほかの可能性を考える隙もなく、妄信していた。
定時に通うという選択をするのも、けっこう勇気がいることだった。今日みたいに、この相談室で声を震わせて告げたのを思い出す。当然、田沼先生は嬉しそうに微笑んで、大賛成してくれたんだっけ。
就職のために、高卒の経歴が欲しいから。そんな浅はかな理由は、大喜びする大人たちに告げることはできなかった。今も先生たちは、おれが勉強に熱心だから通っているのだと、勘違いしたままだ。
その勘違いを、おれは……本当にしたいと思い至った。それはほかならない、有明茜理のおかげ。
「勉強は楽しくて……たぶん肌にあっているんだと思うんです。だから、高校だけで終わらせちゃうのがもったいなくて」
やりたいことは、まだわからない。だけど、誰かの書いた文章を紐解く時間が、誰かの証明した数式をなぞる感触が、楽しくて仕方ないのは本当だった。
もし、いそいで大人にならなくていいのだとしたら……なにかを勉強したという人生の実績が、欲しいと思ったのだ。
「お金も時間もかかるのは、わかってます。だけど……これからおれにできることを、探してみたいと思ったんです」
おれみたいな境遇の子だって、どんな姿にもなれるんだと証明したい。おれは、可哀想じゃない。自分で好きな道を選ぶことができるのだから。
言い切ったおれの言葉を聞いていた田沼先生が、口を押さえて上品に笑う。
「ふふ、ひょっとしていいお友だちができたんじゃない?」
「え?」
「ケンカしたり、悪だくみしたりする、お友だち」
あ……。頬がみるみるうちに赤くなっていく。田沼先生はとっくに、おれのうそに気づいていたのだ。
「あ、な、なんで」
「何年傍にいると思ってるの、碧唯くん」
田沼先生は丸い手を伸ばして、おれの頭を撫でる。
「素敵な決断だと思うわ。だけど、受験は大変よ」
「……はい」
「まずは、やりたいことを探して、進みたい大学を決めましょう」
「え、でも」
「まさか、ひとりで全部決めようとしてるの?」
おれは、そんなにもわかりやすいのだろうか。先生は、おれの子どもらしい覚悟すら手に取るように見抜いてしまったらしい。得意げに微笑んでいる。
「もちろん、一緒に選ばせてちょうだいね」
「わかりました……」
観念したおれの頭には、まだ先生の手が乗っている。
「いいお友だちができて、よかったわね」
子ども扱いされているとわかっているのに、それはひどく心地がよくて。おれはしばらく、されるがままに身を委ねたのだった。
施設のみんなで机を囲む夕飯が終わってから、おれ施設の先生――田沼先生に声をかける。リラックスした表情をちょっとだけ引き締めて、田沼先生はうなずく。
「相談室で待っていて」
他の子たちの世話をする先生を置いて、相談室の扉を開く。閉ざされた空間なんてない施設で、この部屋だけは唯一プライバシーが確立されていた。
おれがここに引き取られたのは、小学3年生くらいの時……だったらしい。その時のことは、正直あんまりよく覚えてない。だけど両親を一気に失って、子どもなりに不安を感じていたのは覚えている。
その当時から、田沼先生にはお世話になってきていた。基本優しく、時に厳しく。本物の母親みたいに接してくれる田沼先生から、身に余るほどの安心をもらって生活をしている。
そんな先生に面倒をかけたのは、この高校2年生にしてはじめてのことだった……と思う。他に手のかかる子が大勢いるんだ。せめて、おれだけは迷惑かけまいと行動していた。こうなったのは、すべてはあの有明茜理のせいだった。
突拍子もない悪だくみを思い出して、おれの唇がとがってしまう。
あまりに強引な手段で、茜理は大人たちに反旗を翻した。都合よく扱われるだけじゃないぞという、強い主張。おれひとりだったなら、そんなことしなかったはずだ。だけど……不覚にも面白そうだと思ってしまった。
そのおかげで、田沼先生は夜通しおれを探すはめになるし、学校の先生も寿命を縮めるほど驚いたと言うし。おれが今まで築き上げてきた「いい子の星見碧唯」の印象が、一夜にしてガラガラと崩れ落ちた。
さらに、おれは今から田沼先生を困らせることを言うことになる。言い出しっぺの茜理には、責任を取ってもらわなければならない。
そんなことを考えているうちに、がらり、と古びた引き戸を開けて、田沼先生が入って来る。糸のように細い目で微笑んで、おれの向かいに座った。
「どうしたの、碧唯くん」
気を遣わせないように配慮された空気、距離感。安心する自分もいれば、息が詰まる心地がしていたのも確かだった。まだ「いい子の星見碧唯」が完全に消え去ったわけではない。緊張で声が震えないように、おれは口を開く。
「あの……おれ、やってみたいことがあるんです」
「うん、いいね。どんなこと?」
田沼先生は、頭ごなしに否定をする人ではない。わざと遠回りな言い方をしたのは、その言葉に安心したいと無意識に思ったからだろうか。カラカラの喉をこじ開けて、核心に迫る希望を言葉にする。
「進学したいんです」
田沼先生の糸目が、わずかに見開かれる。そしてゆっくりと瞬きをして、うっとりと目を閉じた。
「理由を教えてくれるかしら」
ずっと、早く大人になりたいと思っていた。
施設の生活は窮屈で、お小遣いをもらうことすら心の負担だ。子どもが子どもでいられる場所――それは、運営された組織のなかには存在できない、理想郷でしかない。
大人は、躍起になって子どもを子どもたらしめようとする。いい子でいれば、飴を与える。悪いことをすれば、寄り添う。
「ひとりじゃないよ」
「キミは子どもなんだから」
「可哀想に」
大人からの言葉は、いつしか重たくのしかかってくるようになった。上手に寄りかかれたらよかったのだけど……おれは、他の人より、情と呼ばれるものが希薄らしかった。
自分が大人なら、このお金はかからない。自分が大人なら、大人たちの手を煩わせない。いつの日か、そうなのだと気づいたのだ。そのほかの可能性を考える隙もなく、妄信していた。
定時に通うという選択をするのも、けっこう勇気がいることだった。今日みたいに、この相談室で声を震わせて告げたのを思い出す。当然、田沼先生は嬉しそうに微笑んで、大賛成してくれたんだっけ。
就職のために、高卒の経歴が欲しいから。そんな浅はかな理由は、大喜びする大人たちに告げることはできなかった。今も先生たちは、おれが勉強に熱心だから通っているのだと、勘違いしたままだ。
その勘違いを、おれは……本当にしたいと思い至った。それはほかならない、有明茜理のおかげ。
「勉強は楽しくて……たぶん肌にあっているんだと思うんです。だから、高校だけで終わらせちゃうのがもったいなくて」
やりたいことは、まだわからない。だけど、誰かの書いた文章を紐解く時間が、誰かの証明した数式をなぞる感触が、楽しくて仕方ないのは本当だった。
もし、いそいで大人にならなくていいのだとしたら……なにかを勉強したという人生の実績が、欲しいと思ったのだ。
「お金も時間もかかるのは、わかってます。だけど……これからおれにできることを、探してみたいと思ったんです」
おれみたいな境遇の子だって、どんな姿にもなれるんだと証明したい。おれは、可哀想じゃない。自分で好きな道を選ぶことができるのだから。
言い切ったおれの言葉を聞いていた田沼先生が、口を押さえて上品に笑う。
「ふふ、ひょっとしていいお友だちができたんじゃない?」
「え?」
「ケンカしたり、悪だくみしたりする、お友だち」
あ……。頬がみるみるうちに赤くなっていく。田沼先生はとっくに、おれのうそに気づいていたのだ。
「あ、な、なんで」
「何年傍にいると思ってるの、碧唯くん」
田沼先生は丸い手を伸ばして、おれの頭を撫でる。
「素敵な決断だと思うわ。だけど、受験は大変よ」
「……はい」
「まずは、やりたいことを探して、進みたい大学を決めましょう」
「え、でも」
「まさか、ひとりで全部決めようとしてるの?」
おれは、そんなにもわかりやすいのだろうか。先生は、おれの子どもらしい覚悟すら手に取るように見抜いてしまったらしい。得意げに微笑んでいる。
「もちろん、一緒に選ばせてちょうだいね」
「わかりました……」
観念したおれの頭には、まだ先生の手が乗っている。
「いいお友だちができて、よかったわね」
子ども扱いされているとわかっているのに、それはひどく心地がよくて。おれはしばらく、されるがままに身を委ねたのだった。
