心の奥に刃は眠る

「戻るぞ」

 葛城(かつらぎ)の声がした。

 蓮司(れんじ)は、はっとして振り返る。

 葛城はもうライフルを消していた。
 いつもの冷静な顔で、壊れた図書室を見回している。

「戻るって、どうやって」

「出口を探す」

「出口?」

「他人の内界はこちらの消耗も激しい。長居は無用だ」

 言われて初めて、蓮司は自分の体が重くなっていることに気づいた。

 足が鉛のように重い。
 呼吸も浅い。
 走り回ったせいだけではない。

 図書室そのものが、こちらの体力をじわじわ吸っているような感覚があった。

「……なんか、だるい」

「内界に入った影響だ。ここは森下の認識でできている。長くいれば、こちらもその認識に引っ張られる」

「どういうことだよ」

「彼女が息苦しいと感じているなら、こちらも息苦しくなる。彼女が逃げ場がないと思っているなら、こちらの出口も見えにくくなる」

 蓮司は周囲を見た。
 歪に歪んだ図書室。
 確かに、ここに長くいたいとは思えない。

「出口なんかあるのかよ」

「ある」

 葛城は即答した。

「人に心の内を見せたい者は少ない。表層の内界なら、外へ出すための出口は比較的見つかりやすい」

「見せたくないなら、入口も作んなきゃいいだろ」

「本人が作っているわけではない。外界との接点が形になっているだけだ」

「また分かりにくい説明を」

「慣れろ」

「慣れるなって言っただろ」

「感覚には慣れるな。知識には慣れろ」

 葛城はそう言って、壊れた本棚の間を歩き出す。
 蓮司も宙を仰ぎながら後に続く。

 足元には、読めない本が散らばっていた。
 踏むと、紙の感触ではなく、湿った灰のような感触がした。

 蓮司は顔をしかめる。

「気色悪いな」

「彼女にとって、この場所は安心でもあり、圧迫でもあったのだろう」

「本が好きなんじゃねえのか」

「好きなものが、いつも救いになるとは限らない」

 葛城は淡々と言う。

「隠れる場所にもなる。逃げ込む場所にもなる。だが、閉じこもる場所にもなる」

 蓮司は崩れかけた本棚を見る。

 さっきまで、そこは森下栞(しおり)を守る壁だった。
 同時に、外へ出られなくする壁でもあった。

 その本棚の一部は、蓮司のティルヴァで大きく裂けていた。
 本は床に散らばり、棚板は折れ、奥の灰色の壁まで見えている。

「……これ、放っておいていいのかよ」

 蓮司は思わず呟く。
 葛城は足を止め、壊れた本棚を見た。

「完全には戻せない」

「戻せない?」

「ここは森下の内界だ。本来、私たちが勝手に手を加えるべき場所ではない」

 そう言いながら、葛城は右手を上げた。
 銃ではない。

 指先に、細い淡い光が集まる。
 それは弾丸のように鋭くはなく、煙のように薄く広がった。

 葛城が指先で空間をなぞる。

 裂けていた本棚の輪郭が、ゆっくりと重なっていく。
 折れた棚板が完全に元通りになるわけではない。

 ただ、傷口に薄い膜が張るように、形だけが整っていく。

 破片が灰色の霧へ溶ける。
 亀裂が目立たなくなる。
 倒れかけていた本棚が、かろうじて立つ形に戻る。

 蓮司は眉をひそめた。

「……何だ、それ」

「応急処置だ」

「応急処置?」

「精神世界の傷を、一時的に安定させている」

 葛城は淡々と言った。

「本当に治したわけではない。壊れていないように見せるだけだ」

 蓮司は本棚を見る。

 確かに、完全に直ったようには見えない。
 よく見れば、奥に細いひびが残っている。
 棚の形も、ほんの少し歪んでいた。

 だが、さっきよりはずっとましだった。

「それ、便利すぎねえか」

「便利ではある」

 葛城は否定しなかった。

「だが、万能ではない。本人の内界が拒めばすぐに剥がれる。深い傷ほどごまかしは効かない」

「潜心者なら誰でもできるのか?」

「いや。人による」

 葛城は壊れた本棚から目を離さずに言った。

「潜心者には、心象具とは別に、精神世界へ干渉する性質がある。私の場合は、こういう処置が比較的得意というだけだ」

「性質?」

「能力と言ってもいい」

 蓮司は自分の右手を見る。
 ティルヴァはもうない。

「俺にもあるのか」

「ある」

 葛城は即答した。
 蓮司は思わず顔を上げる。

「あるのかよ」

「いずれ発現するだろう」

「どんな能力だ」

「それは分からない」

 葛城は蓮司の右手を見る。

「だが、君の刃を見る限り、穏やかなものではないだろうな」

「勝手に不穏なこと言うな」

 蓮司はため息をつく。
 葛城はこちらを見ずに歩き続ける。
 
 通路を奥へと進むと、図書室の奥に小さな明かりが見えた。

 現実の図書室なら、そこに出口はない。
 壁か、書架があるだけの場所だ。

 だが、内界のそこには、薄く開いた扉があった。

 古い非常口のような扉だった。
 上部に緑色の表示灯のようなものがある。

「出口だ」

「分かりやすいな」

「今回はな」

「いつもこうなのか?」

「表層なら、大抵は。深く潜るほど分かりにくくなる。出口が扉とは限らない。階段、窓、穴、川、電車、あるいは誰かの声の場合もある」

「何でもありかよ」

「心の中だからな」

 葛城は扉の前で立ち止まった。
 蓮司もその横に並ぶ。

 振り返ると、机の下の栞が遠くに見えた。

 ファイルケースを抱えている。
 黒い影は消えた。
 だが、栞はまだそこにいた。

 蓮司はしばらく目を離せなかった。

「置いていくのか」

「私たちは彼女自身ではない」

「でも、まだあそこにいるだろ」

「そうだ」

「なら――」

「彼女が出るかどうかは、彼女の問題だ」

 葛城の声は冷たく聞こえた。
 蓮司は思わず睨む。

「突き放すのかよ」

「違う。今、無理に引き出せば、別の個所がもっと歪む」

 葛城は壊れた扉を見る。

「君は“恐怖の影”を退けた。扉も壊れた。外の声は、以前ほど怪物には見えないはずだ」

「だから?」

「そこから先は、彼女自身に動かせた方が安定する」

 蓮司は片方の眉毛を上げた。

「本人の意思を尊重するってことか?」

「効果が高い選択肢を取る。本人の意思に従う方が危険な場合もある」

 葛城の言っていることはもっともなのだろう。
 だが、感情が納得していない。

 助けた。
 でも、最後まで引っ張り出すことはできない。

 それが、妙に歯がゆかった。

「俺たちが引っ張り出すのは?」

「できなくはない」

「なら――」

「今回はその段階ではない。無理に引き出すより、出られる形を残しておく方がよい」

「……結局、効率の話か?」

「そうとも言えるな」

 葛城は静かに言った。

 蓮司はもう一度、栞を見る。
 机の下の栞は、ファイルケースを抱えたまま、こちらを見ているように見えた。

 いや、見ているのは蓮司ではない。
 壊れた扉の方だ。

 外へ続く場所。
 怖いものがいた場所。

 そして、今は少しだけ光が差している場所。

「行くぞ」

 葛城が扉を開ける。
 外から、灰色の光が流れ込んできた。

 蓮司は最後にもう一度だけ、机の下の栞を見る。
 栞はほんの少しだけ、ファイルケースを抱く腕の力を緩めたように見えた。

 気のせいかもしれない。
 それでも、蓮司はそう見えた。

 次の瞬間、視界が白くにじんだ。

 図書室が遠ざかる。
 高すぎる本棚も、読めない本も、ひび割れた机も、灰色の霧の向こうへ消えていく。

 足元の感覚が戻る。

 廊下の硬い床。
 放課後の空気。
 遠くから聞こえる部活の声。

 色が戻った。

 影が戻った。

 蓮司は現実の校舎の廊下に立っていた。