心の奥に刃は眠る

 蓮司(れんじ)は自分が生み出した刃と、散っていく影を見る。

 蓮司が斬った腕は、消えていた。
 葛城(かつらぎ)のライフルのように、影が残っていない。

 (俺の刃だと再生しない?)

 しかし、余韻に浸っている場合ではなかった。
 葛城の声が飛ぶ。

「止まるな。正面!」

 蓮司は意識を前に戻す。

「分かってる!」

 影の裂けた口が、目の前に迫っていた。
 蓮司はティルヴァを振り上げる。

 黒い刃が、口ごと影を斬り裂いた。
 影が大きくのけぞる。

 その奥からまた別の腕が迫っていた。

 ドン!

 葛城の銃弾が、腕の根元を撃ち抜いた。
 黒い腕が弾け、蓮司の横をかすめるように散る。

「左からも来るぞ。低い」

 蓮司は床を蹴った。
 足元を這ってきた黒い影を、ティルヴァで斬り払う。

 刃が床をかすめた。
 その瞬間、床に黒い亀裂が走る。

「っ……!」

 蓮司は一瞬だけ足を止める。

 今、床まで斬った。

 影だけではない。
 この図書室の一部まで。

「今は前を見ろ」

 葛城の声が飛ぶ。

「だが、覚えておけ。それがその刃の性質だ」

「後で説明しろよ!」

「無事に切り抜けられればな」

「縁起でもねえ!」

 蓮司は狭い通路を横に駆けた。

 本棚の間を抜ける。

 肩が棚にぶつかり、本が落ちる。
 背表紙の文字が擦れて消える。

 影が再び膨れ上がる。

 裂けた口が増える。
 腕が何本も伸びる。

 葛城が伸びた腕を迎撃するためにライフルを構えた。
 連続して銃声が響く。

 伸びた腕が次々に弾ける。
 だが、消えない。

 黒は戻る。
 影は再生する。

 蓮司は歯を食いしばった。

「きりがねえぞ!」

「本体を見ろ」

「本体?」

「影の奥だ。恐怖を保っている核がある」

 蓮司は影を見る。

「さっきの黒い杭だな!?」

「見えているな?」

「たぶん、あれが根だ!」

「なら、そこを狙え」

 葛城は影の腕を撃ち落としながら言った。

 短い命令だった。
 迷っている時間はなかった。

 黒い影が、森下へも迫っていた。
 机の下へ腕を伸ばす。

 森下のシンボルが、ファイルケースを抱きしめたまま震えている。

 逃げた自分が悪い。
 大ごとにした自分が悪い。

 言葉ではない。
 黒い杭の周囲にまとわりつく闇が、感覚的にそれを伝えている。

 蓮司はティルヴァを握り直した。

「ふざけんな」

 向きを変え、影へ向かって走る。
 葛城の銃声が背後から響く。

 蓮司に向かう腕が撃ち抜かれる。
 足元を這う黒が弾ける。
 裂けた口が後ろへ吹き飛ぶ。

 その隙間を、蓮司は突っ切った。

 狙うのは、黒い杭だけ。

 影ではない。
 腕でもない。
 口でもない。

 森下を縛る、その中心。

 腕がさらに伸び、四方から蓮司に迫る。

 蓮司は思いっきり地を蹴り、杭に向かって飛び込む。
 伸びた腕を置き去りにして、蓮司は空を切って舞う。

 現実では考えられない跳躍力だった。
 だが、それを実感している余裕は蓮司にはなかった。

 黒い腕の一本が蓮司の頬をかすめる。

 頬を刃で切られたような感覚が走る。
 血の代わりに、黒い染みが皮膚の上へ滲んだ。

 しかし、痛みはない。
 代わりに黒い感情が蓮司に流れ込んだ。

「……っ!」

 肉薄してくる蓮司を黒い影が包みこまんと大きく広がる。
 蓮司は構わず、飛び込んだ勢いにのせてティルヴァを振り下ろした。

 黒い影の大きさに対して、蓮司の刃は小さく見えた。
 だが、その刃は大小関係なく目の前に存在するものを切り裂いていた。

 影の圧力を物ともせず刃は進む。

 切り裂かれた影は蓮司のまわりに広がりながら散っていく。
 そしてついに、刃は本体の中心部へと届く。

 金属音のような甲高い衝撃音が響く。
 刃が杭に食い込む。
 杭が悲鳴を上げるように震える。

 蓮司は更に力を込める。

 黒い杭に、ひびが入る。
 影が大きく膨れ上がった。

 周囲の本棚が軋む。
 扉が割れる。
 机の脚がひび割れる。

 ファイルケースの角にも、細い亀裂が走った。

 葛城の声が飛ぶ。

「深く入れすぎるな!」

「分かって――」

 言いかけて、蓮司は止まった。
 分かっていなかった。

 振り下ろした勢いにのせて、ティルヴァから黒い刃が波動のように伸びていた。

 杭を斬るだけでは止まらない。
 黒い刃は、杭に絡みついた線も、その先につながる何かも、まとめて削り取ろうとしていた。

 図書室が震える。

 本棚が歪む。
 机の天板に亀裂が走る。

 森下のシンボルが、初めて蓮司を見た。
 無表情のはずなのに、怯えていると分かった。

 助けようとしている相手に、怖がられている。
 蓮司の胸が冷える。

「止めろ、高城!」

 葛城の声が、今度は命令ではなく警告として響いた。
 蓮司は歯を食いしばった。

「止まれよ……!」

 自分の右腕に力を込める。

 だが、ティルヴァの黒はさらに深くなる。

 パキィイン!

 刃が杭を砕いた。
 杭はガラスの破片のように飛散する。

 その瞬間、影の体が崩れた。

 裂けた口が消える。
 長い腕が煤になって散る。
 女子三人の形を残していた影も、黒い煙のようにほどけていく。

 図書室から黒い影の気配が薄くなっていく。

 図書室に、静けさが戻った。

 影は消えた。
 森下に伸びていた黒い腕も、もうない。

 蓮司は肩で息をしていた。

 右手のティルヴァは、まだそこにある。
 光を吸う黒い刃。

 杭は破壊した。
 図書室も静かになった。

 だが、同時に周囲の図書室はひどく傷ついていた。

 本棚の一部が崩れている。
 扉は半分ほど割れて、外へ続く形を失っていた。

 机にも大きなひびが入っている。
 森下が抱えていたファイルケースの角も欠けていた。

 蓮司は息を整えながら呟く。

「……やった、のか」

 葛城はすぐには答えなかった。
 ただ、壊れた本棚を見ていた。

 その沈黙が、妙に嫌だった。

「おい」

 蓮司は顔を上げる。
 葛城はゆっくりと蓮司を見る。

「……そうだな。少なくとも、あのまま影にのまれるよりはよかった」

 蓮司は眉をひそめた。

「何だよ、その言い方」

「必要だった、という意味だ」

 葛城は壊れた図書室へ視線を戻した。

「私のライフルでは届かなかった。君のティルヴァは根を断つことができた」

「じゃあ、問題ねえだろ」

「だが、雑だった」

 葛城は静かに言い放った。
 蓮司は言い返せなかった。

 雑。

 それはひどく腹立たしい言葉だった。
 だが、否定できなかった。

 影は消えた。
 森下は助かった。

 けれど、図書室は壊れている。

 蓮司は助けたのか。
 壊したのか。

 自分でも分からなかった。

 葛城の声が静かに響く。

「必要だったことと、傷を残さなかったことは違う」

 葛城は壊れたファイルケースを見る。

「影は壊した。森下を飲み込もうとしていた恐怖の形も断った。そこまではよかった」

 葛城の視線が、壊れたファイルケースに向く。

「だが、深く入りすぎた。彼女が自分で向き合うはずだった恐怖の一部まで削った可能性がある」

「可能性って何だよ」

「今は断定できない。だが、内界の傷は残っている」

 蓮司は壊れた図書室を見た。
 本棚や天井、机にも傷が残っている。

「俺のせいか」

「君だけの責任ではない」

 葛城は即答した。
 蓮司は思わず葛城を見る。

「指示したのは私だ。あの状況では、それが最善に近かった」

「じゃあ、何で俺に言うんだよ」

「次もその刃を振るうのは君だからだ」

 葛城の声は静かだった。
 蓮司は右手を見る。

 いつの間にか刃はなくなっていた。
 だが、握っていた感覚だけが残っている。

「壊す前に、その役割を考えろ」

 葛城は少し間をおいて続ける。

「今回は必要だった。だが、次も必要なものだけを壊せるとは限らない」

「あんな恐怖にも役割ってあんのかよ」

「ある場合がある」

「ある場合って何だよ」

「恐怖は、人を縛る。だが、危険から遠ざけることもある。罪悪感は人を苦しめる。だが、次に同じことをしないための警告にもなる」

 葛城の声は淡々としていた。

「君は今、それをまとめて壊しかけた」

「まとめて……」

 蓮司は壊れた図書室を見る。

 森下を守っていた机。
 逃げ道だったファイルケース。
 閉じこもるための図書室。

 それらは全部、森下を苦しめていた。
 でも、同時に森下を守ってもいたのかもしれない。

 蓮司は唇を噛んだ。

「じゃあ、どうすればよかったんだよ」

「それを考えるために、観察する」

 葛城は言った。

「そして、君を前に出すと判断した」

 蓮司は葛城を見る。

「だったら文句言うなよ」

「文句ではない。検証だ」

「ムカつく言い方すんな」

「必要な言い方だ」

 葛城は壊れた図書室を見回す。

「君には力がある。私のライフルでは届かない場所にも届く。だが、その分、余計なものまで削る」

「……」

「覚えておけ。力があることと、正しく使えることは違う」

 蓮司は何も言えなかった。

 そのとき、図書室全体が薄れ始めた。

 高すぎる本棚の輪郭がぼやける。
 狭い通路が灰色の霧に溶ける。

 現実へ戻る感覚。
 蓮司は最後に、机の下の森下を見た。

 森下はファイルケースを抱えたまま、少しだけ顔を上げていた。

 黒い影はもういない。

 だが、壊れた本棚の隙間から、薄い灰色の光が差し込んでいる。

 それが救いなのか、傷口なのか。

 蓮司には、まだ分からなかった。