軋んだ扉の木枠に走っていたひびが、一気に広がる。
次の瞬間、扉が内側へ弾け飛んだ。
黒い影が、雪崩れ込むように図書室へ入ってくる。
三つの人影だったものは、もう女子三人の形をほとんど残していなかった。
長い髪の名残のようなものが揺れ、制服の輪郭が溶け、裂けた口だけがいくつも開いている。
昨日、遥の背後にいた影と似ている。
だが、濃さが違う。
図書室の空気が、さらに重くなる。
机の下で、森下のシンボルがファイルケースを抱きしめたまま身を縮めた。
「下がれ」
葛城の声が飛ぶ。
蓮司が反応するより早く、葛城の右手に黒い輪郭が組み上がった。
長く、細い。
見覚えのある形。
スナイパーライフル。
葛城は構える。
ドン。
乾いた音が、図書室の中で低く響いた。
先頭の影の肩が弾ける。
黒い塊が壁へ吹き飛び、本棚にぶつかって散った。
「すげぇ……」
蓮司は思わず呟く。
前と同じようにライフルで黒い影を散らせば終わりだ。
森下の恐怖は消え、元に戻る。
何をためらう必要があったのか。
蓮司は葛城の様子を確認する。
蓮司の予想とは裏腹に、葛城は渋い表情のままだった。
視線はずっと前を向いている。動いていない。
その視線の先は先ほど撃ち抜いた黒い影だった。
そして、撃ち抜いたはずの黒い影はまだ動いていた。
「……っ」
蓮司は眼を見開く。
床に落ちた煤のような黒が、寄り集まっている。
一つに固まる。
裂けた口が開く。
影は何事もなかったかのように、こちらへ向き直った。
「戻った……?」
蓮司は思わず声を漏らした。
葛城は続けて撃つ。
ドン。
今度は胸が砕ける。
それでも影は崩れきらない。
散った黒が、周囲に漂う空気に引き寄せられるように戻っていく。
「やはり、だめか」
葛城の声は冷静だった。
「撃ち抜いても戻る。根が内側にある」
「内側?」
「外から来た悪意だけではない。彼女の恐怖が、この形を保っている」
蓮司は机の下の森下を見る。
森下は動けない。
ファイルケースを抱えたまま、ただ震えている。
影がさらに近づく。
狭い通路の本棚が、きしむように歪む。
黒い腕が、棚の間を這うように伸びていく。
蓮司の胸がざわついた。
このままでは、届く。
葛城はもう一度、撃つ。
弾が当たり、影は崩れる。
だが、消えない。
時間稼ぎにしかなっていない。
なら、どうすればいい。
焦りが湧き上がる。
自分には何ができる。
そのとき、蓮司は思い出した。
――まずは観察からだ。役割を考えろ。
昨日、数学準備室を出る直前に葛城が言った言葉。
腹立たしいほど、頭に残っている。
蓮司は唇を噛み、影を見た。
ただ黒いだけではない。
影の中心。
裂けた口の奥。
そこに、一本の黒い杭のようなものを発見する。
影の体を貫くように立っている。
外側の輪郭は揺らめいているのに、その芯だけは微動だにしていない。
その芯は、図書室の床に突き刺さっているように見える。
蓮司は息をのむ。
「……あれは」
「何が見える」
葛城が銃口を向けたまま問う。
「影の中に、杭みたいなのがある。床下に伸びてる」
「続けろ」
「女子三人から伸びてるんじゃない。別の方向か?」
肉眼で見えているわけではない。
だが、感じる。
黒いオーラが続いていることが。
その方向は女子三人のシンボルからではない。
むしろ、その逆。
「これは……森下からか?」
言いながら、蓮司は自分でも混乱する。
だが、見えているもの、感じるものはそうだった。
影を生かしているのは、扉の外にいた女子三人だけではない。
森下自身の中にある、何かだ。
逃げた自分が悪い。
大ごとにした自分が悪い。
怖がっている自分が悪い。
言葉として聞こえたわけではない。
けれど、杭の周囲にまとわりつく黒さを見ていると、そういうものに思えた。
女子三人が何かをするより先に、森下は自分で自分を責めている。
その恐怖が、影を濃くしている。
「見えたな。次の段階だ」
葛城はライフルを構えたまま、こちらを見ずに言う。
「観察の次は、行動だ。処理するぞ」
「どうやって」
影がまた一歩、前へ出る。
森下のシンボルが、机の下でさらに小さくなる。
蓮司は前へ出た。
足を踏み出し、手を伸ばそうとする。
その瞬間、葛城が蓮司の肩をつかんだ。
「そこは深い。そのまま触れるな」
「でも、あれをどうにかしねえと」
「触れれば、彼女の恐怖が君に干渉する」
「だからって、見てるだけかよ」
「方法を選べ」
「その方法が分かんねえって言ってんだろ!」
蓮司の声が、図書室の中で跳ね返る。
影は止まらない。
黒い腕が、机の足元へ伸びる。
あと少しで、森下に届く。
葛城の銃声が響く。
ドン!
腕が弾ける。
だが、黒はまた戻る。
戻るたびに、影は少しずつ森下へ近づいていく。
蓮司の中で、何かがせり上がった。
助けたい。
そんなきれいな言葉では足りない。
目の前で震えているものを、これ以上そのままにしておけない。
このまま見ていろと言われても、無理だった。
「どうしろってんだよ!」
叫んだ瞬間だった。
頭の奥で、何かが割れた。
暗い廊下。
泣いている誰か。
怒鳴り声。
手を伸ばしても届かない背中。
守りたいと思った。
止めたいと思った。
そして。
目の前の何かに、何かを振り下ろした。
記憶?
映像?
あいまいな何か。
断片だけが、焼けつくように浮かび上がって、すぐに沈む。
だが、感覚だけは残った。
壊せば、止まる。
蓮司の右手に、黒い輪郭が集まった。
最初は、影のように見えた。
けれど、指の中でそれは形を得ていく。
刃だった。
剣と呼ぶには歪で、影と呼ぶには重すぎる。
光を吸うような漆黒。
輪郭は曖昧なのに、そこにあることだけは異様にはっきりしている。
握った瞬間、周囲の灰色がわずかに軋んだ。
刃の波動が空間に伝わる。
本棚の背表紙が震える。
狭い通路の空気が、一瞬だけ沈む。
葛城の目が、細くなった。
「……ティルヴァ」
蓮司は自分の手元を見る。
黒いオーラをまとったどす黒い刃が掌の中にあった。
知らない名前だった。
「何だよ、それ」
「君の心象具だ」
「俺の?」
葛城は答える代わりに、ライフルを構え直した。
黒い影が、向きを変えていた。
こちらへ向かってさらに膨れ上がる。
「構えろ。来る」
葛城の声が、灰色の図書室に落ちる。
蓮司は右手の黒い刃を見つめたまま、まだ動けずにいた。
ティルヴァ。
葛城は、そう呼んだ。
聞いたことのない名前だった。
手の中にある黒い刃は、重い。
鉄の重さではない。
もっと深い場所に沈むような重さだった。
握っているだけで、指先から腕へ、腕から胸の奥へ、何かが流れ込んでくる。
黒い影が、通路の奥で膨れ上がる。
裂けた口がいくつも開く。
長い腕が本棚を這い、狭い通路を塞ぐ。
そのすべてがこちらを向いていた。
森下に向かっていた時よりも、大きく膨れ上がっている。
「敵性がこちらに向いた。迎撃するぞ」
「迎撃って……あんたのライフルでも効いてねえだろ!」
「君の刃なら届く。構えろ」
「んなこと言われても、使い方なんか知らねえぞ」
「知っているはずだ。手が動く」
「無茶言うな」
「君が前衛だ」
葛城の声が、初めて教師のものではなくなった。
戦場で命令を下す声だった。
葛城は後ろに跳び引く。
「援護する」
蓮司は葛城を振り返る。
「俺が前かよ!?」
「前を見ろ。来るぞ」
黒い腕が、こちらに迫る。
速くはない。十分目で追える。
蓮司は慌てて刃を構える。
だがこちらに届くよりも前に、腕は進路を横方向に変える。
(遥のときと動きが違う!)
直線的な動きを予想していたため、とっさの変化に蓮司は反応が遅れる。
黒い腕は右側面から回り込むように蓮司に迫っていた。
「右!」
葛城の声に、蓮司は無我夢中で右へ刃を振った。
手応えがあった。
遅れて視線を右に移すと、ティルヴァが黒い腕を斬り飛ばしていた。
断ち切られた腕が煤になって散っていく。
それは普通のものを斬った感覚ではなかった。
肉でもない。
木でもない。
紙でもない。
そこにあった意味ごと、削り取ったような感覚だった。
「斬れた……」
次の瞬間、扉が内側へ弾け飛んだ。
黒い影が、雪崩れ込むように図書室へ入ってくる。
三つの人影だったものは、もう女子三人の形をほとんど残していなかった。
長い髪の名残のようなものが揺れ、制服の輪郭が溶け、裂けた口だけがいくつも開いている。
昨日、遥の背後にいた影と似ている。
だが、濃さが違う。
図書室の空気が、さらに重くなる。
机の下で、森下のシンボルがファイルケースを抱きしめたまま身を縮めた。
「下がれ」
葛城の声が飛ぶ。
蓮司が反応するより早く、葛城の右手に黒い輪郭が組み上がった。
長く、細い。
見覚えのある形。
スナイパーライフル。
葛城は構える。
ドン。
乾いた音が、図書室の中で低く響いた。
先頭の影の肩が弾ける。
黒い塊が壁へ吹き飛び、本棚にぶつかって散った。
「すげぇ……」
蓮司は思わず呟く。
前と同じようにライフルで黒い影を散らせば終わりだ。
森下の恐怖は消え、元に戻る。
何をためらう必要があったのか。
蓮司は葛城の様子を確認する。
蓮司の予想とは裏腹に、葛城は渋い表情のままだった。
視線はずっと前を向いている。動いていない。
その視線の先は先ほど撃ち抜いた黒い影だった。
そして、撃ち抜いたはずの黒い影はまだ動いていた。
「……っ」
蓮司は眼を見開く。
床に落ちた煤のような黒が、寄り集まっている。
一つに固まる。
裂けた口が開く。
影は何事もなかったかのように、こちらへ向き直った。
「戻った……?」
蓮司は思わず声を漏らした。
葛城は続けて撃つ。
ドン。
今度は胸が砕ける。
それでも影は崩れきらない。
散った黒が、周囲に漂う空気に引き寄せられるように戻っていく。
「やはり、だめか」
葛城の声は冷静だった。
「撃ち抜いても戻る。根が内側にある」
「内側?」
「外から来た悪意だけではない。彼女の恐怖が、この形を保っている」
蓮司は机の下の森下を見る。
森下は動けない。
ファイルケースを抱えたまま、ただ震えている。
影がさらに近づく。
狭い通路の本棚が、きしむように歪む。
黒い腕が、棚の間を這うように伸びていく。
蓮司の胸がざわついた。
このままでは、届く。
葛城はもう一度、撃つ。
弾が当たり、影は崩れる。
だが、消えない。
時間稼ぎにしかなっていない。
なら、どうすればいい。
焦りが湧き上がる。
自分には何ができる。
そのとき、蓮司は思い出した。
――まずは観察からだ。役割を考えろ。
昨日、数学準備室を出る直前に葛城が言った言葉。
腹立たしいほど、頭に残っている。
蓮司は唇を噛み、影を見た。
ただ黒いだけではない。
影の中心。
裂けた口の奥。
そこに、一本の黒い杭のようなものを発見する。
影の体を貫くように立っている。
外側の輪郭は揺らめいているのに、その芯だけは微動だにしていない。
その芯は、図書室の床に突き刺さっているように見える。
蓮司は息をのむ。
「……あれは」
「何が見える」
葛城が銃口を向けたまま問う。
「影の中に、杭みたいなのがある。床下に伸びてる」
「続けろ」
「女子三人から伸びてるんじゃない。別の方向か?」
肉眼で見えているわけではない。
だが、感じる。
黒いオーラが続いていることが。
その方向は女子三人のシンボルからではない。
むしろ、その逆。
「これは……森下からか?」
言いながら、蓮司は自分でも混乱する。
だが、見えているもの、感じるものはそうだった。
影を生かしているのは、扉の外にいた女子三人だけではない。
森下自身の中にある、何かだ。
逃げた自分が悪い。
大ごとにした自分が悪い。
怖がっている自分が悪い。
言葉として聞こえたわけではない。
けれど、杭の周囲にまとわりつく黒さを見ていると、そういうものに思えた。
女子三人が何かをするより先に、森下は自分で自分を責めている。
その恐怖が、影を濃くしている。
「見えたな。次の段階だ」
葛城はライフルを構えたまま、こちらを見ずに言う。
「観察の次は、行動だ。処理するぞ」
「どうやって」
影がまた一歩、前へ出る。
森下のシンボルが、机の下でさらに小さくなる。
蓮司は前へ出た。
足を踏み出し、手を伸ばそうとする。
その瞬間、葛城が蓮司の肩をつかんだ。
「そこは深い。そのまま触れるな」
「でも、あれをどうにかしねえと」
「触れれば、彼女の恐怖が君に干渉する」
「だからって、見てるだけかよ」
「方法を選べ」
「その方法が分かんねえって言ってんだろ!」
蓮司の声が、図書室の中で跳ね返る。
影は止まらない。
黒い腕が、机の足元へ伸びる。
あと少しで、森下に届く。
葛城の銃声が響く。
ドン!
腕が弾ける。
だが、黒はまた戻る。
戻るたびに、影は少しずつ森下へ近づいていく。
蓮司の中で、何かがせり上がった。
助けたい。
そんなきれいな言葉では足りない。
目の前で震えているものを、これ以上そのままにしておけない。
このまま見ていろと言われても、無理だった。
「どうしろってんだよ!」
叫んだ瞬間だった。
頭の奥で、何かが割れた。
暗い廊下。
泣いている誰か。
怒鳴り声。
手を伸ばしても届かない背中。
守りたいと思った。
止めたいと思った。
そして。
目の前の何かに、何かを振り下ろした。
記憶?
映像?
あいまいな何か。
断片だけが、焼けつくように浮かび上がって、すぐに沈む。
だが、感覚だけは残った。
壊せば、止まる。
蓮司の右手に、黒い輪郭が集まった。
最初は、影のように見えた。
けれど、指の中でそれは形を得ていく。
刃だった。
剣と呼ぶには歪で、影と呼ぶには重すぎる。
光を吸うような漆黒。
輪郭は曖昧なのに、そこにあることだけは異様にはっきりしている。
握った瞬間、周囲の灰色がわずかに軋んだ。
刃の波動が空間に伝わる。
本棚の背表紙が震える。
狭い通路の空気が、一瞬だけ沈む。
葛城の目が、細くなった。
「……ティルヴァ」
蓮司は自分の手元を見る。
黒いオーラをまとったどす黒い刃が掌の中にあった。
知らない名前だった。
「何だよ、それ」
「君の心象具だ」
「俺の?」
葛城は答える代わりに、ライフルを構え直した。
黒い影が、向きを変えていた。
こちらへ向かってさらに膨れ上がる。
「構えろ。来る」
葛城の声が、灰色の図書室に落ちる。
蓮司は右手の黒い刃を見つめたまま、まだ動けずにいた。
ティルヴァ。
葛城は、そう呼んだ。
聞いたことのない名前だった。
手の中にある黒い刃は、重い。
鉄の重さではない。
もっと深い場所に沈むような重さだった。
握っているだけで、指先から腕へ、腕から胸の奥へ、何かが流れ込んでくる。
黒い影が、通路の奥で膨れ上がる。
裂けた口がいくつも開く。
長い腕が本棚を這い、狭い通路を塞ぐ。
そのすべてがこちらを向いていた。
森下に向かっていた時よりも、大きく膨れ上がっている。
「敵性がこちらに向いた。迎撃するぞ」
「迎撃って……あんたのライフルでも効いてねえだろ!」
「君の刃なら届く。構えろ」
「んなこと言われても、使い方なんか知らねえぞ」
「知っているはずだ。手が動く」
「無茶言うな」
「君が前衛だ」
葛城の声が、初めて教師のものではなくなった。
戦場で命令を下す声だった。
葛城は後ろに跳び引く。
「援護する」
蓮司は葛城を振り返る。
「俺が前かよ!?」
「前を見ろ。来るぞ」
黒い腕が、こちらに迫る。
速くはない。十分目で追える。
蓮司は慌てて刃を構える。
だがこちらに届くよりも前に、腕は進路を横方向に変える。
(遥のときと動きが違う!)
直線的な動きを予想していたため、とっさの変化に蓮司は反応が遅れる。
黒い腕は右側面から回り込むように蓮司に迫っていた。
「右!」
葛城の声に、蓮司は無我夢中で右へ刃を振った。
手応えがあった。
遅れて視線を右に移すと、ティルヴァが黒い腕を斬り飛ばしていた。
断ち切られた腕が煤になって散っていく。
それは普通のものを斬った感覚ではなかった。
肉でもない。
木でもない。
紙でもない。
そこにあった意味ごと、削り取ったような感覚だった。
「斬れた……」
