心の奥に刃は眠る

 そのとき、蓮司(れんじ)は自身の肩に手が置かれるのを感じた。

「入るぞ」

 それと同時に、視界がゆがむ。

「っ……」

 振り返ると葛城(かつらぎ)がいた。

「いきなりかよ」

「そうだ。意識を合わせろ」

 世界の歪みが大きくなる。

「簡単に言うな」

「前にも入った。できないわけではないはずだ」

「勝手に入っただけだろ」

「なら、今度は意識して入れ」

 蓮司は舌打ちしたくなったが、言い返している場合ではなかった。
 呼吸を整え、目の前の光景を見る。

 現実を映すのではなく、その奥にあるものを見る。

 だんだんと音が遠くなる。

 窓の外の声。
 廊下を歩く生徒の足音。
 部活の掛け声。

 それらが、水の中に沈むように鈍くなる。

 夕方の赤が灰色に変わる。
 校舎の影が消える。

 次の瞬間、蓮司は色のない外界の廊下に立っていた。

「入ったな」

 蓮司は息を吐きながら葛城をにらむ。

「もう少し心の準備をさせろよな」

「私の補助があったとはいえ、上出来だ」

「うるさい。ここは気分が悪くなるんだよ」

「よい傾向だ。ここには慣れるな」

「は?」

「気持ち悪いと思えるうちは、まだ正常に見れている」

 葛城はそう言って、灰色の廊下の奥へ視線を向けた。
 そこには、森下のシンボルがいた。
 現実の森下と同じ位置にいるわけではない。

 少しずれている。
 鞄を抱え込むような姿勢。

 灰色の森下は、無表情だった。
 だが、鞄だけが異様に黒い。

 蓮司は眉をひそめた。

「鞄が……」

「見えるか」

「ああ。黒い」

「近づくぞ」

 葛城が歩き出す。
 蓮司も後に続いた。

「意識を集中しろ。彼女の内側に入る」

「内側?」

「彼女の恐怖の根源を探る必要がある」

 葛城はそう言うと、森下のシンボルに手をかざす。
 森下のシンボルは無反応だ。

 しかし、周囲の空気が重くなる。
 森下の足元がゆがんだかと思うと、扉のようなものが現れた。

 いや、扉というより、図書室の入り口に似ている。

「彼女自身の精神世界、内界(ルーム)への入り口だ」

「いきなり入るのかよ」

「深くは入らない。本来なら、まだ君を連れて入る段階ではない」

「じゃあ、なんで」

「今、見る必要がある」

 葛城はそれだけ言うと、足元の扉へと一歩踏み出す。

「いくぞ。意識を切らすな」

 蓮司の戸惑いなどお構いなしに、葛城は進む。

 色々言いたいこともあるが、置いてけぼりにされるわけにはいかない。
 蓮司は少しためらうも、後に続く。

 扉に踏み込んだ瞬間、足元が抜けた。

 しかし、落ちる感覚はない。
 むしろ、周囲の方が裏返っていく。

 色のない廊下が遠のき、空気の密度が変わる。

 次に蓮司が立っていたのは、図書室だった。
 現実の学校の図書室と、形だけは似ている。

 だが、何もかもがおかしい。

 蓮司は首を回して周囲を見る。

 まず、本棚が高すぎる。
 天井に届くどころか、その先が灰色の靄に消えている。

 通路は狭すぎた。
 人一人が通るのがやっとで、少し体を傾けなければ肩が本棚に触れそうになる。

 棚には無数の本が詰まっている。
 だが、背表紙の文字はどれも読めない。

 文字のようなものは並んでいるのに、目を向けた途端に擦れて、意味を失っていく。

 窓はなかった。
 外の景色もない。

 あるのは、延々と続く本棚と、逃げ道を狭めるような通路だけ。

 蓮司は、思わず息を止めた。

 外界は、まだ現実に似ていた。
 現実の裏に、薄い膜が重なっているようなものだった。

 だが、ここは違う。

 同じ学校の図書室を元にしているはずなのに、まるで別の場所だった。
 心の中では、現実はこんなにも歪むのか。

 蓮司は初めて、それを実感した。

「これが……内界」

「その表層だ」

 葛城の声が、静かな図書室の中に響く。

「本人の認識が、より強く形になる。外界よりも、現実から離れる」

「息がつまるな」

「それが内界だ」

 葛城は奥へ視線を向けた。
 細い通路の先に、机が一つだけ置かれている。

 その机の下に、森下のシンボルがいた。

 膝を抱え、その胸元にはファイルケースを抱きしめている。
 中には、財布が見えた。

 蓮司は足を止める。

「……財布がある」

「見えるな」

 蓮司は机の下の森下を見る。

 ファイルケースを守るように抱えている。
 無表情だが、肩を小刻みに震わせている。
 全身から脅えがにじんでいた。

「ここは森下の内界だから、森下の認識で構成されるんだよな?」

「そうだ」

「財布を必死に守っているように見える。やっぱり、盗られたからか?」

「図書室で財布を守るのか?」

「……」

 蓮司は考え込む。

 そのとき、図書室の入り口側から、鈍い振動が伝わった。

 ドン。

 音ではない。
 だが、扉が叩かれたことだけは分かった。

 蓮司が振り返る。

 入口の外に、影が三つ立っていた。

 髪の長さ。
 スカートの形。
 立ち方。

 女子三人に似ている。
 ただし、顔はない。

 三つの影は、扉の向こうで立ち尽くし、時折そこを叩いていた。

 ドン。

 扉が揺れるたび、机の下の森下がびくりと震える。
 ファイルケースを抱きしめる腕に、さらに力がこもる。

「やっぱり、あいつらじゃねえか」

「何がだ」

「森下を追い詰めてる」

「それは見える」

「なら――」

「財布はどこにある?」

 葛城の声が、静かに割り込んだ。

 蓮司は、はっとなる。
 もう一度、机の下を見る。

 財布は、ファイルケースの中にある。
 そのファイルケースを抱えているのは、森下だ。

 女子三人の影は、扉の外にいる。
 中には入っていない。

 葛城は言った。

 精神世界は本人の認識で構成されると。
 事実と異なる可能性もあると。

 ここは森下の内界ということは、森下の認識で構成されている。

 しかし、この状況は盗られた財布を守っているというよりは、これから来る三人の恐怖に怯えているように見える。

 財布といっしょに。

(そういうことかよ……)

 理屈ではない。ただ、感覚的に蓮司は悟った。

「……森下か」

 口に出した瞬間、胸の中に嫌なものが落ちた。

 財布がなくなれば、教師が動く。
 終礼後、すぐには帰れなくなる。
 放課後に呼び出されることも避けられる。

 あの三人に何かされたわけではない。
 だが、何かされるかもしれないと思った。

 だから、自分で財布を遠ざけた。

「森下は、自分で隠したのか」

「その可能性は高い」

 葛城は即答する。
 もともと答えとして持っていたようだ。

 だが、それを蓮司に教えることなく自分で気づかせる方向にもっていった。

 蓮司は顔をしかめる。
 葛城のやり方にも。
 森下のやり方にも。

「だったら、先生に言えばいいだろ。怖いなら怖いって」

「言える者ばかりなら、財布は消えない」

 葛城の言葉は淡々としていた。
 だが、蓮司には妙に重く響く。

 机の下の森下は、灰色の顔を伏せている。
 扉がまた叩かれる。

 ドン。

 森下のシンボルが縮こまる。
 蓮司は一歩、奥へ進もうとした。
 それを葛城が腕をつかんで止める。

「待て」

「何でだよ」

「他人の内界に入ったばかりだ。ここでは、外界よりも慎重になれ」

「でも、あのままだと」

「まず見ろ」

「またそれか」

「またそれだ」

「見るだけでどうにかなんのかよ」

「見る前に動けば、もっと悪くなる」

 蓮司は葛城をにらむ。

 理屈は分かる。
 分かるが、納得はできない。

 森下は目の前で怯えている。
 扉の外では、三つの影が叩いている。

 それを見ているだけというのは、蓮司には耐え難かった。

「高城」

 葛城の声が少し低くなる。

「彼女の恐怖は、あの三人だけでできているわけではない」

「どういう意味だよ」

「見ろ。扉の外だけではない」

 蓮司は言われて、もう一度図書室を見る。
 最初は扉の影ばかり見ていた。

 だが、よく見ると、黒いものはそれだけではない。

 森下が抱えるファイルケース。
 その中の財布。

 そこから、細い黒い線が伸びている。
 線は森下の腕に絡み、胸のあたりへと入り込んでいた。

 蓮司は眉をひそめる。

「……自分で逃げ道を作って、自分で縛られてんのか」

「近い」

「面倒くせえな」

「心とはそういうものだ」

 葛城は、昨日と同じ調子で言った。

 腹立たしい。
 だが、目の前の光景を見ると否定しにくい。

 森下は助けを求めていない。

 少なくとも、現実では。

 ただ、財布を遠ざけた。
 隠した。
 騒ぎを起こした。

 その結果、一度は逃げられた。
 だが今度は、逃げたことそのものが森下を責めているのだ。

 扉の外で、影がまた動く。

 ドン。

 今度は、扉の木枠にひびが入った。

 蓮司が息をのむ。

「おい」

 葛城の表情が、わずかに引き締まる。

「恐怖が、現実の出来事より大きく育っている」

 扉の外の三つの影が、少しずつ黒く濃くなっていく。
 女子三人に似た形。
 しかし、もう現実の三人そのものには見えない。

 顔のない頭。
 裂けたような口。
 長く伸びる指。

 昨日、遥を縛っていた影に似ている。
 だが、あれよりも輪郭がはっきりしていた。

 扉がまた叩かれる。

 ドン。

 ひびが広がる。

 森下のシンボルが、机の下でさらに小さくなる。

 蓮司は拳を握った。

「このまま見てるだけか」

「今はまだだ」

「まだって、いつまでだよ」

 葛城は答えない。

 ただ、扉と森下だけでなく、図書室全体を見ている。

 そこで、蓮司は気づいた。

 葛城は止めているのではない。
 見極めている。

 どこで介入すべきか。
 何に触れていいのか。
 どこまでなら許されるのか。

 それを測っている。

 蓮司には、それがひどく遅く見えた。

 扉の向こうで、黒い影が1つ、顔のない頭を傾けた。

 次の瞬間。

 扉が、大きく軋んだ。
 ひびの1つが割れ、隙間ができる。

 森下のシンボルが、声にならない悲鳴を上げる。

 黒い影が、扉の隙間から指を差し込んでくる。

 細く、長い指。

 それが、ゆっくりと内側へ入ってくる。
 森下はファイルケースを抱きしめたまま、動けない。

 蓮司は息をのんだ。

 これが森下の精神世界。
 これが森下の認識。

 財布は、たぶん盗まれていない。
 森下が自分で遠ざけた。

 女子三人は、現実では本当に財布のことを聞こうとしているだけかもしれない。

 だが、森下の中では違う。
 三人はもう、ただの同級生ではない。

 扉を叩く影だ。
 逃げ道を塞ぐものだ。
 言えない言葉を、無理やり引きずり出そうとするものだ。

 少なくとも森下はそう思っている。
 蓮司は拳を強く握った。
 灰色の世界の中で、指先がわずかに疼く。

 昨日、糸を切ったときの感覚。

 黒い線。
 刃。
 切断。

 右手の奥で、まだ形にならない何かが軋んだ。

 扉の隙間が、さらに広がる。
 黒い影の腕が、中へ伸びる。

 机の下の森下へ向かって。

 蓮司はただ、それを見ていた。
 見ているしかなかった。

 だが、その胸の奥では、はっきりと別の感情が膨らんでいた。

 こんなものを、放っておけるのか。

 灰色の図書室で、扉がもう一度、大きく軋んだ。