心の奥に刃は眠る

 次の日。

 朝のホームルーム直前、教室の前の扉が開いた。
 担任が入ってくる。その少し後ろから、森下も入ってきた。

 教室の空気が、わずかに変わる。

 担任と一緒に来るということは――

 蓮司(れんじ)は森下を見た。
 顔色は昨日よりましだった。だが、晴れた顔ではない。

 担任は教卓の前に立ち、出席簿を置いた。

「昨日の財布の件について連絡します」

 教室が静かになった。

「森下さんの財布は、今朝、図書室で見つかりました。置き忘れてあったファイルケースの中に入っていたそうです」

 ざわ、と小さなどよめきが起こる。

「盗難ではありませんでした。昨日も言いましたが、憶測で誰かを疑うようなことはしないように」

 蓮司は頬杖をついたまま、隣の森下を見た。
 森下は小さく頭を下げる。

「すみませんでした……」

 声は小さかった。

 何人かが「見つかってよかったね」と声をかける。
 森下は曖昧に笑った。

 蓮司はその顔に違和感を覚える。

 普通なら、財布が戻った安堵に、騒ぎにした恥ずかしさや申し訳なさが混ざるはずだ。
 しかし、森下の表情にはまだ暗さが残っていた。

 まだ、何かある……?

 蓮司は直感的に感じる。

 森下を呼び出そうとしていた女子三人。

 財布は盗まれていなかった。
 けれど、本当にただの置き忘れだったのか。

 蓮司は教室を見回すふりをして、女子三人を確認する。
 三人は小さく目配せしていた。一人は不満そうに口をとがらせている。

 それだけで、蓮司の中では答えが半分決まりかけていた。

(やっぱり、あいつらか)

 ただ、置き忘れであれば、それ以上この場で話すことは何もない。
 表向きの対応はこれで終わりである。

 担任はいつも通りの連絡事項に移る。

 午前の授業は、いつもより長く感じた。

 森下は普通に授業を受けている。
 だが、ノートを取る手は遅い。教師に当てられると、少し遅れて返事をする。

 女子三人は、いつも通り固まって話していた。
 ただ、声は昨日より少し小さい。反省というより、周囲の目を気にしているように見える。

 蓮司にわかることはそれくらいだった。

 昼休み。

 自分の席で色々と逡巡していた蓮司だったが、大きく息を吐いて弁当を持ち立ち上がる。
 葛城(かつらぎ)の想定通りに動くのも癪だが、今の自分にできることが少なすぎた。

 行きたくて行くわけじゃない。
 昨日と同じ言い訳を心の中で呟きながら、蓮司は数学準備室へと向かう。

 扉を叩くと、すぐに葛城の声がした。

「入れ」

 中に入ると、葛城はいつもの机に座っていた。
 机の上には、購買のパンと紙パックのコーヒーがある。

「先生も飯食うんですね」

「教師も人間だからな」

「昨日の話聞いた後だと、信じにくいですけどね」

「現実では人間だ」

「精神世界では?」

 葛城は蓮司をまっすぐに見る。

「精神世界でも人間だ。人間でなくなるものは、長くはもたない」

 蓮司も葛城を真っ直ぐに見返す。

「……あんた、何者なんだよ」

「なるほど、昨日の続きだな」

 葛城は紙パックのコーヒーを一口飲んだ。

「ただの人間だ。少し早くから精神世界を知っていただけだ。知っていることは君より多いが、それだけだ」

 蓮司も席に座りながら、弁当を広げる。

「誰でも入れるものなのか?」

「いや。意図的に入れる者とは、数えるほどしか会ったことがない。そういう者を潜心者――メルソルと呼んでいる。覚醒する仕組みは、私も知らない」

「何で俺が?」

「それは分からない」

「あんたはどうやって?」

「物心つく頃には入れた。きっかけは覚えていない。ただ、私には師がいた」

 葛城は蓮司を見る。

「この世界は一人で乗り越えられるほど甘いものではない。師の存在は大きい」

「それで、今度はあんたが俺の師匠気取りってわけか」

「気取りではない。必要なら教える」

「必要って、誰にとってだよ」

 葛城は紙パックのコーヒーを机に置いた。

「君にとって。そして、周囲にとってだ」

「周囲?」

「外界で敵性を持ったものは、本人の中だけで完結しないことがある。昨日の影もそうだ。放置すれば、瀬川(せがわ)だけでなく、君にも干渉していた」

 蓮司は昨日の黒い腕を思い出した。
 受けていたらどうなっていたのか。

「……森下の件も、そうなるってことか」

「可能性はある」

「だから、助ける?」

「助ける、という言葉は曖昧だ」

 葛城の声は冷静だった。

「危険な状態なら、見極める。必要なら介入する。教師として見える異変もあれば、潜心者としてしか見えない異変もある」

「いつも、そんなことしてんのかよ」

「必要ならな」

「生徒の心の中を勝手に覗いて?」

 蓮司は核心をついたつもりだった。どう反応するかを見るために。
 だが、葛城は意に介さず続ける。

「好んで覗いているわけではない。だが、見えてしまうものを見なかったことにはできない」

 その言い方が、妙に引っかかった。

 自分と同じだと思ったわけではない。
 ただ、少しだけ似た言葉だった。

「だから俺にも構ってくるのか」

「そういうことだ」

 蓮司はため息をつく。

「別に頼んでねぇよ」

「君のためだけではない」

 蓮司は眉をひそめる。

「どういう意味だ」

「いずれ分かる」

 蓮司は葛城の目を見る。
 その後に続く言葉を待ったが、葛城は黙ったままだった。

 今は話すときではない、そう判断されている。

 ややあって、しゃべりだした葛城の口から出た言葉は、こちらが期待したものではなかった。

「財布は見つかったな」

「その話かよ」

「君はどう見た」

 蓮司は箸を止めた。

「終わりじゃねえだろ」

「理由は」

「あの三人が隠したんだろ。遥に森下を呼ばせようとしてたし、財布がなくなった後も、余計なことを言うなって圧をかけた。図書室のファイルケースってのも怪しい。森下は図書室によく行くし、あいつらがそこに置いたんじゃねえの」

「筋は通る」

「だろ」

「だが、筋が通ることと、正しいことは違う」

 蓮司は顔をしかめた。

「じゃあ、違うって言うのかよ」

「まだ分からない」

「嘘つけ。何か気づいてるだろ」

 葛城は否定しなかった。
 それが逆に腹立たしい。

「答えを知ってるなら言えよ」

「答えだけ聞いて、君は何を学ぶ」

「授業かよ」

「授業だ」

 葛城は淡々と言った。

「昨日言ったはずだ。外界で見たもの、本人の言葉、周囲の証言、現実での行動。それらを合わせて判断しろ」

「だから合わせた結果、あの三人が怪しいって言ってんだろ」

「自然な推測だ。だが、憶測でもある」

 葛城の声は静かだった。

「君は今、あの三人を怪しいと見ている。だから、あの三人につながる情報ばかり拾っている」

 蓮司は黙る。
 図星だった。

「では聞こう。財布が見つかったときの、森下の様子は?」

「……ほっとしてた」

「それだけか」

 蓮司は少し考える。
 森下の顔。小さく頭を下げたときの声。曖昧な笑い。

「安心しただけじゃない。まだ、不安があるように見えた」

「悪くない」

「褒めてんのか、それ」

「観察としてはな」

 葛城はパンを食べながら言う。

「財布は盗まれていなかった。だが、ただの置き忘れとも限らない」

「だから、あの三人だろ?」

「そこが短絡的だ。森下が何を恐れているのか。女子三人が何をしようとしているのか。瀬川が何を見ていたのか。現実で確認しろ」

「先生として何かしないのかよ」

「必要ならする」

「必要って?」

「見極めてからだ」

 蓮司は卵焼きを口に入れた。
 味があまりしない。

「昨日、遥は先生に話したのか?」

「担任には話したらしい。財布の件と関係があるかは分からないが気になっているとも言っていた」

「知ってんじゃねえか」

「教師だからな」

「あの三人はどうなる?」

「担任が確認するだろう。現時点では、彼女たちが何かをした証拠はない」

「でも、森下を呼び出そうとしてた」

「呼び出そうとしていただけでは、財布の件とは結びつかない」

「だからって放っておくのかよ」

「不確実な状況で動けば、状況が悪化することもある。見極めが重要だ」

 蓮司は箸を置いた。

「いつ動くんだよ」

 葛城は蓮司を見る。

「対象が明確になったときだ。そのときは潜心者として動く」

「昨日みたいに?」

「必要なら」

 蓮司は昨日のライフルを思い出した。

 葛城なら、また同じように対処できるのだろう。
 だが、その強さはどこか冷たい。
 助けるためというより、問題を処理しているだけにも見える。

「君は不満そうだな」

「別に」

「嘘が下手だ」

「教師の勘ですか」

「観察だ」

 蓮司はため息をつく。

 昼休みが終わりに近づく。
 葛城はパンの袋を畳み、机の端に寄せた。

「今日の放課後は、森下の周囲を見ておけ」

「見張れってことか」

「観察だ」

「言い方変えただけだろ」

「目的が違う」

 葛城は立ち上がった。

「財布は戻った。だが、森下の恐怖が消えたとは限らない」

「……意味分かんねえ」

「なら、見ておけ」

 蓮司は弁当箱を閉じ、数学準備室を出た。
 廊下に出ると、昼休みのざわめきが戻ってくる。

 教室へ戻る途中、隣のクラスの前に遥(はるか)がいた。

 蓮司に気づくと、少しだけ顔を上げる。

「蓮司くん」

「何」

「森下さん、財布見つかったんだよね」

「ああ」

「よかった……のかな」

 遥は自分でも違和感を覚えたように目を伏せた。

「普通はよかっただろ」

「うん。でも、森下さん、何か言いたそうだった。話しかけたら、大丈夫って首を振られた」

 蓮司は遥を見る。

 遥も迷っている様子だった。
 自分の違和感が、自分だけのものなのか、気のせいなのか。
 それとも本当に何かがあるのか。

 それを確認するために、蓮司に聞いている感じだった。
 遥も不安なのだろう。

「大丈夫じゃないやつが言うやつだな」

「うん」

 遥は小さく頷く。

「それと、あの三人が……また森下さんの方を見てた」

 蓮司は廊下の奥を見た。
 女子三人の姿はない。
 嫌な感じだけが残る。

 だが、それも疑っているからそう感じるだけなのか。
 蓮司には分からなかった。

 午後の授業中も、蓮司はそれとなく森下と女子三人の様子を観察した。

 (見るだけで分かるんなら、苦労はしねぇんだよな)

 蓮司はため息をつく。

 人の小さな変化に感づくのは、不得意ではない。
 だが、普段は何気なくやっていることだ。
 目的を持った観察となると、心身ともに非常に疲れる。

   *

 そうこうしているうちに放課後になってしまった。
 何の発見も得られなかったが、動きがあるとすれば、ここからだ。

 蓮司は教科書を鞄に入れながら、視界の端で森下を追う。

 色々と確認をしていた森下だったが、やがて、ゆっくりと席を立った。
 同じタイミングで、女子三人も動く。

 偶然にしては、少し揃いすぎている。
 蓮司は立ち上がった。

 やっぱりだ。

 胸の奥が熱くなる。
 あいつらが何をするつもりなのかは知らない。
 けれど、森下が関係することなのは分かる。

 廊下に出ると、森下は階段へ向かっていた。
 女子三人は、その後ろを追うように歩いている。

 森下は階段を降りるとき、少しこちらを見た。

 女子三人と目が合う。

 遠目にも分かるほど、森下の肩がびくりと震えた。
 まるで、背中に刃を向けられたような反応だった。

 女子三人の一人が、困ったように手を上げる。

「栞(しおり)、ちょっといい?」

 普通の声だった。
 怒鳴ってもいない。
 責めてもいない。

 だが、森下は一歩後ずさった。
 その顔に浮かんだ恐怖を見て、蓮司は息をのむ。

 過剰だった。
 あまりにも。

 女子三人は、本当に財布の件を聞こうとしているだけかもしれない。
 少なくとも、今この瞬間はそう見えた。

 だが、森下の方は違う。
 森下の目には、もっと別のものに見えている。

 蓮司の視界の端が、かすかに歪んだ。
 色が抜ける前の、あの嫌な感覚。

 蓮司は奥歯を噛む。

 女子三人が、もう一歩近づく。
 森下は財布の入った鞄を胸に抱きしめた。

 蓮司はその場から動けなかった。

 どうすることが正しいのか、まだ分からなかった。