心の奥に刃は眠る

 翌日。

 財布は、結局その日も見つからなかった。

 教室には妙な重さが残っていた。
 休み時間になるたびに、誰かが小声で森下の財布の話をしている。

 だが、蓮司(れんじ)の頭はそれどころではなかった。
 蓮司にとっては財布以上に、昨日見た灰色の世界の方が問題だった。

 放課後、蓮司は鞄を取り教室を出る。
 向かう先は、数学準備室。

 行きたくて行くわけではない。

 昨日から、そう何度も自分に言い聞かせていた。
 だが、結局来ている時点で、あまり説得力はなかった。

 忘れようとしても、忘れられるはずがない。
 何も見なかったことにして、日常に戻るには、理由が圧倒的に足りなかった。

 蓮司は数学準備室の前で少し息を吸う。

「……くそ」

 小さく呟いてから、扉を叩いた。

「入れ」

 中から葛城(かつらぎ)の声がする。
 蓮司が扉を開けると、葛城は窓際の机で何かの書類を見ていた。

 白いシャツに、きちんと締めたネクタイ。
 昨日の灰色の世界で見た黒いコート姿とは違う。

 ただの数学教師。
 そう見えなくもない。

「閉めなさい」

「へいへい」

「返事」

「……はい」

 蓮司は扉を閉めた。

 数学準備室には、生徒用の椅子が一つだけ出されていた。
 来ることを前提に用意されていたらしい。

 それがまた腹立たしかった。

「座りなさい」

 蓮司は椅子に座らず、立ったまま葛城を見る。

「説明」

「座りなさい」

「説明が先だろ」

「教師と生徒として話している間は、こちらの指示に従いなさい」

「昨日、あんな銃ぶっ放したやつが教師面すんな」

「教師だ」

 葛城は書類を机に置いた。

「そして、君は生徒だ」

 蓮司は舌打ちして、椅子に座った。
 葛城はそれを確認してから、口を開く。

「では、話そう。何から聞きたい?」

 蓮司は一瞬つまる。
 聞きたいことが多すぎて、何から聞けばよいのか分からなかった。
 数秒ほど視線を泳がせて、ようやく蓮司は質問を絞り出す。

「あの世界は何だ?」

「なるほど、それが最初か。良い質問だな」

「前置きはいいから、早く話せよ」

 蓮司はいら立ちを隠せない。
 葛城はそれに動じることもなく、淡々と説明を始める。

「昨日、君が見た色のない世界は、人の心を映し出した世界。精神世界だ」

「精神世界……」

 蓮司は葛城を見る。

「その中でも、心の表層に近い場所だな」

「心の表層?」

「正確には、個人の内側ではない。人の心と現実が接する、外側の領域だ。私は外界――ワールドと呼んでいる」

「外界(ワールド)……」

「誰か一人のものではない。だが、人の精神に近い。現実と重なっているように見えただろう」

 蓮司は昨日の光景を思い出す。

 最初は廊下に重なった灰色の世界。
 二度目は、現実から完全に切り替わった灰色の世界。

「最初は重なって見えた。二回目は……入った感じだった」

「未熟な者にはよくある」

「未熟って」

「事実だ」

 葛城は表情を変えない。

「外界で見える人影は、本人そのものではない。本人の精神の表層が、象徴として現れたものだ」

 灰色の遥のことか。

「象徴――シンボルと呼んでいる」

 葛城は机の上のペンを手に取った。

「人の心は、本人の認識で形を取る。恐怖、願望、罪悪感、思い込み。そういったものが、景色や物、影、糸として現れる」

「じゃあ、遥についてた黒い糸は」

「彼女が感じていた圧迫感と恐怖だろう。女子三人からの言葉もあった。だが、それだけではない」

「何だよ」

「彼女自身の迷いだ」

 蓮司は眉をひそめた。

「あいつらが悪いんだろ」

「現実の話として客観的にみれば、恐らくそうだ」

「なら――」

「だが、精神世界では違う。正しく見極めるには、それだけでは足りない」

 葛城は蓮司の言葉を切った。

「見えているものが、そのままの事実ではない。心の中にあるものは、本人の認識だ。本人の認識が精神世界をつくる。本人が自分を責めていれば、それは糸になる。本人が逃げられないと思えば、それは鎖になる。現実には開いている扉でも、本人が閉ざされていると思えば、精神世界では閉ざされる」

 蓮司は黙った。
 昨日の遥は、まさにそんな感じだった。

「だから、現実の情報とも照合する必要がある」

 葛城はペンを机に置いた。

「外界で見たもの。本人の言葉。周囲の証言。現実での行動。一般常識。それらを合わせて判断する。精神世界だけで結論は出せない」

「学校のテスト問題かよ」

「似ているとも言える」

「似てねえよ」

「条件を読まずに答えを出す者は間違える。君は昨日、それをしかけた」

 蓮司は少しだけ視線を落とした。

 黒い糸を切った。
 遥を助けようと思った。
 その直後、影が襲ってきた。

「でも、切れた」

 蓮司は言った。

「実際、遥は少し楽そうな感じだったぞ」

「そうだな」

 葛城はあっさり認めた。

「君は糸を切った。そこは事実だ」

「じゃあ――」

「だが、切った結果、影が反応した。君一人では対応できなかった」

 蓮司は言い返せなかった。
 あの黒い腕が迫ってきたとき、蓮司は何もできなかった。

「……あの腕に捕まってたら、どうなってた?」

「現実の体がダメージを受けるわけではない」

 葛城は淡々と言った。

「だが、精神世界で受けた傷は、心に残る」

「心に?」

「軽ければ疲労や悪夢で済む。深ければ、現実の判断や感情にも影響する」

「……普通に危ねえじゃねえか」

「その通りだ。だから受けるなと言った」

 葛城は少し間を置く。

「君はまだ、自分が何をしているのか理解していない」

 葛城は静かに言った。

「なのに、触れた」

「助けようとしただけだ」

「あれが、助けることにつながると、本当に思ったのか」

「違うのかよ」

「君の判断と行動は早い。悪いことではない。だが、早すぎる判断は誤る」

 葛城は椅子の背にもたれた。

「もう少し観察してから判断することを勧める」

「そういう話をしに来たんじゃねぇよ」

 これでは、教師に説教されるただの生徒である。
 不気味なあの世界のことを聞きに来たのであって、たしなめられに来たわけではない。

 ふてくされる蓮司を無視して葛城は続ける。

「次の質問は?」

「この……」

 自分のペースを崩さない葛城に蓮司はあきれるが、つっこんでも時間が無駄になるだけだ。
 あきらめて次の質問を探す。

「あのライフルは何だ?」

「心象具だ」

「しんしょうぐ?」

「心象具、アルマとも呼ぶ。心の像が形を得たものだ。人は誰でも持っている。ただし、武器として扱えるものは限られている」

 葛城は続ける。

「心象具(アルマ)は、人によって形状が異なる。その人間の性格や自己認識を色濃く表す。私の場合はライフルだ」

「遠くから撃つやつか」

「距離を取る。観察する。急所を見つける。一点を撃ち抜く」

「性格悪そうな武器だな」

「的確だ」

「否定しろよ」

 蓮司はため息をつく。
 葛城は構わず続ける。

「人は誰でも、自分の問題と戦っている。次のテストで一位を取りたい者もいれば、仕事で商談を成功させたい者もいる。現実では努力や工夫として見えるものが、精神世界では壁や迷路、敵として現れることがある」

「それを心象具で処理しながら、人は自分の道を進む。ほとんどの場合は無意識だがな」

「つまり、誰でも心の中で何かしら戦っているってことか」

「そうだ、ただし、見えている者は少ない」

蓮司は少し考えてから言う。

「心象具とかいうやつのタイプによって、やり方に差が出そうだな」

「そういうことだ」

 葛城は蓮司の目を見る。

「ただし、心象具の形と能力は単純に対応しない。剣だから斬る、銃だから撃つ。それだけではない。重要なのは、その人間が心にどう干渉するかだ」

「昨日のあれは?」

「私の心象具による処理だ。ライフルだからな。敵性を持った象徴の動きを遠距離から撃ち抜いた」

「さらっと言うな」

「事実だ」

 蓮司は自分の右手を見る。

 昨日、糸を切ったとき。
 指先に、刃のような黒い線が走った。

「誰にでも心象具はあるんだよな?」

「そうだ」

「じゃあ、俺の心象具は何なんだ?」

 わざと軽く言ったつもりだった。
 だが、葛城はすぐには答えなかった。
 少しだけ、蓮司の指先を見ていた。

「君は、なぜ糸を切れたと思う」

 葛城は質問に答えなかった。

「誰でもできるんじゃないのか?」

「人による」

「……」

「糸をほどく者もいる。縫い直す者もいる。遠ざける者もいる。見ているだけで何もできない者もいる」

「じゃあ、俺は?」

「切った」

 葛城の声は平坦だった。

「しかも、道具なしで」

「いや、なんか出たぞ。一瞬だけ」

「だから聞いている。あれは何だ」

「こっちが聞きてえよ」

 蓮司は右手を握った。
 指先には何もない。
 傷もない。
 痛みもない。

 だが、感覚だけは残っている。

「君には、何かがある」

 葛城は言う。
 その言い方が、妙に引っかかった。

「何かって何だよ」

「まだ分からない」

「嘘つけ」

 蓮司は即座に言った。

「分かってるって顔してるぞ」

 葛城は表情を変えない。

「そう見えるだけだ」

「それも嘘っぽい」

「君の観察眼は悪くない」

「ごまかすな」

 葛城は机の上の書類をまとめた。

「今日はここまでだ」

「は?」

「また、明日だ」

「ちょっと待てよ。まだ聞きたいことが」

「一度に詰め込んでも混乱するだけだ」

 蓮司は無視して続ける。

「あんた、何者なんだよ」

 葛城は意に介さない。

「それは、次、答えよう。明日は、昼に来なさい」

「昼?」

「昼休みだ。またここに来なさい」

「昼に何すんだよ」

「実際に見る」

「またあの世界に入るってことか」

「状況によるがな」

 蓮司は顔をしかめた。

「気が進まねぇな」

「見えてしまった以上、見ないふりの方が危険だ」

 葛城は立ち上がる。
 その瞬間、完全に教師の顔に戻った。

「では、明日の昼」

 蓮司はしぶしぶ椅子から立ち上がった。

 まだ聞きたいことは山ほどある。
 だが、葛城はそれ以上話すつもりはなさそうだった。

 今は。

 蓮司は扉を開けた。
 廊下に出る直前、葛城の声が背中に刺さる。

「高城」

「何ですか、先生」

 わざとらしく敬語にしても、葛城は少しも気にした様子を見せない。

「まずは観察からだ。役割を考えろ」

 蓮司は振り返らなかった。

「さっきも聞いた」

「必要なことは何度でも言う」

 蓮司は返事の代わりに扉を閉めた。

 数学準備室の前の廊下は、もう放課後の静けさに沈んでいる。
 窓の外では、夕方の光が校舎の壁を赤く染めていた。
 蓮司は自分の右手を見下ろす。

 何もない。

 けれど、あの黒い線の感覚だけは、まだ指先の奥に残っていた。