心の奥に刃は眠る

 白石の足元から伸びた白い布が、蓮司(れんじ)の靴に触れた。
 反射的に足を引こうとする。

 だが、布は絡みつかなかった。
 締めつけてもこない。
 ただ、足元にそっと重なった。

「……何する気だ」

「何もしませんよ」

 白石は穏やかに答える。

「無理に何かをさせるつもりはありません」

 その背後に、白いものが浮かび上がった。

 人の形。
 顔はない。
 大きな白い布をまとった像。

 黒沢の内界で見たものとよく似ている。
 蓮司の右手に力が入る。

 けれど、像は襲ってこなかった。
 武器もない。
 拳を振り上げることもしない。

 ただ。

 誰かを迎え入れるように、両腕をゆっくりと広げた。

「答えを求めなくていいのです」

 白石の声がする。

「自分の心が何なのか」

 白い布が、蓮司の足元から膝へ上がる。

「その人との間に、何があったのか」

 蓮司の体がわずかに強張った。

「その右手に宿るものが何なのか」

 白石の視線が、蓮司の右手に向く。

「ちゃんと理解しないとだめなのでしょうか?」

 答えられなかった。

 知りたかった。
 だから、自分の内界に入った。

 ティルヴァが何なのか。
 なぜ自分の心から、あんな刃が出てきたのか。

 それを知りたかった。

 でも。

 分かったことより、分からないことの方が増えた。

 壊れた階段。
 遥の姿。
 思い出せない何か。

 そして、遥の内界にも同じような傷があった。
 調べれば調べるほど、疑問が増えた。

 最後には、拒絶された。

 白い布が腰まで上がる。

 暖かい。
 痛くない。

 むしろ、少し心地いい。

「曖昧なままでいいんですよ」

 白石の声が遠く感じる。

「心は理屈ではありません」

 白い像が、少しずつ近づいてくる。

「すべてに理由を求めなくてもいい。意味を探さなくてもいい」

 布が肩にかかった。
 蓮司はそれを振り払わなかった。

 疲れていた。

 遥の内界に入って、守護者に吹き飛ばされた。
 ティルヴァを出そうとして、拒絶された。
 もう一度入ろうとして、それすら拒まれた。

 考えるのも。
 知ろうとするのも。
 少しだけ、疲れた。

「目を閉じて」

 白石の声は優しい。

「安全な場所で、休んでいればいいのです」

 白い布が頬に触れる。
 視界の端が、少しずつ白くなる。

 もういいかもしれない。

 そんな考えが浮かんだ。
 何があったのか。
 なぜ忘れているのか。
 遥が何を隠しているのか。
 ティルヴァが何なのか。
 今すぐ分からなくてもいい。

 全部、放っておけば。
 少なくとも。
 今よりは楽だ。

 白い布が、視界を覆う。
 その瞬間。

 黒沢の姿が浮かんだ。

 白い像の腕の中。
 口元だけを、わずかに緩めていた。

 ――ここなら、楽。

 苦しそうには見えなかった。
 確かに、楽だったのだろう。

 でも。

 動かなかった。
 どこにも行かなかった。
 行けなかった。

「……」

 蓮司は白い布を掴んだ。
 白石がわずかに目を細める。

「……休むのは、いい」

「ええ」

「考えたくねえときだってある」

「そうでしょう」

「分からないままにしとくことだって、たぶん必要だ」

 白石が微笑む。

「そうです。それでいいのです」

「でも――」

 蓮司は布を引いた。
 視界を覆いかけていた白が外れる。

「休むかどうかまで、あんたに決められたくねえ」

 白石の笑みが止まった。

 蓮司は布を振り払う。
 白い像の腕が、再び伸びる。

 優しく。
 止めるように。

 蓮司の右手に、黒が集まった。

 空間がわずかに軋む。
 歪な黒い刃が、その手に現れる。

 ティルヴァ。

 白石が刃を見る。

「……また、壊すのですか?」

 蓮司は答えなかった。
 白い像を見る。

 黒沢の内界では、縛っていた繋がりを断った。
 あれが黒沢を動けなくしていたから。

 ティルヴァを握る。

 斬ればいい。
 一瞬、そう思った。
 壊すべきものを決めて、そこへ刃を振るう。

 でも。

 休む場所。
 考えなくていい時間。
 誰かに寄りかかること。

 それまで壊す必要があるのか。

 蓮司は動かなかった。

 見る。

 白い像。
 広げられた腕。
 蓮司を包もうとする布。

 その奥。

 布は像から伸びている。
 さらに、その先。

 蓮司は目を細めた。
 白い像から伸びる細い何かがある。

 糸。

 いや。

 布の端が、そのまま外界の奥へ沈んでいる。

 そして。

 白石につながっていた。

 あの像だけで完結しているわけではない。
 白石がつないでいる。

 ここにいればいい。
 動かなくていい。
 見なくていい。
 白石が、そういう状態を保っている。

「そこか」

 蓮司が呟く。
 白石の目が動いた。

「何を――」

 蓮司はティルヴァを構えた。

 像ではない。
 布でもない。
 白石でもない。

 その間にあるもの。
 選べなくしている部分。

 森下の内界で。
 蓮司は恐怖ごと斬りかけた。

 黒沢の内界では。
 葛城(かつらぎ)に止められながら、壊すべきものを探した。

 自分の内界では。
 何も分からなかった。

 遥の内界では。
 踏み込んではいけない場所に踏み込んだ。

 どれも、うまくいったとは言い難い。

 それでも。
 見た。
 失敗した。
 考えた。

 なら。

 今度は、自分で決める。

「壊すんじゃねえ」

 ティルヴァの刃が黒く沈む。
 周囲の色まで吸い込むように。

 虚滅刃〈エクシティウム〉。

 白石の表情が初めて大きく変わった。

「待ちなさい」

「見えなくしようとしてる蓋だけ――」

 蓮司は踏み込む。
 刃を振る。

「どける」

 黒い斬撃が走った。
 白い像を避ける。

 布も斬らない。
 白石にも届かない。

 その間。

 つながっていた一点だけを、黒い刃が通り抜けた。

 音はなかった。

 ただ。
 何かが切れた。

 次の瞬間。

 白い布が、力を失った。
 蓮司の周囲から、するりと落ちていく。

 肩から。
 腕から。
 足元から。

 白い像は残っている。
 両腕を広げたまま。
 そこに立っている。

 ただ。

 もう蓮司を包もうとはしなかった。

「……」

 白石が像を見る。
 信じられないものを見るように。

「残っている……?」

 蓮司はティルヴァを下ろした。

「……なぜ」

 白石が蓮司を見る。

「なぜ、すべて壊さなかったのです?」

「全部いらねえとは言ってねえだろ」

 蓮司は息を吐いた。

「休みたい奴は、休めばいい」

 白石は黙っている。

「考えたくねえなら、考えなくてもいい」

「誰かに頼りたいなら、頼ればいい」

「ただ――」

 蓮司は残った白い像を見る。

「出たくなったときに、出られねえのは違う」

 白石はしばらく何も言わなかった。
 やがて。

「それが、あなたの答えですか」

「知らねえよ」

 蓮司は即答した。

「今は、そう思ってるだけだ」

「ずいぶん曖昧ですね」

「あんたに言われたくねえ」

 白石が小さく笑った。
 今までとは少し違う。

 穏やかではある。
 だが、何かを諦めたような笑いだった。

「……見ないという選択も、必要だと思いますよ」

「かもな」

 蓮司はティルヴァを握ったまま答える。
 少し間を置いて。

「でも、それを決めんのはあんたじゃねえ」

 白石は反論しなかった。

 残った白い像へ一度だけ目を向ける。
 それから、蓮司を見る。

 そしてゆっくりと背を向ける。

「また、どこかで会うことがあるかもしれませんね」

「できれば会いたくねえけどな」

「残念です」

 白石は微笑んだ。
 その輪郭が、少しずつ薄くなっていく。
 外界から離れていく。

 白石は蓮司を責めなかった。
 怒りもしなかった。

 ただ。

 何かを考えるような目だけを残して消えた。

 あとには、白い像だけが残っている。
 誰かを迎えるように。
 両腕を広げて。

 けれど。
 もう、誰も捕まえない。
 その輪郭は、わずかに灰色の世界へ溶け始めていた。

 蓮司はしばらくその像を見ていた。

 やがて、右手の力を抜く。
 ティルヴァが、黒い粒子になって消えていった。

 まだ、何も分からない。

 自分の心も。
 遥の心も。
 あの壊れた階段も。
 この刃が何なのかも。

 分からないものばかりだった。

 それでも。

 分からないからといって、目を閉じるつもりはなかった。