心の奥に刃は眠る

「人の心は、分からないままでいい」

 白石の言葉が、色のない道路に残った。

 蓮司(れんじ)は何も返せない。

 さっきまでいた遥(はるか)の内界が、頭から離れなかった。

「分からないからこそ、知りたい。そう思う気持ちは理解できます」

 白石が静かに続ける。

「ですが、それは本当に相手のためなのでしょうか」

「……何が言いたい」

「人は、分からないものを見ると、名前をつけたくなるものです」

 白石は指を一つずつ折る。

「恐怖」
「依存」
「罪悪感」
「執着」
「無意識」

 聞き覚えのある言葉が並ぶ。

「そうやって名前をつけて、分類する」

 白石は笑った。

「原因を探して、意味を与える」

「それの何が悪い」

「悪いとは言っていません」

 白石は首を横に振る。

「ただ、そうすれば人の心を理解した気にはなれるでしょう?」

 蓮司は眉をひそめた。

「理解した気になれるって……」

「でも、人の心はそんなに綺麗に分けられますか?」

 白石は蓮司を見る。

「恐怖だけの感情がありますか? 依存だけの関係がありますか?」
「嫌いなのに離れたくない。怖いのに近づきたい。苦しいのに、それを手放したくない」
「そんな矛盾を、ひとつの言葉で説明できるのでしょうか」

 蓮司は黙った。

 できない。
 少なくとも、自分には。

 そのとき。

 葛城(かつらぎ)の声が頭に浮かんだ。

 ――見ただけでは分からない。

 外界で見た箱。
 秘密かもしれない。
 言えない感情かもしれない。
 守りたいものかもしれない。

 誰かを見ているシンボルもそうだった。

 好意。
 警戒。
 罪悪感。

 同じ形でも、意味は違う。

 だから。

 現実と照合する。
 勝手に決めつけない。

 葛城は何度もそう言っていた。

 白石も言っている。

 人の心は分からない。
 そこまでは、同じだ。

 なのに。

 何かが違う。

「だから私は、そのままでいいと思うのです」

 白石が言った。
 蓮司は顔を上げる。

「分からないものに、無理に答えをつける必要はない」

「原因を探さなくてもいい」
「意味を見つけなくてもいい」
「なら、そのままにしておけばいい」

 そこだ。

 蓮司の胸の奥に、小さな引っかかりが生まれる。

 葛城なら何と言う。

 人の心は分からない。

 だから――

 観察する。現実を見る。照らし合わせる。

 それでも分からないなら、分からないままにしておく。
 決めつけないために。

 一方で白石は。

 分からない。

 だから――

 見なくてもいい。

「あなたは、先ほどの方についても同じですよ」

 白石の言葉で、蓮司の思考が止まった。

「その人の心の奥に、何かがあったのでしょう」

「……」

「それを、あなたは知ろうとした」

 白石は淡々と言う。

「そして拒絶された」

 蓮司は右手を握った。

「……そうかもしれねえ」

 言葉が、思ったより素直に出た。
 白石が少し目を細める。

「俺は、あいつの心を知ろうとして……踏み込みすぎた」

 言うと、胸が重くなる。
 認めたくはなかった。

 でも。

 否定もできなかった。

「あれは俺が悪かった」

 白石は静かに微笑んだ。

「でしたら」

 優しい声だった。

「もう、分かろうとしなくてもいいでしょう?」

 蓮司は顔を上げた。

「相手が隠しているものを、無理に見る必要はありません」

「知らなくていいこともある」

「見ない方が、その人のためになることもあります」

 見ない。

 その言葉が胸に残る。
 遥は、見られたくなかった。
 だから拒絶した。

 なら。

 見ない方がいいのかもしれない。

 もう入らない方がいい。
 知ろうとしない方が。

 その方が――

「……違う」

 蓮司の口から、声が漏れた。
 白石が少し首を傾げる。

「何がです?」

 蓮司自身も、まだうまく説明できない。

 でも。

 頭に浮かんでいた。

 白い部屋。
 黒沢を抱く白い像。
 柔らかそうな布。
 傷つけてはいなかった。

 むしろ、守っているように見えた。

 黒沢自身も。
 ここなら楽だと言った。

 けれど。

 その布の中で。
 黒沢はどこにも行けなかった。

「分からないままにしておくのと――」

 蓮司は言葉を探す。

「見ないようにするのは、違う」

 白石の笑みが、ほんの少し薄くなった。

「どう違うのでしょう」

 蓮司は一度息を吐いた。

「目ぇ覆って、何も見なかったことにするのも違うだろ」

「何も見なかったことにはしていませんよ」

「同じだ」

 蓮司の声が低くなる。

「黒沢を、あの白い布で包んだ」

「彼が望んだからです」

「でも、あいつはその先を見られなくなってた」

 白石の表情が止まる。
 ほんの一瞬。
 それだけだった。

「見れば苦しむものもあります」

 白石は静かに返した。

「知らない方が幸せなこともある」

「……」

「あなたは、それでも見ると言うのですか?」

 蓮司は黙った。

 見た方がよいのか。
 見ない方がよいのか。
 分からない。

 遥のことだってそうだ。
 あの階段の先を知った方が、遥のためになるのか。
 知らない方が幸せなのか。

 蓮司には決められない。

「知らねえ」

 白石がわずかに目を見開いた。

「見た方がいいかなんて、俺には決められねえよ」

 蓮司は続ける。

「見ない方がいいのかもしれねえ」

「だったら」

「でも――」

 蓮司は白石をまっすぐ見た。

「分かろうとすることまで、やめるのはおかしいだろ」

 白石の眉がピクリと動く。

「そして――」

「あんたが決めることでもねえ」

 白石の笑みが消えた。
 初めてだった。
 怒ったわけではない。

 ただ。

 表情がなくなった。

「黒沢が休みたいなら、休めばいい」

 蓮司は言う。

「見たくないなら、見なくてもいい」

「でも、見るか見ないかまで、あんたが決めんのは違う」

「私は、決めてなど――」

「決めてるだろ」

 蓮司は遮った。

「あの像は、黒沢の目まで覆ってた」

 沈黙。

 外界を、人のシンボルがゆっくりと通り過ぎていく。
 白石はしばらく何も言わなかった。

 やがて。

「……あなたも」

 低い声が落ちる。

「疲れているのでしょう」

「は?」

 白石の足元が白く染まった。

 霧のようなものが、地面を這っている。
 蓮司は反射的に一歩下がる。

 だが。

 白いものは蓮司を追うように伸びてきた。

 霧ではない。
 布。

 薄く、柔らかな白い布だった。

「おい」

「知りたいことが、たくさんある」

 白石が言う。

「けれど、知ろうとするほど苦しくなる」

 白い布が蓮司の靴先に触れる。

「少し――」

 白石は再び微笑んだ。

「休んではいかがですか?」