男はゆったりとこちらへ歩いてくる。
穏やかな表情だった。
少なくとも、敵意は感じない。
だからこそ、蓮司は警戒した。
――あれ。
その言葉が、何を指しているのか。
遥の内界にあった壊れた階段。
自分の内界にあった壊れた階段。
黒沢の内界にいた白い像。
いくつもの光景が、頭の中で一瞬にして重なる。
蓮司は、喉の奥から声を絞り出した。
「……あんた、誰だ」
男は足を止めた。
「おや」
男は少しだけ首を傾げた。
「質問に質問で返す。どうやら、心当たりが多いようですね」
「質問に答えろ」
男は少し困ったように笑った。
「なるほど、失礼しました。白石啓吾といいます。会のまとめ役のようなことをしています」
「会?」
「黒沢悠斗さんが参加していた会ですよ」
蓮司の目が細くなる。
黒沢。
その名前が出た時点で、偶然ここにいるわけではない。
「黒沢の何を知ってる」
「かなり警戒されていますね」
「当たり前だろ」
白石はそれ以上近づかなかった。
数歩分の距離を残して立ち止まる。
「黒沢さんの内界に、白い像があったでしょう」
蓮司の中で、あの光景が蘇った。
白い部屋。
顔のない像。
黒沢を包んでいた白い布。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
ここにいればいい。
答えは預ければいい。
「……やっぱり」
蓮司は白石を睨む。
「あれは、あんたが置いたのか」
「ええ」
あまりにも簡単に認めた。
蓮司は一瞬、言葉に詰まる。
「何のために」
「休んでもらうためです」
「休む?」
「はい。休む場所ですよ」
白石の口調は変わらない。
本当に、それだけのことだと思っているようだった。
「あれのどこが休む場所なんだよ。黒沢は動けなくなってた」
「動く必要があったのですか?」
「は?」
白石は静かに蓮司を見る。
「黒沢さんは、ずっと疲れていました。周囲を見て、求められていることを考えて、それに合わせる。何かを決めるたびに、これでいいのかと迷う」
「だから、選ばなくていいようにしたって?」
「それで楽になれるのなら」
蓮司は奥歯を噛んだ。
「あいつは、自分の足で立てなくなってた」
「なぜ、立たなければならないのでしょう」
また、言葉が止まる。
「人は、いつも前へ進まなければいけないのでしょうか」
白石は問いかける。
「迷っている人に、選びなさいと迫る。立ち止まっている人に、前へ進みなさいと言う。それは、本当に優しいことですか?」
「でも……」
「黒沢さんは、楽になったと言っていませんでしたか?」
蓮司は答えられなかった。
言っていた。
黒沢自身が。
――ここなら、楽。
白い像の腕の中で。
口元だけを、わずかに緩めて。
蓮司も、あの感覚に一瞬引き込まれた。
考えなくていい。
選ばなくていい。
間違えなくていい。
それが楽なのは、蓮司自身も知っている。
「迷っている人に、無理に答えを出させる方が残酷な場合もあります」
「だからって、ずっとあそこにいさせるのかよ」
「ずっと、とは言っていません」
白石は少し笑った。
「ただ、答えを出せるまで休めばいいのです」
蓮司は白石を睨んだまま黙った。
何かがおかしい。
そう思う。
黒沢の内界で見たものは、そんな綺麗なものではなかった。
白い布は優しかった。
けれど、その優しさの中で、黒沢は動けなかった。
それでも。
何がおかしいのか。
今の蓮司には、うまく言葉にできない。
「あなたは」
白石が不意に言った。
「ずいぶん、知りたがる方なのですね」
「……何だよ、急に」
「黒沢さんの心を知ろうとした。そして、あの像に手を出した」
白石の視線が、蓮司の右手へ落ちる。
「自分のことも、知ろうとしているのでしょう?」
蓮司の指がわずかに動いた。
自分の内界。
壊れた階段。
黒く崩れた、その先。
「何でそう思う」
「今のあなたを見れば、何となく」
白石が少し首を傾ける。
「それに――」
その目が、蓮司の奥を覗き込むように細くなった。
「今も、誰かの心を知ろうとしたばかりのようですね」
蓮司の胸が強く鳴った。
遥。
明るい部屋。
白黒の廊下。
二体の守護者。
壊れた階段。
そして。
やめて。
「……知ったようなこと言うな」
「知りませんよ」
白石はあっさり答えた。
「誰の内界に入ったのかも。そこで何を見たのかも」
「だったら黙ってろ」
「ただ」
白石の声は穏やかなままだった。
「拒絶されたのでしょう?」
蓮司の表情が固まった。
否定できなかった。
「その様子では、自分から戻ってきたわけではない」
「……関係ねえだろ」
「そうですね。私には関係ありません」
白石はそれ以上踏み込まなかった。
そのことが、逆に蓮司には気持ち悪かった。
「ですが、一つだけ」
白石は静かに続ける。
「あなたは、その人のことを知ろうとした」
蓮司は黙っている。
「心の奥に何があるのか。なぜそうなったのか。何を隠しているのか」
「……」
「そして、拒絶された」
やめて。
もう一度、あの感覚が蘇る。
遥の声ではなかった。
けれど、確かに遥の内界全体がそう言っていた。
入ってくるな。
これ以上、見るな。
蓮司は拳を握る。
「俺は……」
言葉が出ない。
悪意があったわけではない。
遥を傷つけたかったわけでもない。
ただ。
知りたかった。
壊れた階段が何なのか。
自分との間に何があったのか。
それだけだった。
でも。
遥の側から見れば。
蓮司はただの侵入者だった。
「あなたは、分かろうとしてその人を傷つけたのでしょう?」
蓮司は白石を睨んだ。
否定したかった。
お前に何が分かる。
そう言えばいい。
だが。
何も言えなかった。
白石はそんな蓮司を責めなかった。
勝ち誇ることもしない。
ただ、穏やかに言った。
「分からないものを、無理に分かろうとする必要などないのですよ」
色のない道路を、人のシンボルがゆっくりと流れていく。
誰も二人を見ない。
「人の心は、分からないままでいい」
蓮司は、何も返せなかった。
穏やかな表情だった。
少なくとも、敵意は感じない。
だからこそ、蓮司は警戒した。
――あれ。
その言葉が、何を指しているのか。
遥の内界にあった壊れた階段。
自分の内界にあった壊れた階段。
黒沢の内界にいた白い像。
いくつもの光景が、頭の中で一瞬にして重なる。
蓮司は、喉の奥から声を絞り出した。
「……あんた、誰だ」
男は足を止めた。
「おや」
男は少しだけ首を傾げた。
「質問に質問で返す。どうやら、心当たりが多いようですね」
「質問に答えろ」
男は少し困ったように笑った。
「なるほど、失礼しました。白石啓吾といいます。会のまとめ役のようなことをしています」
「会?」
「黒沢悠斗さんが参加していた会ですよ」
蓮司の目が細くなる。
黒沢。
その名前が出た時点で、偶然ここにいるわけではない。
「黒沢の何を知ってる」
「かなり警戒されていますね」
「当たり前だろ」
白石はそれ以上近づかなかった。
数歩分の距離を残して立ち止まる。
「黒沢さんの内界に、白い像があったでしょう」
蓮司の中で、あの光景が蘇った。
白い部屋。
顔のない像。
黒沢を包んでいた白い布。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
ここにいればいい。
答えは預ければいい。
「……やっぱり」
蓮司は白石を睨む。
「あれは、あんたが置いたのか」
「ええ」
あまりにも簡単に認めた。
蓮司は一瞬、言葉に詰まる。
「何のために」
「休んでもらうためです」
「休む?」
「はい。休む場所ですよ」
白石の口調は変わらない。
本当に、それだけのことだと思っているようだった。
「あれのどこが休む場所なんだよ。黒沢は動けなくなってた」
「動く必要があったのですか?」
「は?」
白石は静かに蓮司を見る。
「黒沢さんは、ずっと疲れていました。周囲を見て、求められていることを考えて、それに合わせる。何かを決めるたびに、これでいいのかと迷う」
「だから、選ばなくていいようにしたって?」
「それで楽になれるのなら」
蓮司は奥歯を噛んだ。
「あいつは、自分の足で立てなくなってた」
「なぜ、立たなければならないのでしょう」
また、言葉が止まる。
「人は、いつも前へ進まなければいけないのでしょうか」
白石は問いかける。
「迷っている人に、選びなさいと迫る。立ち止まっている人に、前へ進みなさいと言う。それは、本当に優しいことですか?」
「でも……」
「黒沢さんは、楽になったと言っていませんでしたか?」
蓮司は答えられなかった。
言っていた。
黒沢自身が。
――ここなら、楽。
白い像の腕の中で。
口元だけを、わずかに緩めて。
蓮司も、あの感覚に一瞬引き込まれた。
考えなくていい。
選ばなくていい。
間違えなくていい。
それが楽なのは、蓮司自身も知っている。
「迷っている人に、無理に答えを出させる方が残酷な場合もあります」
「だからって、ずっとあそこにいさせるのかよ」
「ずっと、とは言っていません」
白石は少し笑った。
「ただ、答えを出せるまで休めばいいのです」
蓮司は白石を睨んだまま黙った。
何かがおかしい。
そう思う。
黒沢の内界で見たものは、そんな綺麗なものではなかった。
白い布は優しかった。
けれど、その優しさの中で、黒沢は動けなかった。
それでも。
何がおかしいのか。
今の蓮司には、うまく言葉にできない。
「あなたは」
白石が不意に言った。
「ずいぶん、知りたがる方なのですね」
「……何だよ、急に」
「黒沢さんの心を知ろうとした。そして、あの像に手を出した」
白石の視線が、蓮司の右手へ落ちる。
「自分のことも、知ろうとしているのでしょう?」
蓮司の指がわずかに動いた。
自分の内界。
壊れた階段。
黒く崩れた、その先。
「何でそう思う」
「今のあなたを見れば、何となく」
白石が少し首を傾ける。
「それに――」
その目が、蓮司の奥を覗き込むように細くなった。
「今も、誰かの心を知ろうとしたばかりのようですね」
蓮司の胸が強く鳴った。
遥。
明るい部屋。
白黒の廊下。
二体の守護者。
壊れた階段。
そして。
やめて。
「……知ったようなこと言うな」
「知りませんよ」
白石はあっさり答えた。
「誰の内界に入ったのかも。そこで何を見たのかも」
「だったら黙ってろ」
「ただ」
白石の声は穏やかなままだった。
「拒絶されたのでしょう?」
蓮司の表情が固まった。
否定できなかった。
「その様子では、自分から戻ってきたわけではない」
「……関係ねえだろ」
「そうですね。私には関係ありません」
白石はそれ以上踏み込まなかった。
そのことが、逆に蓮司には気持ち悪かった。
「ですが、一つだけ」
白石は静かに続ける。
「あなたは、その人のことを知ろうとした」
蓮司は黙っている。
「心の奥に何があるのか。なぜそうなったのか。何を隠しているのか」
「……」
「そして、拒絶された」
やめて。
もう一度、あの感覚が蘇る。
遥の声ではなかった。
けれど、確かに遥の内界全体がそう言っていた。
入ってくるな。
これ以上、見るな。
蓮司は拳を握る。
「俺は……」
言葉が出ない。
悪意があったわけではない。
遥を傷つけたかったわけでもない。
ただ。
知りたかった。
壊れた階段が何なのか。
自分との間に何があったのか。
それだけだった。
でも。
遥の側から見れば。
蓮司はただの侵入者だった。
「あなたは、分かろうとしてその人を傷つけたのでしょう?」
蓮司は白石を睨んだ。
否定したかった。
お前に何が分かる。
そう言えばいい。
だが。
何も言えなかった。
白石はそんな蓮司を責めなかった。
勝ち誇ることもしない。
ただ、穏やかに言った。
「分からないものを、無理に分かろうとする必要などないのですよ」
色のない道路を、人のシンボルがゆっくりと流れていく。
誰も二人を見ない。
「人の心は、分からないままでいい」
蓮司は、何も返せなかった。
