心の奥に刃は眠る

 財布の件での聞き取りの後、生徒たちは、順番に帰宅を許された。
 蓮司(れんじ)がようやく解放されて、校舎を出るころには、空が夕方の色になっていた。

 グラウンドから部活の声が聞こえる。
 吹奏楽部の音が、窓の向こうから途切れ途切れに流れてくる。

 いつもの夕方だった。

 しかし、その裏に灰色が重なっているように見えて、蓮司には少しウソっぽく見える。
 蓮司は軽く頭を振って、歩き出した。

 校舎の隣を横切って校門へ向かおうとしたとき、背後から声がした。

「蓮司くん」

 振り返ると、遥(はるか)が立っていた。

 隣のクラスだから、あの聞き取りには加わっていない。
 蓮司が帰ってくるまで、待っていたのだろうか。

 鞄を両手で持っている。
 目元が少し赤い。

「何」

 蓮司は短く返す。
 遥の様子に気がついていても、気遣えるような仲ではないし、大人でもなかった。

 かすれそうな小さな声で遥が続ける。

「森下さんの財布が無くなったって、本当?」

「ああ」

 遥の顔がさらに曇る。

「どうした?」

 少し間をおいて、遥は言葉を探すように唇を動かした。

「昼休み……少し、聞こえてた?」

 話が飛んだ。

 蓮司は遥の目を見る。
 遥の顔には不安そうな色が浮かんでいる。

「ほとんど、聞いてない」

「そっか」

「ただ、森下の名前が出ていたのは聞こえた」

 遥の指先が、鞄の持ち手を強く握った。

「やっぱり……少し聞こえてたんだ」

 蓮司は黙って遥を見る。

 遥は少し視線を外し、校舎の方を見る。
 誰かに聞かれていないか確認しているようだった。

「あの子たち、森下さんに聞きたいことがあるって」

「聞きたいこと?」

「うん。だから、ちょっと呼んでって。でも、私には……それだけに見えなかった」

 遥の声が小さくなる。

「私が呼べば、森下さんも来るからって。放課後に少しだけでいいからって」

「で、森下の財布がなくなった」

 遥は小さく頷いた。

「だから、私……どうしたらいいのか分からなくて」

「先生に言えばいいだろ」

「でも、まだ私は何も言ってないし」

「何が原因かの確証はないと」

「うん」

 遥は目を伏せる。

「さっき、あの子たちに言われたの。私たちは関係ないよねって。変に話すと、ややこしくなるからって」

 確かに、遥がそのことを先生に伝えたら、自分たちも疑われる。

「事実をそのまま言えばいいだけだろ」

 そう言った後に、蓮司は少しだけ後悔する。
 遥を責めたいわけではない。

「うん……」

 遥は小さく頷いた。
 それでも、顔は晴れない。

「でも、先生に言ったら……あの子たちに何か言われるかもって思うと」

 その瞬間だった。

 視界が、また歪んだ。
 映像がズレる。
 前回よりも大きく。

 蓮司は息を止めた。

 色が抜ける。

 夕焼けの赤が薄い灰色に変わる。
 校舎から影が消える。
 グラウンドの声が遠くなる。

 今度は、あの時のように、光景が重なっていない。

 灰色の世界一色になっている。
 現実の裏側に、そのまま踏み込んでしまったようだった。

 現実の遥と重なる位置に、灰色の遥が立っていた。

 無表情。

 直感的に、これは本物の遥ではないと悟る。
 だが、無関係でもなさそうだった。

 その足元に、黒い染みが広がっている。
 昼間に見たものよりも大きい。

 しかも、しみの中から黒い糸が何本も伸びていた。

 遥の体に絡みついている。

 足首。
 手首。
 首。

 そして、遥の背後には人らしき影があった。

 顔はない。
 ただ、髪の長さとスカートの輪郭だけが、女子三人を思わせた。

 その影が口を開く。
 口元が、何かを言うように動く。
 声は聞こえない。

 そこからさらに黒い糸が伸び始めた。
 遥へと向かっている。

 遥の灰色の姿が、少しずつ沈み始めた。
 黒いしみが、足元を飲み込もうとしている。

 ようやく蓮司は思考を回復させる。

「おい」

 灰色の遥は反応しない。
 現実の遥はここにはいない。

 目の前の黒い糸に縛られた遥だけだ。
 だが、状況を理解するより先に体が動いた。

 放っておけない。
 とっさに、蓮司は糸に手を伸ばす。

 この糸は害だ。
 無意識にそう判断する。

 切ればいい。
 そう思った。

 この糸は遥を縛っている。
 指先が糸に触れた瞬間、冷たい感触が流れ込んできた。

 誰かに見られている感覚。
 間違えたら責められる感覚。
 誰かを傷つけるかもという息苦しさ。

 黒い感情が、その感触とともに心に流れ込んでくる。

 蓮司は奥歯を噛んだ。

「こんなもん……」

 両手で引くも、全く切れる気配がない。

 切断するしかない。

 何か切れるもの……

 そう考えた次の瞬間、糸をつかむ指先に黒い線が走った。

 ――刃。

 いや、そう見えただけかもしれない。

 一瞬遅れて、糸が切れた。
 灰色の遥の手が、わずかに自由になる。

 その直後だった。

 遥の背後にいた女子三人の影が、ゆっくりと顔をこちらに向けた。

 顔はない。

 あるのは、裂けたような口だけだった。

 空気感が変わる。
 影の輪郭が崩れる。
 三人分の形が溶け、一つの黒い塊になる。

 その塊から、腕のようなものが伸びた。

 長い。
 細い。
 異様。

「何だよ、これ」

 蓮司は反射的に後ろへ下がる。

 黒い腕はゆっくりと漂っていたかと思うと、突如、蓮司に向かって迫ってきた。

 速い。

 避けるには間に合わない。
 蓮司は腕を上げて構える。

 だが、それからどうすれば良いのか分からなかった。

 その瞬間、背後から声が飛ぶ。

「受けるな」

 同時に、強い力で後ろに引かれる。

 蓮司がいた場所を黒い腕が通り過ぎる。
 蓮司は受け身が取れず、盛大に背中を地面に打ちつけてしまう。

「敵性を持っている。当たれば、心に傷が残る」

 低く、冷静な声。

 蓮司は痛みを我慢しながら、声のする方を見上げる。
 そこには葛城(かつらぎ)がいた。

 四限目にベクトルを説明していた数学教師。

 だが、影のない灰色の世界に立つ葛城は、教室で見たときとは別人のようだった。

 輪郭がはっきりしている。
 色彩もある。

 この灰色の世界で、異質とすぐに分かる。

 服装はいつものスーツではない。
 黒いコートを羽織っている。

 そう。授業で一瞬だけ見えたあの時と同じ姿。

 堂々としたその佇まいは、葛城がこの世界の歩き方を知っていることを示唆していた。

「……葛城……先生?」

 蓮司の声がかすれた。
 葛城は影を見ていた。

「意外と根が深いな」

「何、普通に分析してんだよ……」

「下がれ」

「は?」

「今の君では対応できない」

 言い終えるより早く、再び蓮司をつかむと、一緒に後方へと飛び引く。
 再び黒い腕が伸びてきていた。

「ちょっと、待て――――って、はぁああ!?」

 一瞬で10mほどの距離を取った。
 とんでもない跳躍力である。
 現実では当然、ありえない。

 蓮司はまともに着地もできず、再び地面に転がる。

「いってぇ……!」

「伏せてろ」

 そう言うと、葛城は右腕を構える。
 鈍く光ったかと思うと、右手に黒い輪郭が組みあがっていく。

 長く、細く、冷たい形状。

 銃だった。
 それも長身の。

 スナイパーライフル。

 蓮司は息をのむ。
 葛城は当然のように構える。

 ドン!

 鈍く乾いた音がした。

 再び、蓮司に迫ろうとしていた腕が、肘から弾けた。
 蓮司は息を止めた。
 葛城は一歩も動かない。
 もう一度、銃口が揺れる。

 ドン!

 影の肩が砕ける。

 ドン!

 裂けた口の中心が撃ち抜かれ、黒い塊が後ろへ吹き飛んだ。

 影は床に崩れ、煤のように散っていく。
 残骸も何も残っていない。

 辺りに,静寂が戻る。

 葛城は息も乱れていなかった。
 まるで黒板の式を一行消しただけのような顔をしている。

 蓮司は地面に転がったまま、呆然としていた。

 今のは何だ……

 葛城はライフルを下ろすと、その瞬間ライフルは空気に溶けるように消えた。

「……あんた」

 蓮司は声を絞り出した。

「何なんだよ、それは」

 葛城は蓮司を見る。

「説明は必要だろうな」

「当たり前だろ」

「ここでする話ではない」

「今しろよ」

「状況を見ろ」

「ふざけんな。今の見せといて、またあとで、かよ」

 葛城は表情を変えない。

「こんなところでゆっくりできるのか?」

 蓮司は何とか起き上がりながら辺りを見回す。

 色彩の薄い、それでいて影のない虚ろなグラウンド。
 遥の足元の影は少し小さくなったとはいえ、まだ揺らめいている。

 不穏な空気感は消えていない。

 葛城は灰色の遥を見る。
 無表情に変化はない。

 切れた糸の一部が、足元に落ちている。

 葛城は遥に近づき、糸を拾い上げる。

「糸を切れたのか」

 今度は葛城は尋ねる。

「どういう意味だ」

「それも後で説明する」

 蓮司はため息をつきながら、立ち上がり、葛城の横に並ぶ。
 そして、自分の指先を見る。

「何か知らんが、切れた」

 さっき、一瞬だけ黒い線が走った。
 刃のように見えた。

 あれは何だったのか。

 葛城の視線も、蓮司の指先に落ちていた。
 ほんの一瞬だけ。

 それから葛城は言った。

「明日の放課後、数学準備室に来なさい」

「……何で」

「説明して欲しいのだろう?」

「やっぱり、明日かよ?」

「財布の件でまだ校内は落ち着いていない。君が騒げば、説明の前に生徒指導室だ」

「教師面すんな」

「教師だ」

 蓮司は言い返せなかった。

 腹が立つ。
 だが、正しい。

「待っているぞ」

 そう言いながら、葛城はおもむろに蓮司の肩に手を置いた。

「おい……?」

 反応しようとしたその瞬間、灰色の世界が薄れていった。

 色が戻る。
 影が戻る。
 グラウンドの声が耳に戻ってくる。

 蓮司は校門近くに立っていた。
 横にいたはずの葛城の姿はない。

 目の前には遥がいる。
 現実の遥は、不安そうに蓮司を見ていた。

「蓮司くん……?」

 蓮司は数秒、返事ができなかった。

 よく見ると、葛城は遥の後方の少し離れたところに立っていた。

 普通の教師の服装。スーツ。
 手に銃など持っていない。

 ただの数学教師。
 そう見える。

 だが、もうそうは見えなかった。

 蓮司は少し息を吐く。
 そして、ゆっくりと遥に向き直った。

「先生に聞かれたら、そのまま言え」

「そのまま?」

「女子たちに昼休みに森下のことで何か頼まれてたこと。財布は見てないこと」

 遥は息をのんだ。

「言って、いいのかな」

「知らねえよ」

 蓮司は少し乱暴に言った。

「でも、言わないで苦しくなるくらいなら、言えばいいだろ」

 遥はしばらく蓮司を見ていた。
 やがて、小さくうなずいた。

「……うん。わかった」

「好きにしろ」

「ありがとう」

「礼を言われることはしてない」

 遥は少しだけ笑った。
 泣きそうな顔のまま、それでも確かに笑った。

 そして校舎の方へ戻っていく。
 蓮司はその背中を見送った。

 しばらくしてから、葛城に目を向ける。
 葛城はいつもの顔で立っていた。

「明日の放課後、数学準備室だ」

 蓮司は葛城をにらむ。

「今じゃダメな理由、さっき聞いたやつ以外にもあるんじゃねのか」

 葛城は少しだけ蓮司を見た。

「理解が早いな」

「ムカつく言い方すんな」

 それと……

 葛城は少し蓮司に向き合って続ける。

「現実では、教師と生徒として接しなさい。ため口は禁止だ」

 葛城はそれだけ言って、校舎へ歩き出した。

 蓮司はその背中をもう一度にらむ。

 聞きたいことは山ほどあった。

 だが、それよりも気持ち悪かったのは、あの灰色の世界の既視感だった。
 その感覚をたどろうとした瞬間、ズキッと頭痛が走る。

「くっ……」

 蓮司は額を押さえて姿勢を崩す。

 断片的な記憶がフラッシュバックする。

 暗い廊下。
 怒鳴り声。
 泣いている誰か。
 目の前の何かを壊した感覚。

 蓮司はそのまま地面に膝をつく。
 思い出そうとすると、頭が痛む。
 黒く塗りつぶされた場所に触れている気がした。

「……何なんだよ、マジで」

 答えを返してくれる人は誰もいない。
 夕方の学校は、何も知らない顔をしている。

 頭痛はすぐに治まった。
 蓮司はゆっくりと立ち上がり、鞄を肩にかけ直す。

 明日の放課後、数学準備室。

 行きたくはない。

 けれど、行かない理由をいくつ並べても、あの色のない世界を見なかったことにはできなかった。