心の奥に刃は眠る

 蓮司(れんじ)は、しばらく動けなかった。

 背中が痛い。
 いや、正確には痛みではない。
 現実で地面に叩きつけられたときのような鋭い痛みではなく、胸の奥を強く揺さぶられたような重さだった。

 息が浅い。
 吸っているはずなのに、肺の奥まで空気が届かない。
 右手には、もうティルヴァはない。

「……何なんだよ、あれは」

 もう一度、呟く。
 答える声はない。

 現実なら、放課後の生徒や帰宅途中の人間が歩いている場所だろう。
 道路に倒れている人を見れば、声をかけてきたりもするだろう。

 だが、ここでは誰も蓮司を見ない。
 倒れている蓮司の横で、薄いシンボルたちが無表情のままゆっくり動いている。

 蓮司は、ようやく片肘をついて上体を起こした。

「っ……」

 頭に残っているのは、二体の守護者と、壊れた階段。
 そしてティルヴァを出した瞬間に震えた遥(はるか)の内界だった。

「俺は、壊す気なんかなかった」

 自分に言い聞かせるように言う。

 深層への入口を見たかっただけだ。
 あの階段が、自分の内界の壊れた階段と似ていた理由を知りたかっただけだ。

 だが。

 その言い訳は、どこか空虚だった。

 ティルヴァを握った時点で、あの内界は怯えた。
 虚滅刃〈エクシティウム〉の名が出かけた時点で、遥の内界は蓮司を拒絶した。

 蓮司の意思とは関係なく。
 あの刃そのものを、知っているように。

「……何で知ってんだよ」

 遥は潜心者ではない。
 現実の遥は、何も知らない。

 そして。

 自分の内界と同じような壊れ方をした階段。
 意味ごと削り取られたような断面。

 考えたくない答えが、頭の奥で形になりかける。
 蓮司は、それを無理やり押し戻した。

「違うだろ」

 違う。

 まだ何も分かっていない。
 葛城(かつらぎ)なら、そう言うはずだ。

 断定するな。
 精神世界だけで結論を出すな。
 現実の情報と照合しろ。

 そうだ。

 まだ分からないことが多すぎる。
 理解はしているが、胸の奥のざらつきは消えない。

 蓮司はふらつきながら立ち上がる。
 今すぐ現実へ戻るべきだ。
 なのに、視線はもう一度、遥のシンボルへ向いていた。

 遥の内界へ、もう一度。

 あの守護者に弾き出されただけなら、入口はまだあるはずだ。

 深層へは進めないとしても、表層だけなら。
 あの明るい部屋だけなら。

 蓮司は周囲を見回した。

 外界の道路。

 遥のシンボルは少し離れたところにたたずんでいた。

 外界で内界に入るときの入口。
 それをもう一度探る。

 蓮司は目を閉じた。
 現実ではなく、外界の奥を見る。
 遥のシンボル。
 胸元に手を置き、こちらを見ていた薄い姿。

 そこへ意識を合わせる。
 扉を思い浮かべる。

 白い扉。
 いや、違う。

 遥の内界に入ったときの感覚は、扉というより、柔らかい膜に触れるようなものだった。
 明るく、穏やかな部屋へ続く入口。
 蓮司は、そこに手を伸ばす。

 触れる。

 ……はずだった。

 だが、指先に返ってきたのは硬い感触だった。

「……え?」

 目を開ける。

 目の前には何もない。
 だが、そこに何かがある。
 透明な壁のようなもの。

 蓮司の意識が、そこで止められている。

 もう一度、集中する。

 遥のシンボル。
 明るい部屋。
 白黒の廊下。

 その入口を探す。
 だが、今度は扉すら現れなかった。
 あるはずの場所に、ただ硬い拒絶だけがある。

 入れない。

 蓮司は息を呑んだ。

「ふざけんな」

 もう一度、手を伸ばす。

 今度は強く。
 意識を押し込む。
 しかし、外界の空気がびくりと震えただけだった。

 胸の奥に、同じ意味が返ってくる。

 やめて。

 蓮司は手を止めた。
 遥の声ではない。
 遥の内界そのものの反応。

 拒絶。

 さっきまでよりも、はっきりしている。

「何でだよ」

 蓮司の声がかすれる。

「俺は、遥を傷つけたいわけじゃねえ」

 答えはない。
 それでも、拒絶だけは残っている。

 蓮司は拳を握った。

 その動きだけで、見えない壁がさらに硬くなった気がした。
 蓮司は慌てて力を抜く。

 ティルヴァは出さない。
 出してはいけない。

 さっき、それで何が起きたのかは分かっている。
 分かっているのに、何もできない。

「何なんだよ……」

 蓮司はその場に立ち尽くした。

 遥の内界には、もう入れない。
 少なくとも、今の蓮司では。

 壊れた階段を見て、守護者に拒まれ、入口そのものから締め出された。

 見るだけ、知るだけのつもりだった。
 だが遥の内界から見れば、蓮司は深層へ踏み込もうとした侵入者だったのだ。

「……戻るしかねぇのか」

 このまま外界にいれば消耗する。
 だが、その後はどうする?

 葛城に報告すれば、勝手に内界へ入ったことを確実に咎められるだろう。
 理由を説明したところで、納得してくれるはずもない。

 それでも、もう一人でできることはなかった。

 蓮司は息を吐き、現実へ意識を戻そうとした。
 灰色の街の向こうに、夕方の光や車の音を重ねていく。

 そのときだった。

「なるほど……」

 声がした。

 蓮司は反射的に振り向く。

 外界の道路の向こう側。
 人のシンボルたちがゆっくり流れる中に、一人の男が立っていた。

 薄くない。
 輪郭がはっきりしている。

 ただのシンボルではない。
 直感的に理解する。

 潜心者。

 そう分かった瞬間、蓮司の右手の奥が重くなった。

 男は二十代後半くらいに見えた。
 白いシャツに、薄い灰色の上着。

 学校関係者には見えない。
 穏やかな顔をしている。
 笑っているようにも見える。

 だが、その目だけが妙に冷たかった。

「あれを壊したのは、あなたですね?」