心の奥に刃は眠る

 明るい。

 最初にそう思った。
 蓮司は、どこかの部屋に立っていた。

 そこは、広いリビングのような部屋だった。

 淡い木目の床、薄いクリーム色の壁、大きな窓。
 花瓶も本も小物も、きれいに整えられている。

 散らかっていない。
 汚れていない。
 暗くもない。

 森下の内界のような圧迫感はない。
 黒沢の内界のような白一色の気持ち悪さもない。
 穏やかで、明るく、きれいだった。
 外界と違って色もある。

 だからこそ、蓮司はすぐに顔をしかめた。

「……きれいすぎるだろ」

 声が、妙に軽く響いた。

 部屋は明るい。
 なのに、生活音がない。

 花瓶の花は飾られている。
 けれど、香りがしない。

 窓は大きい。
 しかし、外の景色はぼんやりしていて、輪郭がない。

 机の上は整っている。
 だが、使われた形跡がない。

 誰かが暮らしている部屋というより、誰かに見せるために整えられたかのようだった。

 蓮司はゆっくり歩いた。
 足音は、柔らかく床に吸われる。

 蓮司は棚に手を伸ばしかけて、止めた。

 触らない。

 ここは遥の内界だ。
 見るだけ。
 蓮司は自分に言い聞かせる。

 そのとき、部屋の奥で何かが揺れる。

 ショートボブの髪。
 制服姿。
 胸元に置いた手。

 遥のシンボルが静かに立っていた。

 外界で見たときと同じように、ほとんど無表情だった。
 蓮司が近づくと、遥のシンボルはわずかにこちらを向いた。

 反応がある。

 やはり、普通のシンボルとは違う。

「遥」

 蓮司(れんじ)は呼んだ。

 シンボルは答えない。
 ただ、胸元に置いた手を少しだけ強くした。
 蓮司は足を止める。

「……分かってる。触らねえよ」

 自分でも、誰に向けた言葉なのか分からなかった。
 遥のシンボルは、何も言わない。
 だが、蓮司の右手に視線を向けたように見えた。
 まだティルヴァは出していない。

 それなのに。

「またそれかよ」

 蓮司は右手を握った。
 奥に沈んでいる重さだけが、わずかに動く。

 その瞬間、部屋の光が少しだけ揺れた。
 窓際のカーテンが、風もないのに震える。

 遥のシンボルが一歩後ずさった。

 蓮司はすぐに右手を開く。

「出さねえって」

 声が少し大きくなった。
 その声に反応するように、部屋の明るさが戻る。
 蓮司は深く息を吐いた。

 ここはまずい。

 少し気を乱しただけで、部屋全体が反応する。
 遥の内界が、蓮司を警戒している。

 そう考える方が自然だった。

 蓮司は部屋を見回した。
 明るく整っているのに、遥らしい揺れがない。

 現実の遥は、もっと表情が動く。
 気を遣うし、少し迷う。
 真面目なくせに、たまに抜けてもいる。
 話す前に少し考える癖もある。

 この部屋には、そういう揺れがなかった。

「黒沢の内界とは違うけど……似てるな」

 整いすぎている。

 そう思って奥へ視線を向けると、明るい部屋に溶け込むように短い廊下が続いていた。
 その奥に目を向け、蓮司は息を止めた。

 明るく、穏やかで、きれいに整えられた遥の内界。

 その一番奥だけが――

 白と黒しかなかった。

 まるで、色を失ったのではなく、色そのものが存在しないような区画。

「何だ、あそこ」

 部屋全体は柔らかい色をしている。

 淡い木目。
 クリーム色の壁。
 薄い花の色。

 なのに、奥の一区画だけが、白と黒に切り分けられている。

 影も、光も、色の濃淡もない。
 輪郭だけが異様にはっきりしていた。

 蓮司は、そこへ向かって歩く。
 そして、遥のシンボルも動いた。

 初めて、はっきりと。

 窓際から一歩、蓮司の方へ踏み出す。

 表情は変わらない。
 だが、その動きだけで、止めようとしているのが分かった。

「行くなってことか」

 遥のシンボルは答えない。
 ただ、胸元に置いた手をさらに強くする。

 蓮司は足を止めかけた。
 だが、止まれなかった。

 あの白黒の区画。
 そこに何かがある。
 そう思った時点で、もう目をそらせなかった。

「見るだけだ」

 蓮司は言った。

「壊さない。触らない。見るだけだ」

 誰に言い聞かせているのか分からない。

 遥にか。
 自分にか。
 いないはずの葛城にか。

 蓮司は奥の廊下へ入った。
 空気が変わるのが分かる。

 さっきまで柔らかかった床の感触が、急に硬くなる。
 壁の色が消える。
 白と黒だけの世界になる。

 廊下の先に、階段があった。

 下へ続く階段。
 いや、階段だったもの。

 蓮司は足を止めた。

 そして、目を見開き、言葉を失う。

「まさか……」

 さらに近づいてみて、その疑念が事実としてつきつけられる。

 階段の入口は、壊れていた。

 手すりが折れている。
 段差は途中で崩れている。
 瓦礫が積み上がり、先へ進む道を塞いでいる。

 その奥には、さらに下へ続く暗がりが見えた。

 けれど、道がない。
 行けない。

 蓮司の胸の奥が、冷たく沈んだ。

 見覚えがある。

 自分の内界で見た階段。
 五段目から先が崩れ、黒く焦げたような瓦礫で塞がれていた階段。

 あれと、似ている。
 似ているどころではない。
 壊れ方が、同じだった。

 無理やり叩き割られたような断面。
 焼けたのではなく、意味ごと削り取られたような黒い跡。

 蓮司は右手を押さえた。
 ティルヴァの重さが、奥で沈む。

「……何で」

 声がかすれた。

 遥の内界の深層への入口。

 そこが、壊れている。
 自分の内界の階段と、同じように。

 蓮司は瓦礫へ一歩近づいた。
 足元の白黒の床に、細い黒い傷が走っている。

「俺の内界と……同じ」

 言葉にした瞬間、背後で空気が揺れた。
 振り向くと、遥のシンボルが、廊下の入口に立っていた。

 白黒の区画の手前。

 そこから先へ入れないのか。
 入らないのか。
 シンボルは、こちらを見ている。

 表情は薄い。

 だが、こちらを見ている。

 蓮司ではなく。
 蓮司の右手を。
 蓮司の中に沈む、黒い刃を。

 蓮司は息を呑んだ。

「……俺なのか?」

 誰に聞いたのか、自分でも分からない。

 遥のシンボルは答えない。
 ただ、唇がかすかに動いた。

 声はない。

 けれど、形だけは読めた。

 やめて。