数学準備室を出ても、蓮司の頭から遥の姿は離れなかった。
現実の遥は蓮司を恐れていない。
なのに内界の遥はティルヴァに怯えていた。
「……ただの認識なわけねえだろ」
苛立ちのせいか、廊下の景色が一瞬だけ灰色に重なった。
外界へ入るつもりなどないのに、精神世界が勝手に滲んでくる。
自分の心が不安定になっている。
それを見せつけられるのは、思ったよりも心にくる。
その視界の端に、一人で教室に残る田辺が映った。
机にはタブレットと何枚もの資料。
その奥に重なった田辺のシンボルは、大量の紙に押し潰されそうになっていた。
誰もいない三つの机から紙が次々と流れ込み、口元には細い線が絡みついている。
「高城?」
その声で色が戻る。
田辺が怪訝そうに顔を上げていた。
「それ、何やってんだ?」
「グループ発表の資料だけど」
「何で一人でやってんだよ」
「俺がまとめることになってるから……」
田辺はだんだんと言葉尻が弱くなる。
「まとめるのと、全部やるのは違うだろ」
田辺を責めるつもりはなかった。
ただ、口が止まらなかった。
「今さら手伝ってくれって言いにくいんだよ」
田辺の声にも苛立ちが混じってくる。
蓮司は強引に田辺のタブレットを見る。
画面に並ぶ資料の端に、森下栞の名前があった。
「森下なら、話くらい聞くだろ」
「でも――」
「勝手に相手の返事まで決めんな」
それだけ言って、蓮司は教室を出る。
ここまで関わるつもりはなかった。
ただ、見えてしまったものを放っておくこともできなかった。
*
翌日の昼休み。
田辺たち四人は、机を寄せて資料を分けていた。
「それ、田辺くんが全部やったら、また昨日と同じでしょ」
森下の声に、残りの二人も資料を手に取っていた。
「すまん。てっきり、まとめるの好きなのかと思ってた」
「好きなわけないだろ」
田辺が言うと、何人かが笑った。
昨日まで一人で机に向かっていた姿からは想像できないほど、あっさりと話は進んでいた。
ただ話しただけだった。
それだけで、昨日まで一人で抱えていたものが動き始めている。
外界で田辺のシンボルを見たから、蓮司は違和感に気づけた。
心の奥まで入らなくても、現実で確かめるだけで問題は動いた。
なら、遥も同じかもしれない。
何を恐れ、何を言えずにいるのか。
それさえ分かれば、現実で話せる。
深く踏み込むつもりもない。
ただ、きっかけを探すだけだ。
「……見るだけなら」
その言葉で、自分を納得させるように蓮司は小さく呟いた。
*
その日の放課後。
蓮司は、遥を探すことにした。
遥のクラスを覗いてみたが、蓮司のクラスよりも早くHRが終わっていたらしい。
すでに生徒たちの数がまばらになっていた。
それでもまだ遠くへは行っていないはず。
蓮司は教室の前を通って校門の方へ向かう。
校門を少し出た先に、見知った後ろ姿を見つけた。
瀬川遥だ。
現実の遥は、普通だった。
誰かに声をかけられて、軽く笑って返事をしている。
手を振りながら友人たちと分かれている。
その笑顔に影はない。
何も知らない。
外界も。
内界も。
ティルヴァも。
自分のシンボルが、蓮司の内界に現れていたことも。
蓮司は足を止めた。
今なら、外界で遥のシンボルを確認できる。
そんなことを自然に考えた自分に、蓮司は顔をしかめた。
他人の心を確かめることを、いつの間にか手段の一つとして考えるようになっている。
これは潜心者としての成長と呼んでいいのだろうか。
葛城には、勝手に入るなと言われている。
他人の内界には、特に慎重に入れとも言われている。
それでも、遥本人に「心の中を見せてくれ」と言えるはずもない。
葛城が何かを話すまで待つ気にもなれなかった。
蓮司は小さく息を吐いた。
見るだけだ。
深くは入らない。
内界にあるものには触れない。
壊さない。
ただ、確認するだけ。
蓮司はそう自分に言い聞かせ、遥の後を追う。
角を曲がると、遥は少し先を歩いていた。
蓮司は声をかけず、ブロック塀に背を預ける。
息を整え、意識を現実の奥へ合わせた。
音が遠のき、色と影が消える。
一人でも、だいぶスムーズに潜れるようになっている。
蓮司は落ち着いて、辺りを見回す。
現実の遥は、少し先を歩いていたはずだ。
なら、外界でもそのあたりにいる。
灰色の道路を進む。
シンボルたちは、蓮司に反応しない。
現実の本人と同じ場所を、少し遅れたように動いている。
少し進んだ先に、遥のシンボルはいた。
現実と同じ制服姿。
肩にかかるくらいの髪。
こちらに背を向けて、他のシンボルたちと同じようにゆっくりと歩いている。
その背を蓮司はゆっくりと追う。
だが、あと数歩まで近づいたところで、蓮司は足を止めた。
遥のシンボルは、すでに立ち止まっていた。
こちらへゆっくりと振り返り始めている。
動きがあまりに緩慢なため、気づくのが遅れたのだ。
蓮司は足を止める。
遥のシンボルがゆっくりと、だが完全にこちらを向いた。
表情は薄い。
ほとんど無表情。
まだ何もしていない。
ティルヴァも出していない。
それでも、遥のシンボルは蓮司を見ているようだった。
普通のシンボルは、潜心者にほとんど反応しない。
黒沢も、森下も、表層ではそうだった。
なのに、遥は違う。
蓮司に気づいている。
いや、蓮司そのものではない。
蓮司の奥にある何かに反応している。
蓮司は右手を軽く握った。
「分かってる」
蓮司は小さく言った。
ティルヴァは出さない。
ただ、遥のシンボルへ近づく。
遥のシンボルは、動かない。
逃げるわけでもない。
しかし、わずかに後ろへ重心を引いている。
胸元に手を置いている。
蓮司の内界の窓で見た姿と同じだった。
「……遥」
呼んでも、返事はない。
当然だ。
目の前にいるのは本人ではない。
現実の遥でもない。
外界に現れた表層のシンボル。
それでも、蓮司にはただの影とは思えなかった。
蓮司は手を伸ばした。
触れる寸前で、一度止まる。
入る。
本当に入るのか。
葛城に言われたことが、頭をよぎる。
分かっている。
軽く触れるだけだ。
見るだけだ。
蓮司は遥のシンボルの肩に、そっと手を置いた。
シンボルは何も反応しない。
目を閉じる。
扉をイメージする。
森下のときの図書室。
黒沢のときの白い部屋。
そのどちらとも違う扉。
遥の内界への入口。
手の中に、冷たい感触が生まれた。
扉の取っ手のようなもの。
蓮司は息を吸う。
「……入るぞ」
声は小さかった。
一歩踏み出した次の瞬間、世界が反転した。
現実の遥は蓮司を恐れていない。
なのに内界の遥はティルヴァに怯えていた。
「……ただの認識なわけねえだろ」
苛立ちのせいか、廊下の景色が一瞬だけ灰色に重なった。
外界へ入るつもりなどないのに、精神世界が勝手に滲んでくる。
自分の心が不安定になっている。
それを見せつけられるのは、思ったよりも心にくる。
その視界の端に、一人で教室に残る田辺が映った。
机にはタブレットと何枚もの資料。
その奥に重なった田辺のシンボルは、大量の紙に押し潰されそうになっていた。
誰もいない三つの机から紙が次々と流れ込み、口元には細い線が絡みついている。
「高城?」
その声で色が戻る。
田辺が怪訝そうに顔を上げていた。
「それ、何やってんだ?」
「グループ発表の資料だけど」
「何で一人でやってんだよ」
「俺がまとめることになってるから……」
田辺はだんだんと言葉尻が弱くなる。
「まとめるのと、全部やるのは違うだろ」
田辺を責めるつもりはなかった。
ただ、口が止まらなかった。
「今さら手伝ってくれって言いにくいんだよ」
田辺の声にも苛立ちが混じってくる。
蓮司は強引に田辺のタブレットを見る。
画面に並ぶ資料の端に、森下栞の名前があった。
「森下なら、話くらい聞くだろ」
「でも――」
「勝手に相手の返事まで決めんな」
それだけ言って、蓮司は教室を出る。
ここまで関わるつもりはなかった。
ただ、見えてしまったものを放っておくこともできなかった。
*
翌日の昼休み。
田辺たち四人は、机を寄せて資料を分けていた。
「それ、田辺くんが全部やったら、また昨日と同じでしょ」
森下の声に、残りの二人も資料を手に取っていた。
「すまん。てっきり、まとめるの好きなのかと思ってた」
「好きなわけないだろ」
田辺が言うと、何人かが笑った。
昨日まで一人で机に向かっていた姿からは想像できないほど、あっさりと話は進んでいた。
ただ話しただけだった。
それだけで、昨日まで一人で抱えていたものが動き始めている。
外界で田辺のシンボルを見たから、蓮司は違和感に気づけた。
心の奥まで入らなくても、現実で確かめるだけで問題は動いた。
なら、遥も同じかもしれない。
何を恐れ、何を言えずにいるのか。
それさえ分かれば、現実で話せる。
深く踏み込むつもりもない。
ただ、きっかけを探すだけだ。
「……見るだけなら」
その言葉で、自分を納得させるように蓮司は小さく呟いた。
*
その日の放課後。
蓮司は、遥を探すことにした。
遥のクラスを覗いてみたが、蓮司のクラスよりも早くHRが終わっていたらしい。
すでに生徒たちの数がまばらになっていた。
それでもまだ遠くへは行っていないはず。
蓮司は教室の前を通って校門の方へ向かう。
校門を少し出た先に、見知った後ろ姿を見つけた。
瀬川遥だ。
現実の遥は、普通だった。
誰かに声をかけられて、軽く笑って返事をしている。
手を振りながら友人たちと分かれている。
その笑顔に影はない。
何も知らない。
外界も。
内界も。
ティルヴァも。
自分のシンボルが、蓮司の内界に現れていたことも。
蓮司は足を止めた。
今なら、外界で遥のシンボルを確認できる。
そんなことを自然に考えた自分に、蓮司は顔をしかめた。
他人の心を確かめることを、いつの間にか手段の一つとして考えるようになっている。
これは潜心者としての成長と呼んでいいのだろうか。
葛城には、勝手に入るなと言われている。
他人の内界には、特に慎重に入れとも言われている。
それでも、遥本人に「心の中を見せてくれ」と言えるはずもない。
葛城が何かを話すまで待つ気にもなれなかった。
蓮司は小さく息を吐いた。
見るだけだ。
深くは入らない。
内界にあるものには触れない。
壊さない。
ただ、確認するだけ。
蓮司はそう自分に言い聞かせ、遥の後を追う。
角を曲がると、遥は少し先を歩いていた。
蓮司は声をかけず、ブロック塀に背を預ける。
息を整え、意識を現実の奥へ合わせた。
音が遠のき、色と影が消える。
一人でも、だいぶスムーズに潜れるようになっている。
蓮司は落ち着いて、辺りを見回す。
現実の遥は、少し先を歩いていたはずだ。
なら、外界でもそのあたりにいる。
灰色の道路を進む。
シンボルたちは、蓮司に反応しない。
現実の本人と同じ場所を、少し遅れたように動いている。
少し進んだ先に、遥のシンボルはいた。
現実と同じ制服姿。
肩にかかるくらいの髪。
こちらに背を向けて、他のシンボルたちと同じようにゆっくりと歩いている。
その背を蓮司はゆっくりと追う。
だが、あと数歩まで近づいたところで、蓮司は足を止めた。
遥のシンボルは、すでに立ち止まっていた。
こちらへゆっくりと振り返り始めている。
動きがあまりに緩慢なため、気づくのが遅れたのだ。
蓮司は足を止める。
遥のシンボルがゆっくりと、だが完全にこちらを向いた。
表情は薄い。
ほとんど無表情。
まだ何もしていない。
ティルヴァも出していない。
それでも、遥のシンボルは蓮司を見ているようだった。
普通のシンボルは、潜心者にほとんど反応しない。
黒沢も、森下も、表層ではそうだった。
なのに、遥は違う。
蓮司に気づいている。
いや、蓮司そのものではない。
蓮司の奥にある何かに反応している。
蓮司は右手を軽く握った。
「分かってる」
蓮司は小さく言った。
ティルヴァは出さない。
ただ、遥のシンボルへ近づく。
遥のシンボルは、動かない。
逃げるわけでもない。
しかし、わずかに後ろへ重心を引いている。
胸元に手を置いている。
蓮司の内界の窓で見た姿と同じだった。
「……遥」
呼んでも、返事はない。
当然だ。
目の前にいるのは本人ではない。
現実の遥でもない。
外界に現れた表層のシンボル。
それでも、蓮司にはただの影とは思えなかった。
蓮司は手を伸ばした。
触れる寸前で、一度止まる。
入る。
本当に入るのか。
葛城に言われたことが、頭をよぎる。
分かっている。
軽く触れるだけだ。
見るだけだ。
蓮司は遥のシンボルの肩に、そっと手を置いた。
シンボルは何も反応しない。
目を閉じる。
扉をイメージする。
森下のときの図書室。
黒沢のときの白い部屋。
そのどちらとも違う扉。
遥の内界への入口。
手の中に、冷たい感触が生まれた。
扉の取っ手のようなもの。
蓮司は息を吸う。
「……入るぞ」
声は小さかった。
一歩踏み出した次の瞬間、世界が反転した。
