「……遥?」
窓に映った遥は、返事をしない。
そもそも、そこにいるのかも分からない。
ガラスに映っているだけだ。
だが、ただの記憶には見えなかった。
遥のシンボルは、胸元に手を置いている。
何かを押さえるように。
その顔は、外界で見るシンボルと同じように薄い。
無表情に近い。
けれど、蓮司には分かった。
怯えている。
蓮司は窓に手を伸ばしかけた。
「高城」
葛城の声が止める。
蓮司の手が空中で止まった。
「触れるな」
「何でだよ」
「まだ分からない」
「またそれか」
「ここは君の内界だ。見えている瀬川遥は、本人そのものではない」
「じゃあ、何なんだよ」
「君の中にある、瀬川遥への認識だ。重要な人物の像が内界に現れることはある」
言っていることは分かる。
だが、それならなぜ遥は怯えている。
なぜ胸元を押さえ、壊れた階段から伸びる傷の先にいる。
そして。
蓮司にはその認識はない。
なのに蓮司の内界はそれを示している。
蓮司は自分の喉が渇くのを感じる。
「本人じゃないんだな」
「そうだ」
ガラスの中の遥は、動かない。
けれど、唇がわずかに動いた気がした。
声はない。
言葉にもならない。
ただ、蓮司の胸の奥に、かすかな形だけが残る。
やめて。
蓮司は息を止めた。
「……今」
「高城」
「何か言った」
「落ち着け」
「遥が」
「本人ではない」
「分かってる!」
思ったより強い声が出た。
廊下に響く。
その瞬間、床の黒い傷がわずかに広がった気がした。
窓ガラスが小さく震える。
蓮司は自分の右手に力が入っていることに気づいた。
黒い輪郭が、指先に集まりかけている。
「出すな」
葛城の声が低くなる。
「分かってる」
「分かっていないときの声だ」
「うるせえ」
蓮司は右手を強く握り、黒い輪郭を押し戻した。
窓の中の遥が、ほんの少しだけ後ずさったように見えた。
蓮司の胸が冷える。
まただ。
遥のシンボルは、蓮司の刃に怯えている。
外界でも。
蓮司自身の内界でも。
「何でだよ」
蓮司の声は小さかった。
「何で、俺の中の遥が、俺に怯えてるんだよ」
葛城は答えなかった。
沈黙。
それだけで、蓮司の中の違和感は濃くなった。
「先生。何で遥がここにいる。何で俺の刃に怯える。何で壊れた階段のそばにいる」
「今日はここまでだ」
「答えろよ」
「高城」
「俺の内界なんだろ。俺の心なんだろ。なのに、何で俺が分かんねえんだよ」
言葉が止まらなかった。
自分でも焦っているのが分かる。
けれど、止まらない。
葛城は蓮司を見る。
表情は変わらない。
だが、いつものようにすぐ説明しない。
それが、余計に嫌だった。
「自分の内界だからこそ、分からないこともある」
「そういう話じゃねえだろ」
「今日はここまでだ」
「先生は何か知ってるのか」
葛城は少し、視線をそらした。
何をどこまで伝えるか考えているようだった。
数秒ほどの間だったが、蓮司には非常に長く感じられた。
「私にも判断はできない」
蓮司は葛城をにらみつける。
「つまり、何かは知ってるってことだな。言えよ」
「今、話しても憶測にすぎない。余計な推測は判断を鈍らせる。今の君に伝えるべきではない」
蓮司はしばらく葛城を見ていたが、葛城の表情は一切変わらなかった。
しばらく無言のにらみ合いが続くが、先に諦めたのは蓮司だった。
葛城は葛城の判断で動いている。
別に蓮司を謀ろうとしているわけではないはず。
「今は先生の判断を信じるぜ」
蓮司は葛城から目をそらし、窓を見る。
遥のシンボルは、まだそこにいる。
これは、ただの忘れ去られた記憶なのかもしれない。
幼馴染だから、内界に出ているだけなのかもしれない。
だが、違うと蓮司は直感していた。
ただの記憶なら、黒い傷がここまで続く理由も、葛城がここまで言葉を選ぶ理由もない。
蓮司は、窓に映る遥を見たまま言った。
「先生」
「何だ」
「先生は何かを知っているんだよな」
葛城は、やはり答えなかった。
廊下の奥の壊れた階段から、冷たい空気が上がってくる。
蓮司の右手の奥で、ティルヴァの重さが静かに沈んだ。
*
現実へ戻っても、窓の中の遥は目の奥に残っていた。
「今日は休め」
葛城が言った。
蓮司は椅子に座ったまま、右手を見ていた。
「先生」
「何だ」
「あれ、本当にただの俺の認識なのか」
「そうだ」
葛城は答えた。
だが、短すぎた。
まるで、それ以上続ける気はないと言っているようだった。
蓮司は顔を上げる。
「じゃあ、何で先生は止めた」
「触れるべきではないと判断したからだ」
「それだけかよ」
「それだけだ」
蓮司はしばらく葛城を見ていた。
表情は変わらない。
いつもの教師の顔。
いつもの潜心者の顔。
何を考えているのか分からない。
分からないことばかりだ。
自分の内界を見て、分からないことが余計に増えた気がする。
蓮司はゆっくり立ち上がった。
「帰る」
「そうしろ。救済団体はこちらでも調べておく」
「……分かった」
蓮司は鞄を持つ。
扉へ向かいかけて、足を止めた。
「先生」
「何だ」
「もし、俺の内界にある遥が、ただの認識じゃなかったら」
葛城は答えなかった。
蓮司は振り返らずに続ける。
「そのときは、ちゃんと話せよ」
返事はなかった。
数学準備室を出た蓮司は、廊下の窓から目をそらした。
黒く塗りつぶされたガラスと、声もなく口を動かした遥が重なる。
――やめて。
その形だけが、胸の奥に残っていた。
このまま放っておくことはできない。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう遅かった。
窓に映った遥は、返事をしない。
そもそも、そこにいるのかも分からない。
ガラスに映っているだけだ。
だが、ただの記憶には見えなかった。
遥のシンボルは、胸元に手を置いている。
何かを押さえるように。
その顔は、外界で見るシンボルと同じように薄い。
無表情に近い。
けれど、蓮司には分かった。
怯えている。
蓮司は窓に手を伸ばしかけた。
「高城」
葛城の声が止める。
蓮司の手が空中で止まった。
「触れるな」
「何でだよ」
「まだ分からない」
「またそれか」
「ここは君の内界だ。見えている瀬川遥は、本人そのものではない」
「じゃあ、何なんだよ」
「君の中にある、瀬川遥への認識だ。重要な人物の像が内界に現れることはある」
言っていることは分かる。
だが、それならなぜ遥は怯えている。
なぜ胸元を押さえ、壊れた階段から伸びる傷の先にいる。
そして。
蓮司にはその認識はない。
なのに蓮司の内界はそれを示している。
蓮司は自分の喉が渇くのを感じる。
「本人じゃないんだな」
「そうだ」
ガラスの中の遥は、動かない。
けれど、唇がわずかに動いた気がした。
声はない。
言葉にもならない。
ただ、蓮司の胸の奥に、かすかな形だけが残る。
やめて。
蓮司は息を止めた。
「……今」
「高城」
「何か言った」
「落ち着け」
「遥が」
「本人ではない」
「分かってる!」
思ったより強い声が出た。
廊下に響く。
その瞬間、床の黒い傷がわずかに広がった気がした。
窓ガラスが小さく震える。
蓮司は自分の右手に力が入っていることに気づいた。
黒い輪郭が、指先に集まりかけている。
「出すな」
葛城の声が低くなる。
「分かってる」
「分かっていないときの声だ」
「うるせえ」
蓮司は右手を強く握り、黒い輪郭を押し戻した。
窓の中の遥が、ほんの少しだけ後ずさったように見えた。
蓮司の胸が冷える。
まただ。
遥のシンボルは、蓮司の刃に怯えている。
外界でも。
蓮司自身の内界でも。
「何でだよ」
蓮司の声は小さかった。
「何で、俺の中の遥が、俺に怯えてるんだよ」
葛城は答えなかった。
沈黙。
それだけで、蓮司の中の違和感は濃くなった。
「先生。何で遥がここにいる。何で俺の刃に怯える。何で壊れた階段のそばにいる」
「今日はここまでだ」
「答えろよ」
「高城」
「俺の内界なんだろ。俺の心なんだろ。なのに、何で俺が分かんねえんだよ」
言葉が止まらなかった。
自分でも焦っているのが分かる。
けれど、止まらない。
葛城は蓮司を見る。
表情は変わらない。
だが、いつものようにすぐ説明しない。
それが、余計に嫌だった。
「自分の内界だからこそ、分からないこともある」
「そういう話じゃねえだろ」
「今日はここまでだ」
「先生は何か知ってるのか」
葛城は少し、視線をそらした。
何をどこまで伝えるか考えているようだった。
数秒ほどの間だったが、蓮司には非常に長く感じられた。
「私にも判断はできない」
蓮司は葛城をにらみつける。
「つまり、何かは知ってるってことだな。言えよ」
「今、話しても憶測にすぎない。余計な推測は判断を鈍らせる。今の君に伝えるべきではない」
蓮司はしばらく葛城を見ていたが、葛城の表情は一切変わらなかった。
しばらく無言のにらみ合いが続くが、先に諦めたのは蓮司だった。
葛城は葛城の判断で動いている。
別に蓮司を謀ろうとしているわけではないはず。
「今は先生の判断を信じるぜ」
蓮司は葛城から目をそらし、窓を見る。
遥のシンボルは、まだそこにいる。
これは、ただの忘れ去られた記憶なのかもしれない。
幼馴染だから、内界に出ているだけなのかもしれない。
だが、違うと蓮司は直感していた。
ただの記憶なら、黒い傷がここまで続く理由も、葛城がここまで言葉を選ぶ理由もない。
蓮司は、窓に映る遥を見たまま言った。
「先生」
「何だ」
「先生は何かを知っているんだよな」
葛城は、やはり答えなかった。
廊下の奥の壊れた階段から、冷たい空気が上がってくる。
蓮司の右手の奥で、ティルヴァの重さが静かに沈んだ。
*
現実へ戻っても、窓の中の遥は目の奥に残っていた。
「今日は休め」
葛城が言った。
蓮司は椅子に座ったまま、右手を見ていた。
「先生」
「何だ」
「あれ、本当にただの俺の認識なのか」
「そうだ」
葛城は答えた。
だが、短すぎた。
まるで、それ以上続ける気はないと言っているようだった。
蓮司は顔を上げる。
「じゃあ、何で先生は止めた」
「触れるべきではないと判断したからだ」
「それだけかよ」
「それだけだ」
蓮司はしばらく葛城を見ていた。
表情は変わらない。
いつもの教師の顔。
いつもの潜心者の顔。
何を考えているのか分からない。
分からないことばかりだ。
自分の内界を見て、分からないことが余計に増えた気がする。
蓮司はゆっくり立ち上がった。
「帰る」
「そうしろ。救済団体はこちらでも調べておく」
「……分かった」
蓮司は鞄を持つ。
扉へ向かいかけて、足を止めた。
「先生」
「何だ」
「もし、俺の内界にある遥が、ただの認識じゃなかったら」
葛城は答えなかった。
蓮司は振り返らずに続ける。
「そのときは、ちゃんと話せよ」
返事はなかった。
数学準備室を出た蓮司は、廊下の窓から目をそらした。
黒く塗りつぶされたガラスと、声もなく口を動かした遥が重なる。
――やめて。
その形だけが、胸の奥に残っていた。
このまま放っておくことはできない。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう遅かった。
