心の奥に刃は眠る

 三つ目の椅子の跡から目をそらし、蓮司は勝手に歩き始める。

「調べるほどのもんじゃねえよ」

「そうか」

 葛城はそれ以上踏み込まなかった。
 その無理に聞かない感じが、逆に居心地の悪さを感じさせる。

 蓮司は台所の扉から離れる。
 廊下へ戻ると、蛍光灯の白が少しだけ冷たく見えた。

「自分の内界って、こんなもんなんだな」

「期待していたのか」

「してねえよ」

「ならいい」

「よくねえよ。学校の廊下に台所って、地味すぎるだろ」

「心象風景は見栄えのためにあるわけではない」

「分かってる」

 蓮司は歩き出す。

 その足元に、さっきより濃い黒い傷が見えた。
 台所の前から、廊下の奥へ続いている。
 まるで何かを引きずった跡のようだった。

 蓮司はそれを見ないようにした。

 二人はさらに奥へ進む。

 廊下の突き当たりに、階段があった。
 下へ続く階段。
 現実の学校なら、一階へ下りる階段のはずだった。

 だが、ここでは違う。
 階段の下が見える角度まで近づいたとき、蓮司は言葉を失った。

「なっ……」

 階段は、途中で崩れていた。

 五段目までは残っている。
 その先がない。

 段差は砕け、黒く焦げたような瓦礫が積み上がっている。
 手すりは途中で折れ、壁には大きな亀裂が走っていた。

 階段の奥には、さらに下へ続く暗がりが見える。
 けれど、そこへ行く道だけが壊れていた。

「……何だよ、これ」

 蓮司は階段の前で足を止めた。
 足元に散らばった破片を踏むと、砂のように崩れた。

 ただ古くなって壊れた、という感じではない。
 何か強い力で、無理やり叩き割られた跡だった。

「ここから下はどうなってんだよ」

「おそらく深層なのだろう」

「おそらく?」

「見れば分かる。道が壊れている」

 葛城の声は低かった。

 蓮司は崩れた階段を見る。

 自分の心の中だ。
 自分の内側だ。

 それなのに、先へ進む道がない。

「……何でだよ」

 胸の奥が重くなる。

「俺の内界なんだろ。何で、先に進む道が壊れてんだよ」

 葛城は答えなかった。
 その沈黙が、廊下の空気をさらに重くする。

 蓮司は瓦礫に近づく。

 階段の断面は黒く焦げている。
 焼けたというより、何かに削り取られたようだった。

「……何だよ」

 蓮司がさらに踏み出そうとしたその瞬間、瓦礫の隙間で、何かがかすかに動いた。

 光ではない。
 影でもない。

 黒い傷のようなものが、階段の断面から廊下へ細く伸びていく。
 それは、蓮司の足元を通り過ぎ、廊下の奥へ向かって伸びていった。

 蓮司は、その先を目で追う。
 廊下の突き当たりには、黒く塗りつぶされた窓があった。

 黒い傷は、そこで止まっている。

「先生」

「何だ」

「あれは」

「今日はここまでだ」

 葛城は短く言った。
 蓮司は振り返る。

「は?」

「表層に立つところまでだと言った。深層への道が壊れている以上、これ以上進むべきではない」

「何で壊れてるのかは?」

「今は断定できない」

「先生は分かってんじゃねえのか」

 葛城は答えなかった。

「戻るぞ」

 蓮司は振り返らない。

「まだ何も分かってねえ」

「分からないことが分かった」

「屁理屈だろ」

「重要な情報だ」

 葛城の声はいつも通り静かだった。
 それが余計に腹立たしい。

 蓮司は崩れた階段を見る。

「俺の内界なんだろ。何で壊れてるんだよ」

「今は断定できない」

「先生はそればっかだな」

「断定できないことを断定する方が危険だ」

「じゃあ、何かは予想はついているってことか」

 葛城は答えなかった。
 その沈黙が、答えのように聞こえた。

 蓮司は右手を見る。
 何もない。

 ティルヴァは出ていない。
 それなのに、さっきから右手の奥が重い。

 壊れた階段の断面。
 黒く焦げたような瓦礫。

 焼けたというより、何かに削り取られたような跡。

「この壊れ方」

 蓮司は呟いた。

「何だ」

「いや……」

 言葉にしようとして、やめた。
 自分の中でさえ、まだ形になっていない。

 この黒く焦げた瓦礫こそが、ティルヴァに似ている。
 そう言うには、あまりにも気味が悪かった。

 そのとき、階段の瓦礫の隙間から伸びる傷がキラリと光った……ような気がした。

 前に見たときより、少しだけ濃くなっている気がする。

「先生」

「ああ」

「あの傷、さっきより濃くなってねえか」

 葛城も窓の方を見た。

「君がそこを意識したからだろう」

「俺が?」

「内界は本人の認識に反応する。見る、考える、触れようとする。それだけで形が変わることもある」

「面倒くせえな」

「だから、深く入るほど危険だ」

 葛城は一歩、蓮司の前に出た。

「戻るぞ、高城」

「待てよ」

 蓮司は窓を見た。

 黒い傷は、窓の下で止まっている。
 外は黒く塗りつぶされていて、何も見えない。

 だが、ただの窓には見えなかった。
 階段から伸びた傷が、そこにつながっている。

 深層へ行く道は壊れている。
 その代わりに、傷だけが窓へ続いている。

 そんなふうに見えた。

「あの窓は何だよ」

「今は触れない方がいい」

「またそれか」

「触れるな、と言っている」

 葛城の声が少しだけ硬くなった。
 蓮司は窓から目を離さない。

「触らねえよ。見るだけだ」

「見ることも干渉になる場合がある」

「何でも危険じゃねえか」

「内界とはそういう場所だ」

「自分の心なのにかよ」

「自分の心だからだ」

 同じ答え。
 同じ理屈。

 言わんとしていることは分かる。

 けれど、納得はできない。
 蓮司はゆっくりと窓へ近づいた。
 葛城が止めるかと思ったが、止めなかった。

 ただ、近くで見ている。
 蓮司は窓の前に立った。

 黒く塗りつぶされたガラス。

 外は見えない。
 けれど、ガラスには廊下が映っていた。

 蓮司自身の姿。
 少し離れた場所に立つ葛城。

 そして。

 蓮司の後ろに、もう一つ影が映っていた。

 蓮司は反射的に振り返った。
 誰もいない。

 葛城は眉一つ動かさず、窓を見ている。

 蓮司はもう一度ガラスへ視線を戻した。
 そこには、確かに人影があった。

 ショートボブの髪。
 制服。
 薄い表情。

 瀬川(せがわ)遥(はるか)。

 蓮司の胸の奥が、嫌な音を立てた。