心の奥に刃は眠る

「表層だからな」

 葛城は淡々と答えた。

「普段の自己認識や日常の感覚に近い場所だ。強い感情や深い記憶は、もっと奥にある」

「じゃあ、俺の表面は学校ってことか」

「少なくとも、今の君はそう認識している」

「好きじゃねえんだけどな」

「好きかどうかは関係ない。意識に強く残る場所は形になる」

 蓮司は学校そっくりの廊下を見回した。
 だが、掲示物の文字は読めず、紙の端は焦げている。
 床にも細い傷や黒く擦れた跡が続いていた。

「普通って言うには、変だけどな」

「その違和感を見ろ」

 傷は廊下の奥へ伸びている。

 自分の内界なのに、見覚えがない。
 それが妙に気持ち悪かった。

「なあ」

「何だ」

「内界って、本人の認識なんだよな」

「そうだ」

「なら、俺はこの場所を知ってるはずじゃねえのか」

「自分の認識を、本人がすべて理解しているとは限らない」

「また分かりにくいことを」

「君にも無意識はある」

 葛城は淡々と言った。

「覚えていないこと。見ないようにしていること。言葉にできない感情。そういうものも内界には現れる」

 蓮司は廊下の奥を見る。

 暗い。

 そこから何かが来る気配はない。
 けれど、近づきたいとも思えなかった。

「この奥にそういうのがあるってことか」

「可能性はある」

「見たくねえな」

「なら戻るか」

 葛城が言った。
 蓮司は振り返る。

「戻っていいのかよ」

「戻るだけなら難しくない」

「じゃあ、何のために来たんだよ」

「君が知りたいと言った」

「……言ったけどさ」

 ティルヴァ。
 虚滅刃〈エクシティウム〉。

 あの禍々しい刃が、自分の中から出てきた理由。
 それを知りたかった。

 けれど、自分の内界に入ってみると、知りたいという気持ちだけでは済まなくなる。

 見えているものが、自分のものだと言われる。
 それが、思ったより気持ち悪い。

 蓮司は右手を見た。

 いつでも出せる。
 そんな感覚だけがあった。

「ここでティルヴァを出すなよ」

 葛城が言った。

「出さねえよ」

「ならいい」

「俺の内界でも危ないのか」

「むしろ危ない」

 葛城は即答した。

「ここは君の内側だ。外界で床を削るのとはわけが違う。君がここで何かを壊せば、それは君自身に直接影響する」

 蓮司は露骨に顔をしかめる。

「自分の心を自分で壊すってことか」

「そういうことだ」

「嫌な説明だな」

「嫌な事実だからな」

 蓮司は右手を軽く握り、すぐに開いた。

 二人は廊下を進んでいく。

 いくつかの教室の前を通る。
 扉は閉まっている。
 ガラス窓から中を覗こうとしたが、教室の中は暗かった。
 机と椅子の輪郭だけが、ぼんやりと浮かんでいる。

 黒板には何かが書かれているようだった。
 だが、文字は読めない。

 その中で、一つだけ、半分開いた扉があった。

 蓮司は足を止めた。

「ここだけ開いてるな」

「見てみるか」

「また俺に決めさせんのかよ」

「君の内界だ」

「便利な言い方だな」

 文句を言いながらも、蓮司は扉に近づいた。

 中を覗く。
 そこは教室ではなかった。

 小さな台所だった。
 流し台。
 乾ききっていない皿。
 まな板の上に置かれた包丁。
 油の薄く残ったフライパン。
 冷蔵庫に貼られたメモ。

 見覚えがある。
 家の台所だ。

 蓮司は思わず顔をしかめた。

「……何で学校の中にうちの台所があるんだよ」

「君にとって、学校と家の役割が切り離されていないのだろう」

「嫌な分析すんな」

 蓮司は中に入らず、入口から台所を見る。

 道具の散らかり具合から見て、調理の途中というのが伺える。
 そういった痕跡を葛城は見逃さない。

「食事を作るのは、君の役目か」

「母さんが遅い日はな」

 葛城の質問は続く。

「多いのか」

「まあ、そこそこ」

「負担ではないのか」

「別に」

 蓮司は即答した。

「米炊いて、何か焼けば終わりだろ。大したことじゃねえよ」

「大したことではない、と君は認識している」

「実際そうだろ」

「なら、なぜここにある」

 蓮司は黙った。

 台所は、学校の廊下の中にある。
 現実ならありえない。

 けれど、ここは蓮司の内界だ。
 意味のないものはほとんどない。

 葛城が何度も言っていた言葉が、嫌なタイミングで頭に浮かぶ。

 蓮司は台所の奥を見る。

 小さな食卓があった。

 椅子は二つ。

 一つは、母親のもの。
 もう一つは、蓮司のもの。

 ただ、床には古い跡が残っていた。
 もう一つ、椅子が置かれていたような跡。

 そこだけ床の色が少し違う。
 椅子を引きずったような黒い傷もある。

 だが、椅子そのものはない。

 蓮司はその跡を見て、すぐに目をそらした。

「もういい、行こうぜ」

 なぜ目をそらしたのか。
 自分でも、分からなかった。