心の奥に刃は眠る

 数学準備室の空気が、少しだけ静かになった気がした。

 窓の外では、部活の声が遠く聞こえている。
 現実の音。
 現実の夕方。

 その中で、葛城(かつらぎ)はいつもの調子で言った。

「自分の内界を観察することは、潜心者にとって重要だ」

「自分の心の中を見るってことか」

「そうだ」

 蓮司(れんじ)は何とも言えない表情になる。

「嫌すぎるだろ」

「嫌だろうな」

「否定しろよ」

「事実だからな」

 葛城は淡々としていた。

「他人の内界に入る者は、自分の内界も知っておくべきだ。自分が何に反応しやすいのか。何を恐れ、何に引きずられるのか。何を守ろうとして、何を壊そうとするのか。それを知らなければ、他人の内界で簡単に揺さぶられる」

「俺は別に揺さぶられてねえよ」

「黒沢の内界で、何度も動きかけていた」

「それは」

「瀬川のシンボルを見たときもだ」

 蓮司は口を閉じる。
 外界で見た遥(はるか)のシンボルを思い出していた。

 現実の遥は精神世界もティルヴァも知らない。
 それなのに、シンボルだけは蓮司の刃を恐れていた。

「俺の内界を見れば、それも分かるのか」

「保証はできない。ただ、ティルヴァが君の中でどういう位置にあるのか、エクシティウムという名がどこから出たのか。その手がかりはあるかもしれない」

 蓮司は右手を見る。
 何もない。
 だが、黒い刃の重さだけは確かに奥に沈んでいた。

 知りたい。

 同時に、自分の心の中を見ることへの嫌悪もあった。
 想像しただけで、胸の奥が重くなる。

「……今日入るのか」

「君の消耗が抜けているならな」

「抜けてる」

「無理はするな」

「してねえよ」

 葛城は蓮司をしばらく見た。

 体調を確認するような目。
 教師の目であり、潜心者の目でもある。

「なら、入口だけ確認する。深くは入らない」

「入口だけ?」

「自分の内界だからといって、安全とは限らない。今日は内界の感覚を掴み、表層に立つところまでだ」

「また慎重だな」

「君の刃が慎重ではないからな」

「俺のせいかよ」

「一因ではある」

 蓮司はため息をついた。
 だが、逃げる気にはならなかった。
 ここでやめても、疑問は消えない。
 分からないままにしておく方が、よほど気持ち悪い。

「分かった」

 蓮司は椅子に座り直した。

「やる」

「目を閉じろ」

「外界に入るのとは違うんだよな」

「違う」

 葛城は机の向こうから、静かに言った。

「外界に入るときは、現実の奥を見る。現実と精神の重なりに意識を合わせる。だが、自分の内界に入るときは、外へ意識を伸ばすのではない。内へ沈める」

「言い方が怪しい」

「感覚の説明だ。慣れろ」

「感覚には慣れるなって言っただろ」

「知識には慣れろ」

「本当に便利すぎるだろ、その言葉」

 蓮司は文句を言いながらも、目を閉じた。

 暗くなる。

 最初に聞こえたのは、窓の外の声だった。
 グラウンドの掛け声。
 廊下を歩く足音。
 遠くのチャイムの余韻。

 それから、蛍光灯の低い音。

 自分の呼吸。
 心臓の音。
 右手の奥に沈む重さ。

「外に意識を向けるな」

 葛城の声が聞こえる。

「自分の内側を見る。君自身の認識が形になる場所だ」

「簡単に言うな」

「簡単ではない。だから慎重にやれ」

 蓮司は息を吐いた。

 現実の奥ではない。
 外界でもない。

 もっと内側。

 胸の奥。
 頭の奥。
 右手の奥。

 そこに沈んでいる黒い輪郭へ、意識を向ける。

 ティルヴァ。

 その重さを思い浮かべた瞬間、足元が沈んだ。

 だが、体は動いていない。
 椅子に座っている感覚が、少しずつ遠のいていく。

 落ちる。

 そう思った。
 現実の音が、水の中に沈むように鈍くなる。
 最後に、葛城の声だけが残った。

「意識を切らすな。ここは君自身の内側だ」

 意識を再び広げた次の瞬間。

 蓮司は、どこかの廊下に立っていた。

 学校の廊下に似ていた。
 けれど、現実の校舎ではなかった。

 壁には色がある。
 床にも、窓枠にも、掲示物にも色は残っている。

 外界のように、すべてが灰色に沈んでいるわけではない。
 だが、どれも薄い。
 絵の具を水で伸ばしすぎたような色だった。

 蛍光灯は点いている。
 けれど、廊下の奥は暗い。

 窓もある。
 しかし、外は見えなかった。

 ガラスの向こうは、黒く塗りつぶされている。
 蓮司はしばらく黙って、その光景を見ていた。

「ここが……俺の内界か」

「表層だ」

 不意に横から声がした。
 振り向くと、葛城(かつらぎ)修一(しゅういち)が立っていた。

 外界で見るときと同じ、黒いコート姿。
 ただし、輪郭が少し薄い。

 そこにいるのに、どこか遠い。
 この場所に完全には馴染んでいないように見えた。

「先生、薄くねえか」

「ここは君の内界だからな」

「俺の内界だと、先生は弱くなるのか」

「弱くなる、というより干渉しづらくなる。内界は本人の認識が強い。外から入った者は、その影響を受ける」

 蓮司は少し口角を上げる。

「じゃあ、俺の方が有利ってことか」

「間違いではないが、そうとも限らない」

 葛城は廊下を見回した。

「自分に適した環境とも言えるが、相手に自分の心を見られるわけだからな。それに、本人だからこそ見えないものもある」

「自分の心なのにかよ」

「自分の心だからだ」

「面倒くせえな」

「心とはそういうものだ」

 いつもの調子だった。
 蓮司は少しだけ息を吐いた。

 葛城がいつも通りなのは、少しだけ助かる。
 少なくとも、ここが何かとんでもない場所だという感じは薄れた。

 それから、あらためて廊下を見回す。

 ここが、自分の内側。
 そう言われても、まだ実感は薄い。

 もっと禍々しい場所を想像していた。
 黒い刃が突き刺さった荒野や、底の見えない穴など、ティルヴァにふさわしい不吉な場所を想像していた。

 だが、目の前にあるのは学校の廊下だった。

 色は薄い。
 窓の外は見えない。
 掲示物の文字も読めない。

 それでも、形だけなら見慣れた学校の校舎に近い。

「……思ったより普通だな」