心の奥に刃は眠る

 黒沢(くろさわ)悠斗(ゆうと)の内界に入った日から、数日が過ぎた。

 現実の教室は、いつも通りだった。

 黒沢も相変わらず軽口を叩き、誰かに呼ばれれば応じている。

 ただ、以前のように即座には頷かなくなった。
 頼まれると、ほんの一瞬だけ考える。
 その短い間に戸惑う顔を見せることもある。

 白い像に支えられず、自分の足で立とうとしていた黒沢のシンボルが、蓮司の頭に浮かんだ。

 少しは変わったのかもしれない。

 だが、あの像が最後まで黒沢を見ず、どこかへ消えた理由だけは分からないままだった。

 ◇◇◇

 放課後、蓮司(れんじ)はいつものように数学準備室にいた。

 机の上には、例のカードが置かれている。

 ――もう、選ばなくていい。

 現実の紙に印刷された文字は、ただの文字だった。
 黒沢の内界で見たような圧はない。

 それでも、蓮司はその一文を見るだけで、少し気分が悪くなった。

 葛城(かつらぎ)修一(しゅういち)は、カードを指先で押さえていた。

「黒沢の様子は、少し変わったようだな」

「でも、完全に戻ったわけじゃねえ」

「当然だ」

「当然って」

「あれは黒沢の弱さそのものを消したわけではない。君が壊したのは、黒沢の判断を奪い、動きを固定していた構造だ」

「白い像か」

「そうだ」

 葛城はカードから指を離す。

「黒沢が誰かに合わせやすいこと。選ぶことに不安を覚えること。自分で決めるより、人に委ねる方が楽だと感じること。それは、黒沢本人の中にもある」

「そこまでは消してない」

「消すべきものではない」

 葛城の声は冷静だった。

「弱さも迷いも、本人のものだ。こちらが勝手に消せば、それは修正ではなく破壊になる」

 蓮司は黙った。

 正しい話だと思う。
 だが、人の心に踏み込むことをためらわない葛城が「本人のものだ」と言うと、蓮司には少し引っかかった。

 どこまでが介入で、どこからが破壊なのか。
 その線引きが、蓮司にはまだ分からなかった。

「救済団体はどうするんだよ」

 蓮司は机のカードを指した。

「あの像、黒沢の内界から消えたんだろ。団体に潜心者がいるんじゃねえのか」

「可能性は高い。だからこそ、今は様子を見る」

 蓮司は顔をしかめる。

「またかよ」

「まただ」

「悠長すぎねえか」

「拙速に動いて、何をするつもりだ」

「何をって……」

 蓮司は言葉に詰まった。

 救済団体を止める。
 黒沢みたいなやつを増やさない。

 そう言いたかった。

 だが、言葉にすると雑だった。
 救済団体の何を止めるのか。

「誰が何をしているのかも、黒沢以外に同じ影響があるのかも分からない。団体の言葉に救われている人間もいる。分からないまま敵と決めるな」

 蓮司は口をつぐんだ。
 黒沢の件だけを見れば止めたくなる。
 だが、具体的に何をすればいいか、分からなかった。

「今は黒沢の経過を見る。団体については私も調べる。それからだ」

「面倒くせえな」

「精神世界だけで結論を出すな。何度も言ったはずだ」

「分かってる」

「分かっていることと、使えることは違う」

「それも何度も聞いた」

「なら使えるようになれ」

 蓮司は舌打ちした。
 反論したいが、言い返せない。

 確かに、まだ何も分かっていない。
 見えるものだけで動けば、正解が分からなくなる。

 それは、森下の内界でも、黒沢の内界でも思い知った。

 蓮司は無意識に右手を握る。
 ティルヴァ。
 そして、虚滅刃〈エクシティウム〉

 名前は、もう分かった。
 けれど、分かったところで気味の悪さは消えない。

 破滅を招く魔剣。
 精神世界から抹消する刃。

 そんなものが、自分の心から出てきた。
 その事実だけが、右腕の奥に沈んでいる。

「なあ」

 蓮司は右手に目を向けながら言った。

「何だ」

「エクシティウムって名前、本当に先生は知らなかったんだよな」

「知らない」

「俺が勝手に言った」

「そうだ」

「じゃあ、何で俺は知ってたんだよ」

 葛城はすぐには答えなかった。
 蓮司は続ける。

「ティルヴァもそうだ。破滅を招く魔剣とか、縁起でもねえ名前だろ。何で俺の心象具が、そんなもんなんだよ」

 右手の奥が、じわりと重くなる。

「しかも、精神世界からの抹消だぞ。どう考えても、まともな能力じゃねぇ」

 葛城はすぐには否定しなかった。
 しばらくして、ゆっくりと話し出す。

「心象具は、善悪そのままを表すものではない」

「でも、何も関係ないわけじゃない」

「その通りだ」

「いったい、俺の心は何なんだよ」

 葛城は少し考えてから続ける。

「答えを急ぐなと言いたいところだが」

「またそれかよ」

 蓮司はため息をつきかけたが、今回の葛城は少し違った。

「見る方法がないわけではない」

「何を」

「君自身の内側だ」

 蓮司は眉をピクリとあげる。

「俺の内側?」

「君の内界だ」