心の奥に刃は眠る

 白い像が消えると、深層を覆っていた圧迫感も少しずつ薄れていった。

「戻るぞ」

 葛城に促され、蓮司は黒沢の内界を後にする。
 外界を抜け、現実の数学準備室へ戻った瞬間、膝から力が抜けた。

「……きっつ」

 蓮司は椅子に座り込み、震える右手を机の上に置く。
 そのすぐそばに、救済団体でもらったカードが残っていた。

 ――もう、選ばなくていい。

 さっきまでより、その言葉がずっと不気味に見えた。

「高城」

「何だよ」

「さっきの名は、どこで知った」

 蓮司は眉をひそめた。

「さっきの名?」

「虚滅刃〈エクシティウム〉」

 その言葉を聞いた瞬間、右手の奥がわずかに重くなった。
 もうティルヴァは出ていない。
 それなのに、刃の気配だけが手の内側で沈む。

「知らねえよ」

「知らない?」

「ああ。勝手に出た」

 葛城は黙った。
 いつものようにすぐ説明しない。
 それが、逆に蓮司を落ち着かなくさせた。

「先生は知ってたんじゃねえのか」

「名称は知らない」

「名称は?」

 蓮司は、葛城の言い方にひっかかる。

「君の刃に、通常の攻撃とは異なる干渉があることは分かっていた。だが、虚滅刃〈エクシティウム〉という名までは知らない」

「じゃあ、俺が勝手に言ったのか」

 葛城も蓮司の前の椅子に座る。

「心象具の名や能力の名は、外から与えられるものではない。本人の内側から出ることがある」

「俺の中にあったってことかよ」

「そう考えるのが自然だ」

「自然じゃねえよ」

 蓮司は右手を見る。

 虚滅刃〈エクシティウム〉。

 その響きは、知らない言葉のはずだった。
 なのに、口にした瞬間、確かに自分の中から出た感覚があった。

 誰かに教えられた名前ではない。
 思いついた名前でもない。
 もともと沈んでいたものが、必要な瞬間に浮かび上がった。

 そんな感覚。

「あれは、ただの破壊ではなかった。精神世界の根本から消す技だった」

 葛城は、ほんのわずかに目を細めた。

「つまり、君の能力は“抹消”に近い」

「近い?」

「少なくとも、通常の攻撃ではない」

 蓮司は沈黙する。
 心象具には能力があると葛城は言っていた。

 葛城の場合は、遠距離攻撃と補修のように見える力。
 自分の場合は、接近攻撃と“抹消”。

 理解はできるが、感情として受け入れられるかは別だった。

 「……精神世界からの抹消ねぇ」

「……記録しておく必要があるな」

「何をだよ」

「その現象をだ」

 それは、自分の中にあった。

 なら、自分は何者なのか。
 なぜ、あんな力を持っているのか。

 分からないことが増えただけだった。

「エクシティウムは非常に強力だ」

 葛城は話題を戻すように言った。

「今後、内界での使用は慎重に判断しろ」

「言われなくても分かっている」

 蓮司は天井を見上げる。
 蛍光灯の白が目に刺さる。

 現実の白。
 ただの光。

 黒沢の深層も白かった。

「もう一ついいか?」

 蓮司は視線を葛城に戻す。

「あの像、黒沢のものじゃない可能性があるんだよな」

「ある」

 葛城は即答した。

「救済団体の誰かが、潜心者ってことか」

「その可能性もあるが、まだ決めつけるな」

「ここまで来て?」

「あの場所で実際に楽になっている人間もいる。言葉そのものが悪いわけでもない」

「でも、黒沢にはあれがあった」

「だから調べる」

 葛城は机のカードへ視線を落とした。

「まずは現実の黒沢を見る」

「現実?」

「内界で変化があったなら、現実にも小さな反応が出る可能性がある」

「救済団体に行く前の黒沢に戻るのか」

「完全には戻らない」

 葛城は静かに続ける。

「今回したのは、黒沢を囲っていた強い誘導を一部外しただけだ。依存しやすい構造は残っている」

「じゃあ、まだ今みたいなままか」

「もとに戻る可能性はある。別の支えに移るだけで変わらない可能性もある」

「なら、どうすんだよ」

「経過を見る。本人の内界がどこまで再構成されるかを確認する」

 蓮司はため息をつく。

「あんだけやったのによ……」

「我々はヒーローではない。それを忘れるな」

「へいへい」

「返事」

「はい」

 葛城は一呼吸置く。

「高城、今日はもう戻って休め。精神の消耗が激しい」

 蓮司は反論したかったが、素直に従う。

「分かったよ」

 体力的な疲労ではないが、スムーズに体が動かない感覚があった。
 蓮司はゆっくりと立ち上がる。

「黒沢の経過はしばらく観察しておけ」

「観察ねぇ……」

 蓮司は生返事をしながら、数学準備室を後にした。
 遠くで部活に精を出すクラスメイトたちの声が聞こえる。
 校門を出るときにグラウンドを少し覗いてみたが、黒沢はどこにいるか分からなかった。

 あの白い像がどこへ消えたのか。
 救済団体と関係があるのか。

 その疑問だけは、黒沢の小さな迷いとは別の場所で、まだ白く残っていた。