心の奥に刃は眠る

 蓮司(れんじ)の胸の奥が、冷たくなった。
 自分の心臓の鼓動が大きくなったのを感じる。

 遥(はるか)に手を伸ばそうとしたその瞬間――

「蓮司くん?」

 現実の遥の声で、世界が一気に戻った。
 色が、影が、音が、一斉に動き出す。

 昼休みのざわめきが同時に耳へ流れ込んでくる。

 蓮司は廊下の真ん中で立ち止まっていた。

 女子三人と遥が、こちらを見ている。

「何?」

 正面の女子が言った。
 声は明るいが、目は笑っていない。

 蓮司はしばらく黙っていた。

 今見たものは何だ。
 遥の足元にあった黒いものは何だ。
 あの糸は。

 考えても分からない。
 だが、何もなかったことにはできない。

「邪魔」

 蓮司は言った。

「……は?」

「廊下の真ん中で固まんな。通れねえ」

 女子の一人が眉をひそめる。

「何その言い方」

「普通に言っただけだろ」

「感じ悪」

「知ってる」

 蓮司は三人の間を強引に通る。
 遥の横を通り過ぎる瞬間、遥が小さく息を吸ったのが分かった。

 早足にその場を後にする。
 蓮司は振り返らなかった。

 洗い場に向かい、蛇口をひねる。
 水で箸を洗いながら、自分の手が少し震えていることに気づいた。

「……何だよ、今の」

 誰に言うでもなく呟いた。

 箸を横において、思い切り顔を洗う。
 何度も水を顔にぶつける。

 髪の毛から滴る水滴を見つめながら、感覚をまとめる。

 頭はハッキリしていると思う。
 別に身体も不調は感じない。

 じゃあ、さっきのは?

 ブレる葛城といい、色の薄い遥といい、今日は何かがおかしい。

 しばらく、髪から落ちる水滴を茫然と見つめていたが、考えがまとまるはずもない。
 諦めたように、顔をハンカチで拭い、置いていた箸を取る。

 教室に戻ると、いつもの昼休みが続いていた。

 何も変わっていない。
 誰も異変のことを口にしていない。

 蓮司だけが、別の何かを見た。
 そう思うと、胃の奥が重くなった。

 蓮司は席に戻り、弁当を食べた。

 だが、食べている感じは薄い。

 昨日は家事で寝るのが遅かった。
 だから、疲れている。

 説明はつくが、納得はできない。

「何なんだよ……」

 何度目とも知れない、心の声が漏れる。

 分からない。分かるわけがない。

 でも、初めて見た気がしない。

 そのことが一番気持ち悪かった。

 どこかで知っているのか?

 思い出そうとすると、頭の奥が鈍く痛む。
 黒く塗りつぶされた場所に、無理やり手を突っ込もうとしているような感覚があった。

 蓮司は考えるのをやめた。
 理解できないものを、いくら考えても仕方がない。

 けれど、その日の午後はずっと落ち着かなかった。

 自分が見たものは何だったのか。
 そういえば、遥は大丈夫だったのか?
 あの女子三人は何かを迫っていた様子だった。

 考えるのをやめたはずなのに、色々な思考が頭の中で回っていた。

 六限目が終了する。

 終礼を待つ教室は、少し浮足立っていた。
 蓮司も部活はしていないので、鞄に教科書を突っ込み、帰り支度をしながら終礼を待つ。

 そのとき、蓮司の隣の席から声が上がった。

「ない……」

 その声は、教室のざわめきの中でも妙にはっきり聞こえた。

 声を上げたのは森下(もりした)栞(しおり)だった。

 森下は自分のまわりを何度も探っていた。

 机の中。
 鞄の中。
 サブバッグ。

 それらを順番に確認して、だんだん顔色を失っていく。

「財布がない……」

 教室の空気が、静かに変わった。

 財布がない。

 その言葉が教室に落ちた瞬間、誰もが一度は森下の方を見た。

 だが、すぐに動くものは少なかった。
 それがどこまでを意味するのか、測りかねていたからだ。
 初めに動いたのは近くの女子だった。

「え、鞄にないの?」

 それをきっかけに、周囲の女子たちが森下の席へ集まってくる。
 森下は青ざめた顔で首を振りながら答える。

「昼休みにジュースを買ったときはあった。教室に戻って、鞄に入れたところまでは覚えてるけど……」

 教室のざわめきが少しずつ大きくなる。

 なくしただけなのか。
 それとも、誰かが持っていったのか。

 まだ誰も「盗まれた」とは言っていない。
 それでも、財布という言葉だけで、教室の空気は自然と重くなっていった。

「何の騒ぎだ」

 担任が教室に入ってくる。

 森下から事情を聞くと、担任は全員を一度席につかせた。

「まだ盗難と決まったわけではありません。まずは本人の荷物と机の周りをもう一度確認します。皆さんも、自分の荷物に紛れ込んでいないかだけ見てください」

 生徒たちが、それぞれ机や鞄を確認する。
 だが、財布は見つからない。

「昼休みに教室にいた人や、森下さんの席の近くにいた人には、あとで順に話を聞きます。憶測で誰かを疑うようなことはしないように」

 もっともな指示だった。
 だが、それで視線まで止まるわけではない。

 教室のあちこちから、森下の席へ。
 その周辺へ。
 そして、蓮司へと視線が流れてくる。

 蓮司は森下の隣の席だった。
 昼休みには一度教室を出ている。

 それだけで、候補の一人として見られるには十分らしい。

 やがて、席の近い生徒から順に廊下へ呼ばれた。
 蓮司もその中に入っていた。

 担任の聞き方は事務的なもので、責めるような口調ではなかった。
 犯人扱いされているわけではない。

 それは分かっていた。
 それでも、教室から出るときに向けられる何人かの視線は、気分のいいものではなかった。

「分かった。戻っていい。何か思い出したら言いなさい」

「はい」

 蓮司は短く答えて教室へ戻った。

 教室に戻ると、森下はまだ鞄の中を探していた。

 顔色が悪い。

 その後も数人が聞き取りを受け、森下の周辺やロッカーも確認されたが、結局財布は見つからなかった。

 しかし、蓮司には昼休みに見た灰色の光景がちらついていた。

 黒い糸。
 女子三人の影。
 声のない口元。

 あの直前に確か名前が出ていたはず。

「栞も遥なら聞いてくれるしさ」

 栞。森下栞。

 あの会話と、今の財布の件が本当に関係しているのかは分からない。
 あの灰色の光景の違和感もある。

 ただ、無関係だと思うには、少しだけ気持ちが悪かった。