ほんのわずかな動きだった。
肩が揺れる。
伏せられていた顔が、数センチ上がる。
白い布の下に隠れていた足が、床に触れる。
ただ、それだけ。
それだけなのに、白い部屋の空気が変わった。
壁に浮かんでいた言葉は、まだ消えていない。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
考えなくていい。
けれど、その輪郭は薄くなっていた。
部屋全体を満たしていた白い圧が、少しだけ退いている。
黒沢のシンボルは、白い像の腕の中から完全に抜け出したわけではなかった。
像はまだそこにある。
顔のない頭。
白い布をまとった体。
先端の欠けた杖。
半ば断たれた腕。
それでも、像は倒れていない。
黒沢のそばに立ったまま、動かない。
「……断ったのか」
蓮司はかすれた声で言った。
ティルヴァはもう消えている。
維持できる力が残っていないといった方がよい。
腕が重い。
いや、腕だけではない。
胸の奥が、ずしりと沈んでいる。
葛城は白い像を見ていた。
「終わってはいない」
「……まだか」
「だが、変化は出た」
葛城は黒沢のシンボルを指す。
「足が見えている」
蓮司もそちらを見る。
黒沢の足は頼りなかった。
まっすぐ立っているとは言い難い。
今にも膝をつきそうで、自分の体を支えるだけでも危うく見える。
だが、白い布の下にはない。
床に触れている。
自分の足で。
黒沢のシンボルは、ゆっくりと視線を落とした。
自分の足元を見ているようだった。
口元には、まだ笑みのようなものが残っている。
けれど、さっきまでのような空っぽの笑い方ではなかった。
困っているようにも見える。
どうすればいいか分からず、戸惑っているようにも見える。
その方が、まだ黒沢らしかった。
そのとき、黒沢の体がわずかに傾いた。
支えを失ったように。
自分の足で立つことに慣れていないように。
蓮司は反射的に前へ出かけた。
「高城」
葛城の声が止める。
蓮司は足を止めた。
黒沢のシンボルは、倒れなかった。
ふらつきながらも、自分の足で立っている。
だが、白い像は黒沢を支えなかった。
確かに、腕はもうない。
でも、からだで支えることはできるはず。
それなのに、離れていく。
一歩。
また一歩。
白い像は、黒沢から遠ざかる。
「……何でだよ」
蓮司の声は、自分でも思ったより低かった。
あれは、黒沢を守っていたはずだ。
考えなくていい場所を与えていたはずだ。
楽になれる場所を作っていたはずだ。
なのに、黒沢が揺れた瞬間、支えようとしなかった。
像は、黒沢を見ていない。
顔はない。
目もない。
それでも、蓮司には分かった。
白い像は、黒沢から離れようとしている。
黒沢が自分の足で立つことに戸惑っていても、もう腕を伸ばさない。
「先生」
「ああ」
「これ、変だよな」
「おかしい」
葛城の声は低かった。
「黒沢を守るためのものなら、今こそ支えるはずだ」
「だよな」
白い像は、黒沢から数歩離れた場所で止まった。
顔のない頭をわずかに傾ける。
黒沢ではなく。
蓮司たちでもなく。
この部屋の外にある何かを、確かめるような動きだった。
「今、どこ見たんだ」
「……」
「黒沢じゃなかった」
「その通りだ」
葛城は短く答えた。
その直後、白い像の輪郭が揺れた。
砕けたわけではない。
崩れたわけでもない。
白い布の端から、少しずつ色が抜けていく。
像の足元が、床に溶けるのではなく、薄い霧のようにほどけていった。
割れた腕。
欠けた杖。
顔のない頭。
それらが、内界の壁や床へ戻るのではなく、どこか別の場所へ引かれるように細く伸びていく。
蓮司は息を止めた。
「消える……?」
「自然な消失ではない」
葛城の声が低くなる。
白い像は、最後まで黒沢を見なかった。
黒沢のシンボルは、足元を見たまま立っている。
やがて、像の輪郭は完全に薄れた。
そこには、白い布の切れ端と、欠けた標識だけが残った。
さっきまで黒沢を抱いていたものは、もうどこにも見えない。
「……どこ行ったんだよ」
「分からない」
葛城は、像が消えた場所を見ていた。
「だが、黒沢の内界に戻ったわけではなさそうだ」
蓮司の背筋に、冷たいものが走った。
黒沢を守っていたはずのもの。
黒沢を楽にしていたはずのもの。
それが、黒沢が揺れた瞬間に離れ、どこかへ消えた。
像は、ただの内界の象徴ではない。
少なくとも、そう疑うだけの理由がある。
誰かが形を与えた。
誰かが道を作った。
誰かが「選ばなくていい」と囁いた。
そう考えた方が、筋が通る。
「奥へは?」
蓮司は黒沢の背後を見る。
そこには、小さな扉がある。
扉の隙間から、乱れた色が漏れていた。
黒沢らしい、雑で、まとまらない色。
だが、その色はまだ遠い。
「今日はここまでだ」
葛城が言った。
「像はもういない。行けるだろ」
「像が外部からの干渉である可能性が高まった。十分な収穫だ」
「見る必要はないってか」
「それに高城、お前はもう限界に近い」
言われて、蓮司は反論しようとした。
だが、声が出なかった。
足元が少し揺れる。
白い部屋の輪郭が、遠くなったり近くなったりしている。
呼吸も浅い。
自分で思っている以上に、消耗していた。
「戻るぞ」
葛城が言った。
「黒沢は」
「これ以上ここにいても、今の黒沢には触れすぎる」
葛城は黒沢のシンボルを見た。
黒沢はまだ、自分の足元を見ている。
困ったように。
戸惑うように。
それでも、白い布に包まれてはいない。
蓮司は少しだけ息を吐いた。
「……分かった」
戻る直前、黒沢のシンボルの口元がかすかに動いた。
声はほとんどなかった。
ただ、言葉の形だけが落ちる。
(……どう、すれば)
それだけだった。
蓮司は足を止める。
振り返りそうになった。
だが、葛城が先に言った。
「答えるな」
「何でだよ」
「今こちらが答えを与えれば、黒沢はその答えに寄りかかる。依存先がこちらに移るだけだ」
蓮司は口を閉じた。
何か言いたかった。
大丈夫だ、とか。
自分で選べ、とか。
適当な言葉なら、いくらでも浮かぶ。
だが、それを今の黒沢に渡せば、また黒沢はその言葉に寄りかかるかもしれない。
蓮司が、黒沢の答えを決めてしまう。
それでは、白い像と同じだ。
蓮司は何も言わなかった。
少しだけ振り返って、黒沢のシンボルを見つめる。
黒沢は、まだ足元を見ていた。
蓮司は、黒沢に背を向ける。
もう振り返らなかった。
肩が揺れる。
伏せられていた顔が、数センチ上がる。
白い布の下に隠れていた足が、床に触れる。
ただ、それだけ。
それだけなのに、白い部屋の空気が変わった。
壁に浮かんでいた言葉は、まだ消えていない。
選ばなくていい。
迷わなくていい。
考えなくていい。
けれど、その輪郭は薄くなっていた。
部屋全体を満たしていた白い圧が、少しだけ退いている。
黒沢のシンボルは、白い像の腕の中から完全に抜け出したわけではなかった。
像はまだそこにある。
顔のない頭。
白い布をまとった体。
先端の欠けた杖。
半ば断たれた腕。
それでも、像は倒れていない。
黒沢のそばに立ったまま、動かない。
「……断ったのか」
蓮司はかすれた声で言った。
ティルヴァはもう消えている。
維持できる力が残っていないといった方がよい。
腕が重い。
いや、腕だけではない。
胸の奥が、ずしりと沈んでいる。
葛城は白い像を見ていた。
「終わってはいない」
「……まだか」
「だが、変化は出た」
葛城は黒沢のシンボルを指す。
「足が見えている」
蓮司もそちらを見る。
黒沢の足は頼りなかった。
まっすぐ立っているとは言い難い。
今にも膝をつきそうで、自分の体を支えるだけでも危うく見える。
だが、白い布の下にはない。
床に触れている。
自分の足で。
黒沢のシンボルは、ゆっくりと視線を落とした。
自分の足元を見ているようだった。
口元には、まだ笑みのようなものが残っている。
けれど、さっきまでのような空っぽの笑い方ではなかった。
困っているようにも見える。
どうすればいいか分からず、戸惑っているようにも見える。
その方が、まだ黒沢らしかった。
そのとき、黒沢の体がわずかに傾いた。
支えを失ったように。
自分の足で立つことに慣れていないように。
蓮司は反射的に前へ出かけた。
「高城」
葛城の声が止める。
蓮司は足を止めた。
黒沢のシンボルは、倒れなかった。
ふらつきながらも、自分の足で立っている。
だが、白い像は黒沢を支えなかった。
確かに、腕はもうない。
でも、からだで支えることはできるはず。
それなのに、離れていく。
一歩。
また一歩。
白い像は、黒沢から遠ざかる。
「……何でだよ」
蓮司の声は、自分でも思ったより低かった。
あれは、黒沢を守っていたはずだ。
考えなくていい場所を与えていたはずだ。
楽になれる場所を作っていたはずだ。
なのに、黒沢が揺れた瞬間、支えようとしなかった。
像は、黒沢を見ていない。
顔はない。
目もない。
それでも、蓮司には分かった。
白い像は、黒沢から離れようとしている。
黒沢が自分の足で立つことに戸惑っていても、もう腕を伸ばさない。
「先生」
「ああ」
「これ、変だよな」
「おかしい」
葛城の声は低かった。
「黒沢を守るためのものなら、今こそ支えるはずだ」
「だよな」
白い像は、黒沢から数歩離れた場所で止まった。
顔のない頭をわずかに傾ける。
黒沢ではなく。
蓮司たちでもなく。
この部屋の外にある何かを、確かめるような動きだった。
「今、どこ見たんだ」
「……」
「黒沢じゃなかった」
「その通りだ」
葛城は短く答えた。
その直後、白い像の輪郭が揺れた。
砕けたわけではない。
崩れたわけでもない。
白い布の端から、少しずつ色が抜けていく。
像の足元が、床に溶けるのではなく、薄い霧のようにほどけていった。
割れた腕。
欠けた杖。
顔のない頭。
それらが、内界の壁や床へ戻るのではなく、どこか別の場所へ引かれるように細く伸びていく。
蓮司は息を止めた。
「消える……?」
「自然な消失ではない」
葛城の声が低くなる。
白い像は、最後まで黒沢を見なかった。
黒沢のシンボルは、足元を見たまま立っている。
やがて、像の輪郭は完全に薄れた。
そこには、白い布の切れ端と、欠けた標識だけが残った。
さっきまで黒沢を抱いていたものは、もうどこにも見えない。
「……どこ行ったんだよ」
「分からない」
葛城は、像が消えた場所を見ていた。
「だが、黒沢の内界に戻ったわけではなさそうだ」
蓮司の背筋に、冷たいものが走った。
黒沢を守っていたはずのもの。
黒沢を楽にしていたはずのもの。
それが、黒沢が揺れた瞬間に離れ、どこかへ消えた。
像は、ただの内界の象徴ではない。
少なくとも、そう疑うだけの理由がある。
誰かが形を与えた。
誰かが道を作った。
誰かが「選ばなくていい」と囁いた。
そう考えた方が、筋が通る。
「奥へは?」
蓮司は黒沢の背後を見る。
そこには、小さな扉がある。
扉の隙間から、乱れた色が漏れていた。
黒沢らしい、雑で、まとまらない色。
だが、その色はまだ遠い。
「今日はここまでだ」
葛城が言った。
「像はもういない。行けるだろ」
「像が外部からの干渉である可能性が高まった。十分な収穫だ」
「見る必要はないってか」
「それに高城、お前はもう限界に近い」
言われて、蓮司は反論しようとした。
だが、声が出なかった。
足元が少し揺れる。
白い部屋の輪郭が、遠くなったり近くなったりしている。
呼吸も浅い。
自分で思っている以上に、消耗していた。
「戻るぞ」
葛城が言った。
「黒沢は」
「これ以上ここにいても、今の黒沢には触れすぎる」
葛城は黒沢のシンボルを見た。
黒沢はまだ、自分の足元を見ている。
困ったように。
戸惑うように。
それでも、白い布に包まれてはいない。
蓮司は少しだけ息を吐いた。
「……分かった」
戻る直前、黒沢のシンボルの口元がかすかに動いた。
声はほとんどなかった。
ただ、言葉の形だけが落ちる。
(……どう、すれば)
それだけだった。
蓮司は足を止める。
振り返りそうになった。
だが、葛城が先に言った。
「答えるな」
「何でだよ」
「今こちらが答えを与えれば、黒沢はその答えに寄りかかる。依存先がこちらに移るだけだ」
蓮司は口を閉じた。
何か言いたかった。
大丈夫だ、とか。
自分で選べ、とか。
適当な言葉なら、いくらでも浮かぶ。
だが、それを今の黒沢に渡せば、また黒沢はその言葉に寄りかかるかもしれない。
蓮司が、黒沢の答えを決めてしまう。
それでは、白い像と同じだ。
蓮司は何も言わなかった。
少しだけ振り返って、黒沢のシンボルを見つめる。
黒沢は、まだ足元を見ていた。
蓮司は、黒沢に背を向ける。
もう振り返らなかった。
