心の奥に刃は眠る

 白い布が、音もなく床を走った。
 最初は、ただ広がってくるだけに見えた。

 だが違った。
 布は床を覆うと、蓮司たちの足元をすくうように盛り上がる。

「っ!」

 蓮司は反射的に跳んだ。
 さっきまで立っていた床が、白い布に飲まれる。
 床そのものが消えたように見えた。

 足場を奪われる。

 そう分かった瞬間、別の布が横から伸びてきた。

「高城、下がれ」

 葛城の声が飛ぶ。
 蓮司が身を引くと同時に、乾いた銃声が響く。
 葛城の手には、すでにスナイパーライフルがあった。

 弾丸が白い布の根元を撃ち抜く。

 布が裂け、床へ落ちる。
 だが、落ちた布はすぐにほどけ、別の白い帯になって床を這った。

「切っても戻るのかよ」

「切っているのではなく、形を崩しているだけだ」

「同じじゃねえのか」

「違う」

 葛城は短く答えながら、次の弾を撃った。

 白い布が天井から垂れる。
 それが蓮司の背後を塞いだ。

 葛城の弾丸がそれを射抜く。
 裂け目が開く。

「右へ」

「分かってる!」

 蓮司は裂け目を抜ける。
 その直後、白い像が動いた。

 黒沢のシンボルを抱えたまま、像の片腕が伸びる。
 腕の中から、白い杖のようなものが現れた。

 長い。
 細い。
 先端は丸く、武器には見えない。

 だが、それが振られた瞬間、空気が押し潰された。

「っぶねえ!」

 蓮司は身を低くする。

 白い杖が頭上を通過していた。
 遅いように見えた。

 しかし、避けた後で風圧が遅れてくる。
 床の白い足跡が、杖の軌道に沿って砕けた。

「杖まで使ってくんのかよ」

「守るための杖だろうな」

「どう見ても攻撃してきてるけどな!」

「守るために、近づくものを退けている」

 葛城は距離を取りながら、白い像の腕を撃った。

 弾丸は正確に当たる。
 白い腕の表面が割れた。

 しかし、中心までは届かない。
 表面のひびは、すぐに布に覆われて消える。

 像はさらに一歩、こちらへ進んだ。
 そのたびに床の足跡が白く光る。
 先に道ができる。
 像はその道をなぞるように動く。

 黒沢のシンボルは、腕の中でほとんど動かない。
 口元だけが笑っている。

 楽そうに。
 何も考えなくてよさそうに。

「まずいな」

 葛城の声が低くなった。

「この動きは、こちらを取り込もうとしている」

「取り込む?」

「黒沢と同じ状態にするつもりだ。選ばせず、考えさせず、この場に留める」

 蓮司は白い布を見る。
 床を覆い、壁を伝い、天井から垂れる。
 白い部屋そのものが、ゆっくり閉じていくようだった。

「これ、黒沢の意思なのか」

 蓮司が言うと、葛城は一瞬だけ黙った。

 銃声。

 白い布が裂ける。
 葛城はその隙に後退しながら答えた。

「分からない。だが、黒沢本人の意思だけではない可能性が高い」

「どういうことだよ」

「黒沢は楽になりたい。そこは本人の感情だ。だが、我々を排除し、取り込もうとするこの反応は過剰だ」

 白い杖が再び振られる。

 今度は横薙ぎではない。
 床を突いた。
 その先端から、白い足跡が一気に広がる。

 蓮司の足元に、踏むべき場所が勝手に現れた。

 一歩目。
 二歩目。
 三歩目。

 そこを踏めば安全だと分かる。

 だが、踏みたくない。
 踏んだ瞬間、自分の進む先を決められる気がした。

「高城、足跡を踏むな」

「言われなくても!」

 蓮司は足跡の隙間へ跳ぶ。
 だが、そこへ白い布が滑り込んできた。

 足場が消える。
 蓮司の体勢が崩れた。

「しまっ――」

 布が足首に絡む。

 柔らかい。
 だが、ほどけない。

 締めつけてくるわけではない。
 ただ、動きを止める。

 優しく、確実に。

 足首からさらに布が伸び、蓮司の体全体を包み込もうとする。

「っ――!」

 葛城のライフルが鳴った。

 布が蓮司の足首から弾ける。

 拘束が弱まる。
 その隙に、蓮司は足から布を引きはがし、像と反対方向に投げ捨てる。

「あっぶねぇ……」

 蓮司は転びかけながら体勢を戻す。
 そんな状況でも葛城は相変わらず冷ややかだった。

「礼は後でいい」

「言う前提かよ!」

「前に出すぎるな」

「だからってどこに行けってんだよ!」

 白い布は像だけでなく、周りからジワジワと距離を近づけていた。
 蓮司が周囲の白い布に気を取られていた時間は、ほんのわずかだった。

 だが、その短い時間に白い像は蓮司に肉薄していた。
 杖が、蓮司の胸元へ突き出される。

 白い布と同化していて動きが見えていなかった。
 巨体に反して、動きが速い。

 (避けれねぇ!)

 蓮司は咄嗟に右手を開いた。
 黒い輪郭が集まる。

 ティルヴァ。

 重さが落ちてくる。
 胸の奥まで沈むような重さ。
 黒い刃が、蓮司の手の中に形を取った。

「高城!」

 葛城の声が飛ぶ。

 蓮司はティルヴァを横に構え、白い杖を受けた。
 鈍い衝撃。
 刃と杖がぶつかった瞬間、黒と白がこすれ合うように軋んだ。

 蓮司の腕に重さがのしかかる。

「っ、重……!」

 ここが内界だからか、杖の重さからただの杖ではないことが直感的に分かった。
 押し返そうとしても、力が逃げる。

 蓮司はつばぜり合いを中断し、いったん跳び引いて距離を取る。
 そこに、白い布が再び伸び、蓮司の足を包もうとしてくる。

「高城、足元!」

 銃声。

 葛城の弾が足元の布を撃ち抜く。

 白い布の動きは速くない。
 ただ、四方八方から迫ってくるので、厄介だった。

 距離を取っても無駄なら――

 蓮司はライフルで吹き飛んだ白い布の隙間を、一気に駆け抜けて白い像に肉薄する。
 像とすれ違いざまにティルヴァを杖に叩き込む。

 甲高い音が白い部屋に響く。

 だが、それだけだった。
 杖は折れていなかった。

「……っ!」

 杖の表面にはティルヴァの黒い線が残っていたが、白い光がそれを徐々に塞いでいた。

「ティルヴァを防ぐのか!」

 蓮司は驚愕しながら刃を構え直す。

「恐らく、信じる力が強いな。心の世界では信じるものがあるほど強力だ」

「この状況で分析かよ!」

「分析しなければ、この状況は変わらん」

 像の杖が振り下ろされる。
 蓮司は再び刃で受ける。

「ぐ……っ」

 重い。
 衝撃で膝が沈む。
 何とか頭を上げると、白い布が横から伸びてきていた。

 葛城が撃つ。
 布が裂ける。

 葛城の的確な援護がなければ、蓮司はとうに白い布に捕まっていただろう。
 だが、白い布は更に数を増やしている。
 援護が間に合う量ではなくなってきていた。

 弾丸に撃ち抜かれた布は二本に分かれ、左右から回り込んでくる。

「多すぎる!」

「中心を見ろ」

「またそれか!」

 蓮司は後方に跳躍しながら白い布をかわす。

「何が黒沢を固定している」

 蓮司は像を見る。

 白い布。
 白い杖。
 床に現れる足跡。
 壁に浮かぶ文字。

 すべてが一緒になって迫ってくる。
 どれも攻撃に見える。

 だが、目的は一つだった。

 近づかせない。
 考えさせない。
 選ばせない。

 黒沢を、白い像の腕の中に留めておく。
 そして、蓮司たちさえも同じ白に包もうとしている。

 蓮司は息を吸った。

 ティルヴァを握り直す。
 目の前に迫る布を切り払いながら感覚を広げる。

 白い布を切る。
 違う。

 杖を折る。
 それも違う。

 像そのものを狙う。
 それも違う。

 黒沢の気持ちまで否定するつもりはない。

 楽になりたい。
 誰かに頼りたい。

 それは黒沢の中にある。
 断つべきなのは、そこではない。

 黒沢の代わりに道を決めているもの。
 黒沢の足を隠しているもの。

 黒沢の「楽になりたい」を利用して、選ぶ前に答えを置いているもの。

「高城」

 葛城の声が聞こえた。

「見えるか」

「ああ」

 蓮司は白い像の腕を見る。
 そこから伸びる布。
 黒沢の足元へ絡み、床の足跡とつながっている根元。

 杖の先端も、同じ場所へ白い光を流している。

 像の中心ではない。
 黒沢の胸でもない。

 布と足跡と標識が結びつく一点。
 そこが、黒沢の代わりに道を作っている。

「狙いは?」

「像じゃない」

 蓮司は言った。

「黒沢を包んでる布と、先に道を決めてる足跡。そいつらの根元だ」

「理由は」

「黒沢の気持ちは残す。楽になりたいって気持ちまで、消す気はねえ」

 白い杖が突き出される。

 葛城が撃つ。
 弾丸が杖の軌道をわずかに逸らす。

 その隙を、蓮司は走った。

 白い足跡を踏まない。
 用意された道を行かない。

 床の隙間を、自分で選んで踏む。

 白い布が足元を狙う。
 蓮司は跳ぶ。
 着地と同時に、別の布が肩へ伸びる。

 ティルヴァで払う。
 しかし、布は刃に絡みついた。

 重い。

 ティルヴァの輪郭がわずかに沈む。

「くそっ」

 白い杖が正面から迫る。

 葛城のライフルが続けて鳴る。

 一発目が杖の先端を弾く。
 二発目が蓮司の刃に絡んだ布を撃ち抜く。
 三発目が床の足跡を砕く。

 道が開いた。

「今だ」

 葛城の声。
 蓮司は前へ出る。
 壁の文字が一斉に揺れた。

 選ばなくていい。
 迷わなくていい。
 任せればいい。
 考えなくていい。

 その言葉が白い光になって、蓮司の視界へ流れ込む。
 一瞬、足が止まりそうになる。

 楽だ。

 考えなくていいのは、楽だ。
 選ばなくていいのは、楽だ。

 間違えなくて済む。
 傷つかなくて済む。
 誰かのせいにできる。

 その甘さが、胸の奥に入り込んでくる。
 蓮司の右手の中で、ティルヴァが揺れた。

「高城」

 葛城の声が、白い部屋を切った。

「見失うな」

 蓮司は顔を上げる。
 黒沢のシンボルが見えた。

 白い像の腕の中で、動かずにいる黒沢。

 口元だけが、楽そうに笑っている。
 けれど、足は白い布に隠されている。

 自分の足で立っていない。
 自分の道を踏んでいない。

 蓮司の中で、言葉が形になる。

「自分で選んだ道なら、文句はねえよ」

 声が、自分でも思ったより低く響いた。
 白い布が蓮司の足元に迫る。

「誰かに言われたとしても、考えた上で選んだなら、それは黒沢の選択だ」

 蓮司は布を切り裂きながら、白い足跡を見る。

 床に並んだ、先に用意された足跡。
 そこをなぞればいい。
 迷わなくていい。
 選ばなくていい。

「でも、これは違う」

 蓮司は足跡を避け、さらに踏み込む。

 右手の刃に、闇が集中する。
 刃のまわりの空間が歪む。
 
「選ぶ前に道が置かれてる。迷う前に、答えが渡されてる」

 白い像が、黒沢をさらに強く抱いた。

 いや、強く見えない。
 優しく包み込むだけだ。
 だが、その優しさが黒沢を動けなくしている。

「これは、つくられてる」

 蓮司は跳ぶ。

「そこに、お前の意思がない」

 黒沢の「楽になりたい」という気持ちまで否定するつもりはない。
 でも、その気持ちを利用して、黒沢から選ぶ力を遠ざけているもの。

 断つべきなのは、そこだ。

 蓮司のまわりだけ、白から黒へと染まっていく。
 空間の歪みが大きく広がる。

「考えなくていいって」

 蓮司は低く言った。

「それは救いじゃねえだろ」

 ティルヴァの刃が、漆黒に沈む。

 今までのただ重い刃ではない。
 刃の内側に、何かが集まっていく。

 名前。
 意味。

 自分が何を終わらせるのか。
 それを定める感覚。

 蓮司は、刃を振りかぶる。狙いは一点。

 白い像の腕から伸び、黒沢の足元と、床の足跡と、標識をつないでいる根元。
 そこだけを見る。

 ティルヴァの闇が一段と濃くなる。
 もはや影も何も見えなくなっていた。

 蓮司の中から、自然と言葉が上がってくる。
 初めて、蓮司の口から名前として外に出る。

「虚滅刃――」

 黒い刃の周囲から、音が消えた。
 白い布が止まったように見えた。

 葛城の銃声すら、遠のく。

「エクシティウム――!」

 蓮司は刃を振り下ろした。

 斬った感覚はなかった。
 砕いた感覚でもない。
 そこにあった意味が、抜け落ちるような感覚だった。

 だが、一拍遅れて、黒い断面が白い空間に刻まれる。

 それは光ではなかった。
 影でもなかった。

 そこにあったものが消されていた。

 白い布の上を、黒い裂け目が走った。
 布を焼くのでも、押し潰すのでもない。

 ただ、そこにあった意味だけを断ち切り進んでいく。

「黒沢!」

 黒い断絶は、黒沢のシンボルと白い像の間を走り抜けた。

 白い像の腕が断たれる。
 腕にあった杖が絶たれる。
 白い布が裁たれる。

 それは静かな斬撃だった。
 音はなかった。

 だが、確かにそこにあったつながりだけが断たれていた。

 黒い斬撃が通り抜けた後に、束の間の静寂が訪れる。

 蓮司は思い出したように息を吐いた。

「っはぁ……はぁ……」

 右手の感覚が遠い。
 刃を握っていたはずの指先が、自分のものではないように震えていた。
 息を吸いながら、自分が放った後の光景を見る。

 斬撃が通った跡だけ、白い空間に黒い溝が残っていた。

 黒沢のシンボルは無事だった。
 横の白い像も半壊しているが、原型はとどめている。

 その顔のない頭が傾き、少しだけこちらを向いた。

 次の瞬間、黒沢を包んでいた残りの布がほどけた。

 肩を覆っていた布が剥がれる。
 腕を押さえていた白が落ちる。
 足元を隠していた布が、床へ崩れる。

 先に用意されていた足跡が、薄く割れた。

 白い標識にも亀裂が走る。
 矢印が歪み、形を失っていく。

 だが、白い像そのものは消えなかった。

 杖の先端は欠けている。
 それでも、像はそこに立っている。

 黒沢の「楽になりたい」という気持ちは、まだそこにある。

 蓮司はそれを見て、息を吐いた。
 全部を消したわけじゃない。
 消えたのは、黒沢の代わりに道を置いていたもの。
 黒沢の足を隠していたものだけだ。

 白い部屋が揺れる。
 壁の文字が一斉に薄くなる。

 文字はまだ残っている。
 だが、命令のような強さは消えていた。

 黒沢のシンボルが、白い像の横で少しだけ身じろぎした。

 初めてだった。

 ただ抱かれているだけだった黒沢が、自分で動いた。

 ほんの少し。
 肩が揺れただけ。

 顔がわずかに上がっただけ。

 それでも、動いた。